オードブル
「これ食えよ。残り物で悪いけどさ。キッチン借りるぜ。コーヒー淹れてやるから」
フィバスがキュウリのサンドイッチを投げてよこした。食欲がなく、とてもすぐには食べられないが、コーヒーは少し魅力的だった。
イーゼルの絵が不自然に存在感を放っている。明日クロードが受け取りにくる依頼品だ。酒のせいで記憶がないが、昨日僕が仕上げた。今日一日中吐いて過ごしたが、その代償がなければ自分が描いたとは信じることが出来なかった絵だ。記憶の抜け落ち方は清々しく、今朝、突然現れた完成品を見て心底ゾッとした。夢遊病の自分の姿を見るようで不気味だった。
僕を現実世界に引き戻すように素晴らしい香りが漂ってきた。それだけでも頭痛が少しマシになる。カップを手渡され、濃く熱い液体を口にした。
「落ち着いたか?」
「ああ」
「俺が来てよかったろ」
そう言ってケラケラと笑った。両親を早くに失ったフィバスは兄弟が多く面倒見がいい。口が悪くやかましい男だが、最後には来てくれてよかったといつも思わされる。
「もう、飲むなとは言わない。ただ、飯は食え。じゃあまたな」
元気なフィバスがいなくなると孤独が際立つ。ひとりの夜の静寂に、気分がどんどん落ちていく。このままではまた死にたくなると、床をはって酒のボトルを掴んだ。キャップを投げ捨て、直接口を付けた、その瞬間。
「フィバスって素敵ね」
幻聴にしてはクリアな声に、思わず部屋を見回した。するとどうだろう。飲みかけバーボンのグラスのふちに、親指サイズの女の子が座っている。目が合った。
「こんばんは」
「あ……え……」
ついに頭がおかしくなってしまったのだろうか。いや、まだ昨日の酒が残っているに違いない。そうでなければ、こんなことはありえない。
「アタシはアブチャン。ハーブから生まれた酒の妖精よ」
ようせいって、あの妖精だろうか。信じがたく、目をこする。確かに少女がライトグリンのアゲハチョウを背負っているように見える。そして、僕の手にはボトルがある。たまたま一番近くに転がっていたから掴んだ。アブサンと呼ばれる緑色の酒だ。原料は確か……
「……ハーブ?」
「アブチャンと呼んで」
ぷるっと羽を振るわせ、スカートからはみ出た足を大人のような仕草で組み換えた。
なるほど、どういうことだ。
「……寝る」
「いい子ね。お酒は楽しく、ほどほどに。シャワーは明日の朝でいいわよ。おやすみなさい」
疲れていることは間違いない。全てを放棄して床にうずくまった。
子守唄が聞こえる。まるで上等なアブサンのように爽やかで透き通る歌声だ。慢性頭痛が治まり、スムーズに眠りに落ちていった。久しぶりに深く眠り、夢を見る夢を見た。
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