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叶望

序章

果たして俺はどうしてこんなところにいるのだろうか。皮張りのソファが皮膚にくっつくような感触に、より自身から汗が出ているというのが嫌というほど感じた。隣を見たら顔に傷がある男。反対を見ても指が何度数えても自分とは違う本数の男。逃げようなんて考えようものならきっと今以上によくないことが起きるだろうというのが分かった。だから俺はただ黙って目の前にいるピエロ男を見つめるしかなかった。


「そ~んなに緊張しなくてもいいよ~?リラ~ックス。」


半分笑い、半分泣いている奇妙なピエロのお面をつけた男は至極愉快そうに話しかけるがとてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。そもそもだ。 俺はこんな怖い人たちに囲まれるような人生とは無縁なはずだったのだ。名前は蔵匿。身長は165㎝。 体重は64㎏。 年齢は25歳。 性別は男。 血液型はA型。 しがないサラリーマン。それが俺だ。これと言って特技も特徴もない平凡なただの一般人である。そんな一般人Aにも満たないような俺がなぜこんなにも怪しい怖い人たちに囲まれているのか。それは机の上に置かれたたった一枚の紙っぺらのせいとしか言いようがない。連帯保証人のところに書かれている名前は紛れもない俺のもので、ご丁寧に押した覚えのない判子まで押されている。 なんでこんなことになっているのか、記憶を辿ってもここに至る過程の記憶が抜けている。自宅に帰ったら部屋のドアの前にいた強面の男二人に囲まれたのだから無理もない。 ただ連帯保証人の上に書かれている名前には酷く身に覚えが、というよりは嫌な記憶しかない男の名前があった。


「大人な蔵匿くんはいま自分自身がどういう立場にいるのか、理解できたのかなぁ?」


楽しそうな声色で話すピエロに返事を返す気にもならない。 そういえばこいつ、ついこの間トイレを貸してくれと急に来たっけかなと紙に書かれている名前を見つめた。お金に何かといつも困っている様子の彼とは大学時代に少し会話をする程度だったが、まさかこんな仕打ちが待っているとは思わなかった。 なぜ彼がトイレに入る瞬間をきちんと見届けずに風呂に入ってしまったのだろう。 なぜ判子の場所を彼は知っていたのだろうと後悔ばかりが押し寄せているが、ここでどれほど考えたってどうにかなる問題ではないことを十分にいやと言いほど、理解を大人だからしてしまった。

売られたのだ、俺は。 蒸発をしてしまった友人とも呼べない知り合いの男に。


「いやあ~、彼には困ったけどこうして連帯保証人の蔵匿くんはまともな人で助かったよ、本当~。僕もこれでお金をきちんと回収できるから、あ~んしん。」

「・・・。」

「じゃあ返してね~。 利子も含めた1000万円。」


そう言って俺に手を差し出す。 ピエロ男の手は空中を浮かんでおり、本来その先に伸びているはずの腕がなく息を飲んだ。 あいつ異形の金貸しから借りていたのかと冷静な頭で考える。 ピエロ男はさもありなんと言わんばかりな雰囲気でこちらを見つめている。わかっているのだ。 俺が1000万円も持ち合わせているような男に見えないということを。


「・・・ありません。」

「ん~?」

「1000万円も、そんな大金、俺は持っていません。」

「ちょっと~ないの? 君のために僕がどれだけの時間を費やしたと思っているのさぁ~。」

「俺じゃなくてこいつのところに行って回収すればいいじゃないですか。」

「それができたら苦労はしないよねぇ。 いなくなっちゃったんだもの。」

「それに俺はこんな書類自体、知らな、」

「僕ね、」


机に投げ出していた足を勢いよく叩きつけたピエロ男。 表情こそ読めないが先ほどのおちゃらけた声色が一変し辺りの温度が下がったような感覚に包まれた。

「つまらないこと、嫌いなんだ。」


問答無用とばかりに手は俺の胸倉をつかんできた。 喉がしまって息ができない。 冷や汗がたらりと頬を伝い、助けを乞うように声を出したいのに息ができないせいで言葉が出ない。やめてくれと懇願するように手を叩くと案外あっさりと離してもらえた。 いきなり肺に空気が入り込みむせかえる。


「楽しいことはだ~いすき。だから君はあの子みたいにすぐいなくなっちゃだめだよ?」


まるで子供に対するような口ぶりに対して、どうするのと言わんばかりのお面をかぶった男からの視線が刺さって痛い。俺に残された道はとっくのとうに決まっていたようだ。だが、ない金を返すことはどうやったってできない。


「お金がないなら、僕の元で働いてみる?ちょ~うど欠員がでちゃったからさ。」

「働く?何をさせる気ですか。」

「カジノ。」


カジノとはあのギャンブルの?と聞くとピエロ男は歌うように頷いた。借金を返すためにカジノで働けと提案してきやがったのだ。


「言っておくけど、名前が書かれた時点で君に拒否権なんてものは存在しないんだからね。」


どこからともなく取り出したピエロ男の手元に一通の封筒が握られていた。退職届と書かれている。まさか、俺の退職届を勝手に偽造したのかと問えばなんてことないと笑い声で返された。


「ようこそこちらの世界へ。歓迎するよ、蔵匿くん。」


君は何日まともでいられるのかなと、悪魔のささやきのような男の声に俺はすでにまともでいられるほどの、精神なんぞなくなっていた。

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