第14話 飛空挺ナハトムジーク(2)

「嘘。だってまだ、陽が沈んだばかり」


 見上げたエルも、身体を強張らせて呆然と呟いた。


「あれは総督府の走狗そうく。府内では、クープに潜り込んだ反乱分子への警戒が高まっているんです」


 青年は苦々しげに説きながら、飛空艇の目に少女が見つからないよう軒下に下がらせて、さらに背中ですっぽりと隠した。


「抜き打ちの準夜警戒が開始されたのは先週から。終業後に即時帰宅せずに街をうろつく者を摘発対象として稼働しています。当局は隠していませんが、あえて告知もしていません。警戒されて地下に潜られるより早く、反逆者を仕留めるために」


 摘発、稼働。当たり障りのない語句が意味するものは、実際のところ目を覆うような暴虐だと知らないクープ民はいない。


 飛空艇ナハトムジークは、その腹から攻撃機を吐き出して、地上で動くものに機銃掃射するのだ。


 夜間戒厳の鐘のあと、総督府を除いた全域が外出禁止区域になるクープの道を歩く者はいない。灯りの消えた夜は大抵が静かなものだが、時折、遠い雷鳴に似た音が思い出したようにとどろいた。夜が明けたあと、どこかの道端に穴だらけにされた野良犬が転がっていることで、人々は看守が仕事をしたことを知った。


 月に一度か二度は、人間の身体が朝の光に照らされていることもあった。出勤途中の人々は不運にも帰りそびれた酔っぱらいの死を悲しみ、壁外の墓地へと運搬していくクープ警察の隊列にオベリスクを切って、黙祷を捧げた。


 外に出れば撃ち殺される夜の箱庭で、前後不覚になるほど酒を浴びた顛末を想像し得ない者はいない。果たして彼が本当に陽気な酒飲みだったのかは、誰も問わなかった。


 それは天井のない牢獄から出る、たったひとつの冴えたやり方。


「……何よ、それ」


 背後から聞こえた硬質な声に、青年は振り向いた。


 果てのない闇を前にして、ペリドットは冴え冴えと乾いていた。


「二十時以降は外出禁止だって、決めたのはそっちだわ。だからみんな約束を守ってる。深夜に急病人が出たって、朝まで我慢してる」


 固く握りしめたこぶしに、腱が浮く。


「みんな、約束を守ってきた……! 一晩だってたがえずに、ずっと!」


 赤毛の頭にあったのは、消えかけのガスランタンに照らされたギムナジウムの保健室。


 オフィーリアは優秀な校医だが、薬も器具も限られた寄宿舎にあって、病を得た幼い子どもにしてやれることは多くなかった。真夏か真冬か、いずれにせよ過酷な季節のどこかで、病魔は弱い仲間を狙った。


 今夜が峠だと知らされれば、寮中から生徒たちが押し寄せた。子どもがどれだけ集まろうが、できることなど増えはしない。彼らは汗の滲む小さな額に代わる代わる氷嚢ひょうのうを乗せ、子守唄を歌った。苦しげに激しく上下する胸をなだめるように掛け布団をトントンと撫で、大丈夫、病院にあと少しで行けるよと声をかけた。その励ましが嘘だと、全員承知していながら。


 夜は無慈悲なクジラが支配する世界。外に出たら死ぬというルールは、気象現象と等しく絶対。別れはいつも、あと少しで鐘が鳴るという夜明けに訪れた。


 エルが転入して五年で、クライノートから送り出された小さな棺は三つ。ハーミとニマーシュは八歳、リリは七歳だった。


 彼らはむくろとなって初めて、壁から出ることを許されたのだった。


「残酷な約束を課しておいて、自分は平気で破る! あたしたちは人間じゃないって、何度だって教えてくる!」


 悔し涙の滲む目が、上空の巨大な飛空船を睨みつけた。


「ご親切にどうも……! この借りは忘れない。必ず、あたしはそこまで行く。それまでせいぜいふんぞり返って待ってるといいわ! ベルチェスター‼」


 まっすぐ伸ばした指でナハトムジークを指し、正々堂々と宣戦布告をして、――ようやくエルは、後ろに誰がいるのか思い出した。


「あ」


 クープの武力執行機関、ブレイク隊。本国の上流階級から構成される彼らは、一応は総督府管下にありながらも、治安維持においては特権的な自主裁量を認められている。


 隊員による刑の執行に、裁判は必ずしも必要ではなかった。つまり破落戸ごろつき、ならず者、レジスタンス、スパイ……何であれ不穏分子を発見したら、その場で射殺してヨシ。


(終わった……)


 赤毛頭は天を仰いだ。よりにもよってブレイク隊員、しかも副隊長の前で『首洗って待ってろ』の意を口走ってしまったときては、よくてセンター行き、悪くて公開処刑である。今日は非番なのか、おっかないハウンドを連れていないことだけが救いだった。


(猛獣に食い殺されるよりかは、広場でキュッと吊るされたほうが幾分マシだわ。……いや嘘。どっちがマシかなんて、鍋に入れた乾燥バジルの切れっぱしより誤差!)


 恐る恐る背後を振り返ったエルは、半泣きの目をはたと見開いた。


 ブレイクの副隊長が浮かべていたのは、罪人を見る処刑人の形相ではなかったから。


 灰色の双眸を眩しげに細め、緩めた頬にほのかな笑みを滲ませる――どちらかといえば愛しい宝物を眺めているとたとえるのが近い表情に、翠の瞳は困惑でパチパチと瞬きをした。


 こんな眼差しを向けられる心当たりはもちろん、全くもってなかった。


 口を開きかけた視界の端にふと、見慣れた毛皮がよぎる。


 青年の直線的な肩の向こう、祈念祭の人形や風船が飾り付けられた商店を背景に、他人様の自転車のカゴに収まって悠々と丸くなっているのは――。


「アン・マリー!」


 あらぬ場所で尋ね人を発見した探偵の顔から、ザッと血の気が引いた。


 ナハトムジークの観測範囲で動くものは、全て機銃掃射の対象である。動物も例外ではないことは、犬たちの死骸が教えていた。宵寝に飽きて気ままにカゴから飛び出したが最後、上空のガトリングは情け容赦なく小動物を襤褸ぼろ切れへと変えるだろう。


 駆けだそうとした身体はしかし、有無を言わさぬ強さで引き留められた。


「危険です。諦めなさい」


 手首を捕まえた青年は、エルを覗き込んで諭した。


「できません」


「猫の代わりにハチの巣になると? ……呆れた」


 きつく眉を寄せた灰色の目に、火が灯る。顔を半分潰された時に浴びたのと同じ冷たい炎が、鼻先を掠めた。


「どうやら自分のことを、不死身か万能と勘違いしているようですね。教えてあげますが、あなたはただのバカです。何もできないくせに子ども染みた正義感を捨てられない、恐れ知らずの大バカ者」


 苛烈な舌鋒に混じって、悲しげな影が滲んだ。


「……そんなに、はいらないものですか?」


 切れ長の瞳が見つめるのは、エルの心臓があるあたり。


 つまり彼がそれと呼ぶのは、命のこと。


「だとしても……無粋なガトリングに任せるなど、こちらが我慢なりません」


 悄然しょうぜんとして見えたのもつかの間、眼鏡の奥の曇天に激怒の雷鳴が走る。


「早死にをご所望でしたら、この手で終わらせてあげますよ。大変僭越せんえつではありますけど」


 憤りに任せた大きな手に強く握りしめられて、華奢な手首が折れそうに軋んだ。

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