異形

のっさん

第1話 伝記「フィル・ゼロの一生」より

 最古の記録は西暦565年、アイルランド出身の聖職者の伝記で言及された発見報告といわれている。

「スコットランドのネス湖には怪獣が住んでいる。」

この噂は瞬く間に世界中に広がり、様々な証拠とともに注目の的となった。しかし、証拠のほとんどが偽物であったことが判明したと同時に、人々は興味を失っていった。

 ここに一人の男がいる。名前はフィル・ゼロ。とても頭の回る男だが、一方で妄想癖があり、1度決めたことは押し通す頑固さを持っていた。要するに

”有能だがひどく厄介な男”

である。フィルは愛する家族がおり、研究者として働き得た他人を従えられるだけの富と権力を持ち、傍から見ればもはやこれ以上はない恵まれた生活を送っていた。しかしそれでも、彼は自分の人生に満足していなかった。彼が執着していたのは、ネス湖の怪獣のことである。彼は怪獣を捕まえることが使命であり、自身の人生を満たせる唯一の方法であると信じ込んでいた。たとえ周囲の人々をあきれさせたとしても、彼は怪獣の捜索をやめなかった。

 今日もフィルは複数人の部下を連れ、ネス湖に捜索にやってきた。最初こそ同じ志を持つ仲間もいたが、皆何も見つからない捜索に辟易し離れていった。いま彼の周りにいるのは、彼が大金を払い雇った者ばかりである。いくつかの潜水艇に部下と彼自身も乗り込み、捜索が始まった。何も見つからぬまま時間だけが過ぎていく。もはや真面目に捜索を続けているのは自分と、自分の正面の席に座っている緑髪の青年1人くらいなものであろうことはフィル自身も感じていた。

日が傾き水面がオレンジのように鮮やかに染まる。そろそろ撤収しようとしたその時であった。突如下のほうから鈍く大きい音が水中に鳴り響いた。潜水艇に乗っていた全員が窓に張り付き必死に下を見ようとする。潜水艇の下には、首が長く胴は膨れ、体のところどころが岩のようにごつごつした、噂通りの怪獣がいた。一同が感動する暇もなく、怪獣は猛スピードで潜水艇に体当たりをした。それは悪意のある攻撃ではなく、例えるならば、道を急ぐ人間がアリを一匹踏んだところで気にも留めぬような、そんな無意識の事故であった。しかしフィルや彼の部下はそんなことを考えている余裕はなく、コントロールを失い、右へ左へと無秩序に暴れる潜水艇の壁にしがみつくのに必死であった。ほどなくして、どこかに穴が開いたのか、水がわっと流れ込んできた。

「ここで私は死ぬのか。」

フィルはそんなことを考えながら気絶してしまった。

 「…きて。起きて。」

遠くから聞こえる声に呼ばれフィルは目を覚ました。そこには一緒の潜水艇に乗っていた、あの緑髪の青年の顔があった。フィルはここがネス湖近くの陸で、自分は横になって眠っていたことを理解した。

「君は…他の皆は…?」

青年が首を横に振る。

「助けられたのはあなただけだ、ほかの人は皆死んでしまった。」

フィルはおぼろげな思考で必死に言葉を絞り出す。

「待て…助けられた…?君は…君は一体…」

青年は少し微笑むと右の人差し指を自分の唇に当て、しゃべるのをやめるよう促した。

「本来なら私はあなたを殺さねばならない。そうして隠すのが私たちの役割だったから。だけど私は、それが正しいことだとは思えない。知りたがる人は何人もいる。秘密はいつまでも隠し通せるものじゃない。あなたのような、頭が切れて信用できる人に知っておいてもらったほうがいい。」「いったい何の話だ…?」

弱弱しい声でフィルが訪ねる。

「いずれわかるさ。ここまで来たら”異形”の存在が世に知られるのも時間の問題だろう。ここの怪獣もすぐに捕まる。」

話が終わったのか、青年はネス湖に向かって歩き始めた。

「待ってくれ!」

フィルが彼を呼び止める。大きな声を出したからだろう、大きめの咳を二度挟んで言った。

「また会えるだろうか…?」

その言葉は青年にとっても、フィル自身にとっても意外な言葉であった。また会いたいと思わせる何かが、その青年にはあった。青年が振り向く。その表情は喜びと悲しみを混ぜた複雑なものであった。青年は一呼吸置き

「運が良ければ。」

とだけ言った。再びネス湖にむかって歩み、ふちに到達したところで、青年はもう一度だけ言葉を放った。

「異形の力、ぜひ役立ててくれ。」

そう言うと青年の体は見る見るうちに変形した。なめらかな皮膚はギザギザとした鱗に覆われ、きれいにそろえられた爪は伸び、太いしっぽが生え、顔は凶暴なトカゲのようになった。そこには青年ではなく、怪物がいた。怪物はネス湖に飛び込み、フィルの前から姿を消した。

 その後ほどなくして、青年の言った通り、フィル主導の捕獲作戦でネス湖の怪獣の捕獲に成功した。怪獣はすぐに死んでしまったものの、その死体から得られたデータは、その後の他の未確認生物の捕獲、討伐、人間社会においては医療技術やエネルギー源など莫大な恩恵をもたらした。この時捕獲された未確認生物はまとめて”異形”という未知の生物群として分類された。また怪獣捕獲後、かつての青年と同じような変身能力を持つ”竜の一族”と名乗る者たちがフィルに接触してきた。彼らはフィルどころか、世界中の知識人を上回る異形に関する膨大な知識を持っており、これもまた、人間社会に恩恵をもたらした。

 長年追い求めた怪獣の捕獲、様々な異形関係の企業をまとめ、竜の一族と人間社会をつなぐ企業グループ”ゼログループ”のトップに立ったことで手に入れた巨万の富と社会的な地位、間違いなく彼は幸福だった。しかし、彼の表情はどこか浮かばれなかった。疲れがたまっているのか、怪獣が死んでしまったことが残念だったのか、どこか病気なのか、そのどれでもない、彼はただ、あの青年に会いたいのだ。しかしそれもかなうことはなく、彼は重病を患った。妻、息子、大勢の部下が病室で見守る中、たった一言

「竜はまた、あの湖に戻ってくる。」

とだけ言い、息を引き取った。その後グループトップの席は、彼の息子、孫、ひ孫と受け継がれ、現代にいたる。

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