第12話 ともし火は闇の前(5)

 扉が閉められ、人間とハウンドたちの足音が遠ざかっていく。センター行きも鞭打ちも免れたグンターは、フラフラと資料机にへたり込んだ。


「ギムナジウムにハウンドを連れてくるなんて!」


 常にない怒りを滲ませて、アガタは窓の外を睨んだ。「総督府は、ここが学び舎だとご存知ない様子!」


「グンター先生、大丈夫ですか?」


「ああ……。エル、危ないところをありがとう」


 三十分足らずの時間で、青年は十年も歳を経たかのように疲れ果てていた。


「それでその……あの歌は?」


「歌? クライノートに転入する前に、ママが色々教えてくれたんです。讃美歌もそのひとつ」


 エルのママは大変な教育家だった。容赦のないその詰め込みっぷりときたら、二年遅れで基礎学校に編入した娘にギムナジウムの入学試験を首席でパスさせるほど。


「そうじゃあなくて、なんというか……」


 教室内のさまざまな顔が、背中がかゆいのに手が届かないといった、納得の行かない表情をしていた。


「まるで内臓に触れられるような、身体の内側を下から撫で上げられるような……そんな心地がしたんだ」


「つまり……」


 若葉色の瞳が据わる。


「ド音痴で耐えられなかったって理解で合ってます?」


「合ってない合ってない合ってない」


 首を振る教師の左右から、「あたしはクセになる感じだったな~」「ごめんだけど、もうぼくは遠慮したい」「なんかすごかったよ、エル」と矢継ぎ早のコメントが寄せられ、エルは「相当だったみたいね? 気持ちよく熱唱しちゃってごめんなさいね?」と照れ笑いした。


「歌なんてどうでもいい。頼むからしっかりしてくれ、グンター」


 厳しい声で割り込んだのはキリルだった。


「タシュの時だって今日だって、そこのニンジン頭がしゃしゃり出なければどうなってた? 両手を切り落とされたタシュは落第印を押されて訓練校行き、あんたはイカれた工場で人間スクラップだ。二度とこんなことがないようにしろよ。おれたちの担任だろうが」


「ミスタ・カザンチェフ。教師に向かってなんという口を利くのですか」


「いいんですアガタ先生。キリル、お前の言う通りだ」


 資料机から立ち上がる力もないまま、グンターは肩を落として自嘲した。


「ぼくは情けない教師だ。生徒を守ってやるどころか、自分の命さえおぼつかない。エル、いつも矢面に立たせてすまない。そして、ありがとう」


「謝らないでください。先生に謝ってほしいことなんてひとつもないから」


 小さな王は相変わらず堂々としていたが、かすかに眉が震えた。


「いつまでも、あたしたちの先生でいてください」


 努めて微笑みを浮かべた顔は、先程披露してみせた嘘泣きとは違って、本当に泣くのをこらえていた。


 翠の目から眺めた時、この箱庭は大きな暗闇だった。いや、壁の外も同じだった。たとえ大地をどこまで歩こうとも、自分たちが人間扱いされる場所などないのだ。


 温度のない圧倒的な闇を前に、たったひとりが後生大事に握りしめた愛や信念といった輝くものは、震える小さなともしびに過ぎない。


 気まぐれな嵐が一度吹けばたやすく掻き消されて、後に残るのは煙だけだ。


 ――どうすれば、この息苦しい闇を抜けることができるのだろう?


 答えの見つからない命題を抱えた赤毛頭は、ただ窓の外の広い空を見た。


「あのクソったれのブレイク隊員……」


 キリルは奥歯を強く噛みしめた。


「おれらの命を燃料以下だとほざいたかと思えば、讃美歌を歌えねえから公開鞭打ちだと? 知るか! カビが生えたダセエ歌を、トゥラン人が覚えると思うなよ!」


 怒りを滲ませる少年をよそに、エルは胸ポケットの小瓶に触れた。


 一週間前、死ぬはずだった自分は命を救われた。銀髪の青年は、片目が潰れるという運命すら覆してくれた。


 今日の彼がしたことは、真っ先にセンター行きに異を唱えるということだった。


 送られてしまえば生きて出ることはできない死の収容所に比べたら、鞭打ちはずいぶんマシな選択肢だというのがエルの見解である。たとえ大怪我を負い、まともに歩けなくなるとしても。


