第1話 【地下室】
「———嬢様、お嬢様」
遠くから男の声が聞こえる。知っているような、知らないような声だ。
自分は水の中にいて、その男は地上にいる、そんな感覚に陥る。
その声に起こされるように、女性は瞑っていた目を開いた。
開いたばかりの目には少し眩しすぎる光景に、思わず開いた目をもう一度閉じてしまいそうになる。
その光を右手で遮って、そこで自身の右手に気が付いた。
続いて左手を見る。まるで初めて見る物のように。
「良かったですお嬢様、私はもうお嬢様が起きないのではないかと」
焦るような、急かすような声色で安堵の旨を述べる男を遮り、女性もまたゆっくりと口を開く。その唇は震え、顔色は青い。
「私は…”誰“?」
▽▽▽▽▽
どうやら記憶を無くしたらしい、という日から数日が経った。
初めこそ自分の記憶が一切ないことに恐怖したし、今ももちろん訳のわからない状態だ。
しかし人間とはすごいもので、私とやらが送っていた生活にも随分慣れてきた。
というよりも、慣れざるを得なかったと言った方が近いかもしれない。
「お嬢様、ご機嫌麗しゅうございます。今朝のお嬢様も大変美しいですね。もはや例えるものすら見つかりませぬ、宝石にお嬢様のお名前を付けたいぐらいでございますそう、ジュエリー・ルミューと」
真顔で馬鹿みたいな褒め言葉をつらつらと並べる彼、執事のナイトというらしい。
目下の悩みは彼の存在である。
高身長と切長の目、さらに前髪もあるものだから、初対面の圧はそれはもう凄まじかった。
しかし記憶喪失の事実を告げた所、私の驚き用よりもさらに突拍子もない声をあげてリアクションを取ったので、むしろ私が彼を宥めるような始末だった。
そんな彼の一連のドタバタ寸劇を見た私の出した結論は、彼は脅威ではないが頼りにもならなそうだ、というものだ。そして実際これは当たっていそうだなと、今朝のナイトを見て改めてため息を吐く。
彼の話すところによれば、私はルミューという名前で、グラジオラス家という一家の一人娘らしかった。
なんでも魔法の研究で一旗上げた一族らしく、今も両親は研究のために何処か遠くにいるそうだ。全く娘の一大事だというのに、一体何処で何をしているのやら。親の顔が見てみたいものだと、心の底から思う。
しかしそんな自嘲した願いもすぐに叶うこととなった。
というのもこの豪邸、今までの家主の肖像画が並べられた回廊があるのだ。
しかも私の部屋から一階へと降りるための階段がある場所へ行くためには、必ずその回廊を通らなければならない。
おかげで記憶喪失後に覚えた二人目の顔は、私の数世代前の祖父になってしまった。
一人目は当然ナイトだ。
「ではお嬢様、朝食の準備が整っております。いつでも階下へ」
「ありがとう」
そう、意外にも彼は料理が得意だ。料理だけでなく、この広い屋敷中の家事を彼が一人で担当しているというのだから驚きである。
記憶喪失後、初めて彼の料理を食べた時は、あまりの美味しさに思わず唸ってしまった。
そんな私を見て、満足そうに浮かべたナイトの笑みがまだ目の奥に残っている。腹立たしい。
しかしどうやら彼が一番得意な業務は掃除らしく、言われてみれば確かに屋敷中の何処をとっても汚い部分はなかった。
私と彼の二人で暮らしているとは思えないほど、広い邸内が隅々まで磨き上げられている。
強いて挙げるならば、地下室への階段だろう。
あまりに不自然に、地下室の周囲には手をつけられていないものだから、一度ナイトに尋ねてみたことがあった。
「どうして地下室は掃除していないの?」
「お嬢様に地下室には入らないようにと、固く言われておりましたから」
「私に?」
「そうです、記憶を失う前の」
入るな、と言われれば入りたくなるのが真っ当な人間だが、ナイトはどうやら違うらしい。
よっぽど私のことが好きなようだ。
ナイトが用意してくれた朝ごはんの目玉焼きにナイフを入れた。今朝のメニューはトーストと目玉焼き、サラダと何かのソーセージだった。
「このソーセージ美味しいね。何のお肉?」
「羊です。お嬢様がお好きでしたので、何か思い出すかと考えまして」
「ふーん」
残念ながらその期待に添えそうにはない。
ソーセージは何本でも食べてしまえそうだったが、何か思い出す気配は一向に感じられなかった。
しかし、記憶を取り戻すための足掛かりには考えがあった。
ルミューは食べ終わった食器をキッチンに持って行くと、軽いトーンでナイトに声をかけた。
「今日一緒に、地下室に入ってみない?」
「地下室に、ですか?」
洗い物の手を止め、ナイトが顔を上げる。
「しかし、私はお嬢様に入るなと仰せつかっておりますし」
