予兆
木々のざわめきが聞こえる。小鳥のさえずりと葉が風に擦れあう音を聞きながら、恵菜は森の中の澄んだ空気に身を委ねていた。木々の隙間から覗くのは青空で、降り注ぐ日差しが木漏れ日を作り地面でゆらゆら揺れている。ふと足元を見ると、自分の履いている靴がえらく小さいことに恵菜は気付いた。真っ赤なそのスニーカーは土で汚れていて、森の中を長いこと歩いたのだとわかる。恐る恐る自分の手のひらを見れば、縮んでいたのは足だけではないのだと分かった。視線の位置も腰くらいしかなくて、体ごと子供に戻ってしまったようだった。これは夢なんだろうか。木の根が剥き出しになった地面、苔むした岩場は濃緑に覆われ、そのかたわらをさらさらと流れる清流。それに既視感を覚えた時、視線の端に汚れた小さな祠が映る。苔や土にまみれたそれを見て、頭の芯が鈍く痛んだ。何か大事なことを忘れているような気がする。けれど何も思い出せない。
不意に、ずり、と何かが地面を這う音がした。湿った重たいものが身を引きずるような音に反射的に喉がきゅっとしまる。背後にそれが迫っていると知っても、まるで何かが全身に巻き付いているかのように動けない。ずるずる、と近づいた大きな影が、ついに自分に覆い被さった。息遣いまでもが耳元で感じられるほど、近い。
「愛いのぅ。ようやくこの時が来た」
鼓膜にねっとりと絡みつくような声。臓腑に沁み入るような深みのある低音は、初めて聞いたはずなのにどこか懐かしさを感じさせて。背後から真っ白い手が伸び、優しく恵菜の小さな手のひらを握った。まるで血の通っていなさそうな生白い肌は少し湿って、ひんやりとしていた。ふと見やると、その肌の表面には鱗のようなものが光り、ぬめっとした銀色の光を静かに返していて――
そこで目が覚めた。気づけば電車は実家の最寄り駅に到着しかけていて、危うく乗り過ごすところだったと肝を冷やした。手早く荷物をまとめて駅を出る。夢を見ていた気がするが、細かいことは忘れてしまった。ただ銀色に光る鱗のようなものが美しかったことだけは覚えているが、あれが何だったのかは分からない。しばらく記憶をたどったが、早々に諦めた。
少し歩みを進めると、トレードマークと言わんばかりに実家の寺の大きな門構えが見えてくる。地元ではそこそこ由緒ある寺のため見てくれは一応立派だった。げんなりしながら入ろうとすると、突然背後から話しかけられる。
「あら恵菜ちゃんでねえの!久しぶりだねえ、最近見かけねもんだから心配してたんだよ」
檀家のおばさんだった。会うのは数年ぶりだったがおしゃべり好きは変わっていないようで、口を開いた途端マシンガンのようにしゃべり出す。コンビニを探すのですら苦労するような田舎だから、普段見ない姿を見かけただけでも相当な話の種になるんだろう。おばさんのものすごい勢いにやや気圧されつつも適当に愛想笑いで流す。
「やっぱハイカラさんだねえ、東京の娘っ子ってのはみんな綺麗なのかね。いやあけど恵菜ちゃんは昔っから相当な美人さんだったよねえ、こんなに器量の良い娘っ子はうちの村にいねえから、みんなこぞって嫁に来てほしいなんつってねえ」
「あ、あは、どうも…………」
「ま、けど恵菜ちゃんとこはお寺さんだから!やっぱ婿とるんだべ、いい人来てくれるといいね。つうかてっきり、東京で見つけてくるとばっか思ってたけども。んだ、お母さんから聞いたよ、東京でもなかなかいい人見づがらねえらしいじゃないか。なんでだろねえ、こんなべっぴんさんなのに」
作り笑いを無理やり顔に貼り付けていたものの、最後の一言で安全に笑顔が引き攣った。やばい、絶対この感じだと近所中に私がいまだ独身で相手がいないことが知られている。初婚が早い地域柄、20代後半で独身だとこの辺ではかなり珍しいため、確実に話の種にされる。恵菜は苦虫を噛み潰したような顔でマシンガントークをひたすらいなした。
絶対母親だ。昔からそうだった、交友関係やら進学先やら就職先まで気づけば檀家さんには筒抜けなのである。これが早々に実家を出ようとした原因の一つであるわけで。
なんとかおばさんの話をやり過ごすと、軽く挨拶をしてようやく家へ入る。もう帰る前からすでにぐったりとしていた。
門をくぐり抜け、玄関の引き戸を開けると久方ぶりの実家の匂いが鼻腔をついた。長く伸びる板張りの廊下の奥、居間に向かってただいまと言うと、母親の機嫌よさそうな声がする。キャリーケースを玄関に引っ張り入れようと足元に視線をやった時だった。白い何かを見た気がして、不審に思い目を凝らす。そして危うく気を失うところだった。
蛇。白い蛇が、恵菜の右足首にしゅるりと巻き付いていたのだ。思わず悲鳴をあげると何事かと母親が駆け寄ってくる。
「何があったの?帰ってきて早々騒がしい子ねえ」
「だって!蛇!蛇いる!白いの!」
「蛇……?」
母親が訝しげに玄関のあたりを探す。恵菜も周囲を見回すものの、先ほどの蛇はなぜか忽然と消えていた。どこかに隠れているのかと下駄箱の下や傘立ての中も見たが、どこにもいない。
「何が見間違いでもしたんでねえの、びっくりさせてもう」
「おかしいな、さっき本当に……」
「まぁいたらいたでいいでねえの、白蛇なんて縁起いい生き物でしょうよ、そう気にせんで」
虫や爬虫類に慣れた母は蛇程度気に留めもしなかった。見間違いだろうということになり、その後も特に出てくることはなかったので、恵菜も怪訝に思いつつも忘れることにした。
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