無理なんだい

小狸

短編

 あらゆる全てが「無理」になる瞬間というのが、私にはある。


 それはかえる現象だとか、そんな安っぽい言葉では言い表すことができない。


 とにかく、「無理」なのだ。


 それは誰かのせいではない。


 突き詰めるのなら、私のせいである。


 私自身が、他のものを一切「無理」になっているのだ。


 一応、誤解無きよう注釈しておくと、誰も悪くない。


 誰のせいでもない。


 それは分かっているけれど――否、分かっていても、その理解、納得すらも「無理」に含まれるのである。


 あー、無理だこりゃ。


 そう思った途端、やる気も根気も


 零になる――とは、比喩ではなくマジである。


 立っていることもままならなくなる。


 卒倒とか貧血とかとは、似ているが少し違う。


 どうでも良くなるのだ。


 社会人として、人間として当然身につけている規範や規則、例えば電車内では大声を出さないとか、寝っ転がらないとか、学校でも習わないような当たり前のことすら、できなくなる。


 何もできなくなる。


 何の役にも立てなくなる。


 恐らく、人よりも少々限界に至るまでの容量キャパが少ない、ということなのだろうが――あまり言及し過ぎると、病名とか付きそうなのでこの辺にしておく。



 そうなると社会人としての沽券こけんに関わるので、できるだけその「無理」が顔を出さないように、職場では色々と工夫をしている。


 おかげで仕事中は、「無理」は引っ込んでいる。


 その反動で、家に着くと、どっと「無理」になることが多い。何とか「社会人として当然」という名目を頭に入れて、化粧を落としたり、シャワーを浴びたり、スーツをちゃんとハンガーにかけたりする。


 部屋はできるだけ、綺麗に保っている。


 一度「無理」になると、とことん何もできなくなるのだ。


 それは掃除や生活も含まれる。


 だからこそ「無理」でない時に、出来る限りのことをして、「無理」の閾値を超える前に、生活上最低限のことを終えておくのである。


 やはり身体に疲労が溜まっている時に「無理」は来やすい。


 就活のシーズンになると、土日に駆り出されたり、出張が増えたり、色々と環境が変わることがある。


 そうなったときが、一番怖い。


 例えば普段とは違うビジネスホテルなんかだと、いつもの「無理」が早くに訪れる。下手するとお風呂場で気絶しかねない。清掃員に迷惑をかけるわけにもいかないので、その時は余計に注意している。


 そして注意するからこそ、余計神経のすり減りというのも多くなる。

「無理」に身体も心も近付くのだ。


 まあ、出張や土日出勤の無い仕事を選べよという話ではあるが、こればっかりは仕方がない。私も配属された時には、極力そういうものが少ない部署だったのだ。


 ただ、やっぱりそこは社会人、そこに絶対というものはない。


「あー、やば」


 と。


 自宅のお風呂に浸かりながら、何となく口から漏れ出た。


 今日は一段と疲れた日だった。


 早めに仕事を終えて帰れるかと思ったその時に、上司の仕事を手伝うことになったのである。まあ悪い人ではないのだが、仕事の速度はあまり早い上司ではない。私はそれを手伝った。その結果、帰りの電車が人身事故で止まり、いつもより一時間半ほど、帰宅が遅くなってしまった。あとは満員電車のストレスとか、駅付近での大音量のライブへの苛立ちだとか、いつも買っている割引のお惣菜が売り切れだったとか、代わりに買ったほうれん草のおひたしがあんまり美味しくなかったとか、もろもろの積み重ねである。


 今日お風呂にしたのは、失敗だったかもしれない。


 シャワーで良かったな、これ。


 確かに疲労回復の効果はあるかもしれないし、それを狙ってお風呂を沸かしたけれど、それによって余計「疲れ」を実感できてしまった。


「これは――」


 、と。


 口に出そうになって、危うく止めた。


 危ない、危ない。


 自宅のお風呂で溺死する二十代後半女性が爆誕してしまうところだった。


 いつもより早めに上がった。


 そうしなければ、浴室で「無理」が出てしまいそうだった。


 化粧水、美容液、乳液、保湿クリームを塗って、髪を乾かした。


 学生時代は、髪が長い時期もあった。


 その時は乾かすのが面倒だったけれど、今はすっぱり短くした。


 今度は短いと短いで、ケアするのに手間が掛かるのだ。


 寝ぐせもひどいしね。


 ただ、乾かす分には丁度良い。


「あー」


 と、口から言葉が漏れ出るのを自覚しながら、明日用のアラームをセットし、明日必要な服などを揃えて、半ばふらふらとしながら、ベッドにダイブした。体重は軽い方だし、ここの賃貸の床は頑強なので、下の階の人も、一瞬の揺れは気にしまい。


 ってか許して。


「無理」


 そう言って。


 私は、眠りについた。


 令和れいわ5年の11月7日のことである。


 おやすみなさい。


 今日も私は、がんばった。


 明日の私も、がんばろう。




《Ms. Impossible》 will do her best tomorrow.

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