「いいのいいの、他でもないその私が良いっていうんだから。今日から解禁ってことで」
困った表情を浮かべるナイトに明るく許可を出す。
実際、前の自分が出した禁止令を、今の自分が解禁しても何も悪いことは無いだろう。
それに、あの暗くて汚い地下室に一人で入る勇気なんて私には無い。
「まあ、お嬢様がそう言われるのでしたら」
ナイトも渋々といった様子で、地下室に向かうことを承諾してくれたのであった。
ナイトがあまり私を地下室に近付けたくないというのも理解はできた。
というのも彼が言うには、私は地下室の前の廊下で倒れているところを発見されたらしい。
つまり、記憶喪失になる前の私が最後にいた場所が、この屋敷の地下室なのだ。
そんな曰く付きの場所にお嬢様を連れて行くなんて、というナイトの気持ちを察せない程、私は馬鹿ではないようだった。
しかし同時に、私の記憶が戻って欲しいという思いもあったのだろう。
今朝のソーセージもそうだ。
だからこそ、渋々でも地下室に向かうことを承諾してくれたのだ。
「私の後ろを離れず着いて来て下さいね」
そんな訳で、今私たちは件の地下室の前の階段に立っている。
この辺りには灯りが通っていないのでどうするのかと思っていたら、ナイトが右手に携える手持ちの物で周囲を照らしていた。
平時の光を吸収して、周囲を照らす魔法器らしい。世の中には便利な物があるのだ。
後から聞けば開発はグラジオラス家のご先祖様だと。絵画の回廊を通る時は、腰を低くすることに決めた。
ナイトが沢山の鍵束を持って来て、順番に片っ端から試していた。
何でも、私が鍵穴がランダムに変化する魔法をかけているらしい。開く可能性がある分開かない魔法よりも開きにくいそうなのだが、今の私には理解できなかった。ナイトもよくわからなかったらしい。
二つ目の鍵束が終わりに差し掛かるかと思われた時、乾いた音が鳴った。
鍵が通ったのだ。
ナイトがノブを回して扉を開くと、金属製の扉と地面の擦れる不愉快な高い音が響いた。
私は思わず顔をしかめてしまったが、ナイトは食事でもしているかのように平気そうにしていた。なんだか悔しい。
扉を開けるとすぐに、地下室へと繋がる階段が出て来た。
扉の中は真っ暗で、ナイトの持つ灯りだけが頼りかと思われたが、意外な物も眩しく輝いていた。私の頭髪だ。
元々何色とも形容し難い色をしているな、くらいにしか思っていない髪の毛だったが、暗い場所で唯一の光を反射して煌々と眩しく輝いていた。
「お嬢様の毛髪は、相変わらず魔力に満ち満ちておりますね」
「魔力に?」
「ええ、体内の魔力が高いと髪にも流れます。お嬢様は特に魔力量が多いので、お髪も魔力で煌めいております。この灯りも魔力由来ですから、反射して輝いているのでしょう」
「ふーん」
よくわからないが、噛み砕いて言えば私は凄いということらしい。
そもそも魔力や魔法が何なのか全くわかっていないので、一切の実感が湧かないのだが。
何にせよ視界が明るいのには満足だったので、階段を不便なく降りることができた。
降りる途中で、私の物と思われる髪が散らばっているのが見えた。
それだけよく出入りしたということだろう。
自分の記憶に近付いてきた気がして、胸が高まるのと同時に、肌をピリッと走るような緊張も走った。
気付けば、地下室へ続く階段も終わりが見えていた。
どうやら地下室の中の明かりが付いたままのようで、手持ちの灯りがなくとも十分に足元が見えた。
「お嬢様」
ナイトが低い声を出した。警戒の合図だ。
地下室から嫌な匂いを放っているのは、扉を開けた時から何となく感じていた。
私の前に立っているナイトが、一足先に地下室の中の、その要因となる物を見たのだ。
その顔は血の気が引き、瞳はかっ開いている。
「どうしたの?そんな死体でも見たような顔して」
直後、そんな冗談を言ったことを後悔することになる。
それ程に地下室の中は惨劇だった。
夥しい量の乾いた血と、それで描かれた魔法陣。死体こそ無いものの、確実にそれに近い物が此処にあったと思わせる腐乱臭。
端に追いやられた机や本棚、地面に散乱する本にも、もれなく血がべったりとこびり着いていた。
そして、部屋中に散らばっている髪の毛。
それは地下室の、そしてナイトの手に持つ明かりの魔力を受けて、眩いばかりに煌めいている。
あまりの光景に、二人は言葉を失った。
暫しの沈黙の後、共通の疑問がルミューの口から嗚咽のように吐き出された。
「私は、何を、していたの?」
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