アミューズブーシュ

 便器を抱えて一日が終わった。


 しらふではキャンバスに向き合えず、かといって飲めば指が震え筆を落とした。生活に馴染んだ絵の具の匂いすら、今は吐き気を助長させるだけだった。


 胃液すら出なくなり、えずくだけになったころ、ノックもなくドアが開き、床に散らばった画材を蹴りよける音がした。


「カジ! 来たぞ」


 旧友のフィバスは鍵のかからない僕のアトリエを出入り自由のたまり場だと勘違いしている。良くも悪くもおおざっぱな男で、根暗な僕とは正反対の性格だ。


「汚え。すっかり芸術家気どりだな」

「僕はもう死んでしまいたい」

「おお。お前は死後に評価されるタイプだよ。早く死ね」

「ううう!」


 お調子者のフィバスは、笑いながら窓を開け放った。夜風が吹き込み、むき出しの紙幣とほこりが舞う。散らかったアトリエの真ん中には、イーゼルに乗った一枚の絵がある。


「あれ、もう仕上がってんじゃん」

「今朝、目が覚めたら完成してた」

「依頼者はサウスサイドの金持ちだろ? いくらになった?」

「五」


 めまいをこらえて立ち上がり、壁を伝ってバスルームを出た。むかつくほど見てくれのいい男が、僕を見てヒュッと口笛を吹いた。嫌味だろうか。


「大先生だな」

「金なんかどうでもいい」




 そう、本当に、何もかも、どうでもいい。


 僕の人生が変わったのは、ささいな出来事がきっかけだった。けれど僕の本質は変わっていない。それはなによりも、ミラを大きく変えてしまった。


 穏やかな日曜のことだった。公園で風景画を描いていると、ひとりの老人に声をかけられた。こうして散歩中の人に話しかけられることは度々あり、大抵は一言二言あたかい言葉をもらいさっぱりと別れていく。しかし老人は僕の隣に座り込み、大げさなほど褒め称えた。そして「君には才能がある」という導入から、金とビジネスの話をした。老人が熱く語るほど僕の胸は冷え、早くいなくなってくれと思うばかりだった。ホットワインを買いに行っていたミラが戻り、ようやく解放されたと未完成のキャンバスに向き合うと、ミラと老人が二人で話し始めた。僕はそれを不思議に思ったが、すぐに描きかけの絵に夢中になり、まわりのことが見えなくなってしまった。


 その日の夜、夕食の支度をしていたミラが、クロードさんに絵の売買を仲介してもらおう、と言い出した。早くも出来事を忘れていた僕はぽかんとしてしまい、公園の老人のことだと言われるまで思い出せなかった。仕事を持ち、恋人と暮らす家もある僕は、趣味の絵を売るだなんて興味がなかったのだ。


「挑戦してごらんさいよ」

「君がそう言うなら」


 強く断る理由がないだけだった。完成した絵には何のこだわりもなかった。描いている時は楽しい。あとはミラに見せ、感想をもらい、また新しいキャンバスに向き合う。その繰り返しが心地良かった。




 依頼が来るようになっても僕はひたすら描くだけで、売買のやりとりは全てミラが請け負った。クロードが画集や写真を持ってきて、こういうのが流行ってるから、と求められて描く絵は飛ぶように売れた。何が良いのかは今でも分からないが、ミラが喜ぶから描き続けた。


「こういう絵を、あの画家みたいに描いて」


 ミラにまでそう言われると悲しくなった。

 本業も辞めさせられ、不安定になった僕は、ある日突然、リクエストに応えられなくなった。兆候もなく、気分転換に公園に出かけてもだめだった。次の日も、その次の日も筆が持てず、少し休みたいと思ったが、ミラの取り乱しようが半端ではなく、とにかく何か描こうとキャンバスにかじり付いた。ぼう然とした。知らない言語を文字に起こそうとするように、何も描けなくなっていた。


 ブランク中、ミラは描きためた過去の絵を売った。もういいわよねと、記念日にプレゼントした彼女のポートレイトまで金にしてしまった。


 優しく声をかけられても、内心イライラしているのが分かって辛かった。ミラの期待に応えたい、でも描けない。筆に何色を含ませればいいのか分からない。白いキャンバスの前に立ち尽くしていると、空っぽのアトリエに舌打ちが響いた。描けなくなった僕を捨て、ミラは振り向かず出て行った。


 


 大抵の傷みは眠れば癒えるという母の教えから、その時を待ちひたすら失意の底に横たわった。フィバスは愛を持って僕を放っておいてくれたが、ミラという中継地を失ったクロードは見舞いの体で頻繁に様子を見に来た。そして「気晴らしに」と差し入れられた酒をやけくそであおり、飲めば絵が描けると気が付いた。けれど、ミラが消えた後では、どうでもいいことだった。

 回復したら仕事を探すつもりでいたが、胸の痛みは増すばかりで、食べるために仕方なく酒を飲み、筆を取った。その日一日生きることだけを考えて描き続けた。嫌々だった飲酒も日常となり、僕はいつしか天才と呼ばれるようになっていた。


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