フロマージュ
「フィ、フィバス……?」
「怪我はないな。あーあ、バレちった。いっそローマン先生と呼んでくれ。はは」
ゆったりと入ってきたフィバスは、倒れた絵を見下ろしてふざけた。まだ何も描かれていない、まっ白なキャンバスだ。
「カジ、お前の絵は?」
「……展示スペースにある」
「なら奧で話そうぜ。そこのベイビーちゃんも一緒に」
「アタシはアブチャン。ハーブから生まれた酒の妖精よ」
「知ってる」
アブチャンと顔を見合わせ、先に進むフィバスを追った。混乱しているのは僕だけではなかった。絵を描かないフィバスがアブチャンを知っているだなんて、どういうことだろう。
「こりゃ素晴らしいのひと言だな」
フィバスは僕の絵を見てそう言うと、平置きされた本の上に座った。僕は友を前にして言葉をなくしてしまい、ただ立ち尽くすだけだった。
「どこから話すかな」
いたずらっ子を見付けた大人のように、にやにやとあごをさすった。僕は悪さをした子供さながら、盗みを見つかった気まずさと申し訳なさに、下を向いてもじもじとした。
「ローマンて、あなたのことだったのね」
割って入ってきたのはアブチャンだ。
「ああ。正確には俺の親父の名前だ。昔は、少しは名前のある画家だったんだぜ」
「この絵はどういうことなの。大きいばかりで、何も描いてないじゃない」
「俺は筆なんか持ったことすらないよ。キャンバスの発注だって、まあでかいぶんにはいいだろうと最大サイズを頼んだら、まさかこんなのが来ちゃうんだもんなあ」
眉間にしわを寄せるアブチャンをよそに、フィバスはケラケラと笑った。
「俺の親父は酒の飲み過ぎで死んだ。アブチャマが止めても無駄だった。アブチャマってのはまあ、その子の親せきみたいなもんだ。俺はそのときまだ子供で、見ていることしか出来なかった」
唐突に語り始めたフィバスは心で泣き、傷付いた顔をしなかった。
「でもな、カジ、俺はお前が死ぬのを見ていることなんか、できないよ」
フィバスは僕より先にアトリエに現れたアブチャンの存在に気付いたと言う。まだ幼かったフィバスの前にアブチャマが現れたのは、父親の死期が近付いてからだった。そしてフィバスの中で僕の未来と父親の過去が重なり、この計画を思いついたのだ。
「近所で無名の画家が展示会をすれば火が付と思ったんだ。ミラへの未練が消えていないのを知っていたし、ハーブの妖精の性格も知っている。芸術家を飲酒から遠ざけ、守りたがってるってのをな。だから、カジが乗り気じゃなくとも、アブチャンが焚きつけるだろうって期待した。ま、盗まれるとまでは思わなかったけど。作品ごと入れ替えとは、お前もなかなか大胆だな。見直したよ」
フィバスはひとつ、ため息をつき、僕の絵をもう一度見た。
「搬入のあと、不法侵入の妖精に気が付いて、これから何かあるなと思った。成り行きを見てたら、お前がすっころぶもんだから、思わず出てきちまった。この本屋の主人はお前のこと知ってるだろ? 明日の朝になってローマンのキャンバスがまっ白だと知ったら、慌ててお前の絵を借りに行くだろうってのが、俺の作戦だった。お前がアブチャンとアトリエに引きこもってたのは知ってたから、絶対に描いてると確信してた」
製作中、何度かノックがあった。僕のアトリエをノックする人間はクロードしかいないと思っていたから、迷わず居候をした。しかし思い返せば、僕の名を呼ぶあのしつこい呼びかけはなかった。
「フィバス……」
「なんだその顔。感動したか? これ、アブサンなしで描けたんだろ。やっぱりお前の才能は本物なんだよ。俺の想像した結末とは違うけど、結果オーライだ。外にカゴ車が置いてある。さっさとずらかろう」
フィバスは蹴り飛ばすように巨大キャンバスを外に出し、来たときのようにカゴ車に乗せた。展示スペースには、僕の絵が残っている。
「そのままにしておけよ。もともと金を取るような展示会じゃないんだ。アブサンの呪縛を断ち、お前の寿命が延びた。俺はもう、満足だ。あとは流れに任せよう」
「ミラは僕の絵だと気付くだろうか」
「……お前の執念が芸術に向いてほんとよかったよ。下手すりゃストーカーだ」
「そんな!」
「ふわあ。お前のせいで徹夜だよ。とりあえず、アトリエに行こうぜ。熱いコーヒーを淹れてやるから、少し眠って、起きたらまた話そう」
はちゃめちゃだ。ミラに見てもらえないのなら、僕は一体、なんのために描いたのだろう。
「カジ、よく聞け。お前の世界は、お前が思ってるより、ずっとずっと広がってるよ」
はっとして、白む空を見上げた。フィバスが僕を見て笑う。世界が少し、綺麗だと思った。この傷みを引きずったまま、僕は一生生きるのだ。認めることが怖かった。僕がどれだけ辛くとも、この世は美しい。
「うっ……うっ……うう……」
「帰ろう」
僕の背を押すフィバスの手の熱が、胸の中の冷たいものを溶かして、涙になって溢れた。
バーボンでも、アブサンでもない。今の僕を癒すのは、友人のコーヒーだけだ。傷みはまだ、消えないが、僕は恵まれているのだと分かる。その事実に安心して泣きながら、ふたりでカゴ車を押し、同じペースで歩き始めた。
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