「どんな人なのかしら」


「お前……」


 驚愕のあまりうっかり憤懣ふんまんを取り落としたオリーブの双眸は、まじまじとエルを見た。


「常日頃からイカれてると思ってたが、男の趣味に至っちゃあ……反吐へどが出るほど最悪だな」




 授業を終えて部屋に戻った少女を迎えたのは、勉強机の上、黄金色に傾き始めた日差しを照り返すサフランイエローのカードだった。


 変ねえと首を傾げながら取り上げた。もらったバースデーカードは全部、ジェリービーンズの空き缶に入れて大事に保管しているはず……。


『エルへ 自分の生まれに興味はあるかい?』


「うえ⁉︎」


 ふわふわの赤毛は飛び上がった。新作だ。このカードが誕生日以外に届くのは、初めてのことだった。


「生まれに興味? あるあるある。あります、おじさま……!」


 物心ついてからの自分の足跡そくせきなら知っている。だが、は、だれも教えてくれなかった。


『翌日が晴れなら陽が沈む直前、フェルゼ広場で時計台に背を向けて立ちなさい。ハルベルク山とウィスハイム市の間の空に、答えが浮かぶだろう。くれぐれも、暗くなる前に帰るように』


 もう二週間快晴だ。ラジオではまたさらに一週間晴天が続くと予報していた。


「陽が沈む直前? ならもう行かなくちゃ!」


 カードを片手に部屋を飛び出したエルは、階段前でシャロンとすれ違った。


「どしたの血相変えて。下痢?」


「もうちょっとオブラートに包んで聞いて?」


 後ろ向きに危なげなく降りながら、人差し指を立てる。


「今から歴史を変える真実を見届けに行ってくる。時間がないから、外出申請書を偽造しといてもらえると助かるわ」


「ローストビーフ四切れで手を打とう」


「ありがとう!」


 玄関を飛び出して、三段飛ばしで階段を駆け下りた。寮のゲートは開閉するとやかましく軋むので、片手をついて飛び越えておく。アガタに見られたら大目玉を喰らう所業である。


 クープ名物、赤い石畳の道を駆ける。


 木組みが映えた淡色の煉瓦壁、花飾台を設けた正方形の窓、色とりどりの三角屋根。この愛くるしい家々は街の7ギールマルト四方に壁が建築されるより前から変わらぬものであり、壁外のヴァルト州にも同じ街並みが広がっていた。


 違うのは、厳しく制限された土地を最大限活用するために上層階の増築を繰り返し、歪な六階建てや七階建ての民家が立ち並んでいること。一軒一軒には複数の家族が群居しており、一歩路地裏に入り込めば、何階分も重なった洗濯物のロープが出迎えた。


 緑の手押しポンプにもたれてお喋りをする井戸端の母親たちが、制服姿で走る少女を目にして朗らかに笑う。


「あらエル! そんなに急いで忘れ物?」


「そんなところですー!」


「転ばないようにねえ!」


 汗が噴き出るほど押してやっとバケツ半量の水を絞り出すようなポンコツ井戸であっても、住人たちには命綱である。


 フェルゼ広場は、六つのゲートから放射状に伸びた大通りの中央に位置している。ヴァルト帝国時代の離宮を流用した総督府へ続く、巨大な前庭。北側には時計台、周囲には富裕層向けの宝飾品店が立ち並ぶそこは地図で見てもクープの中心で、本国からの告示も公開処刑も、重要なイベントは全てこの場所で行われる。


 たどり着いた時にはちょうど日没寸前。階段の上から見渡せば、中央の噴水の周りに人だかりができていた。


(白髪の上品な老紳士……白髪の上品な老紳士……)


 目を凝らしてみたが、集まっている一般庶民にそれらしき者はいない。常人離れした視力を駆使して周囲の建物も探ってみたが、五年も素性を隠し通した相手は、さすがにこんなところで面が割れるようなヘマは冒さないようだ。


「時計台を背にして、ハルベルクとウィスハイムのほうを見て……」


 ハルベルクは南西の山、ウィスハイムは南東に位置する町である。方角を確かめようと北を向けば時計台の背後、白大理石の壁面が西日を反射して目を焼いた。


 一等国民のみが殿を許される長い階段の先、優美な細工が贅沢に施された古き良き帝国時代建築のドームが、ヴァルト州総督府。頂点には漆喰の尖塔が取ってつけたように設置されているが、あれは実際占領後に取ってつけられたものである。


 雲を背に箱庭を睥睨する、純白の尖塔――引き絞られた弓にも似た尖塔ミナレットこそがベルチェスター秘蹟教会のシンボル、救いの御手のオベリスク。


 翠と青を同じだけ塗ったような秋の空は、気が遠くなるほど高い。


「さあさあお集まりの皆さま方、お時間が参りました! ご照覧あれ!」


 大声に振り向くと、人だかりの中心でピエロが噴水の縁に飛び乗った。手回しオルガンの賑やかな音色に合わせ、風船が次々と空に浮かぶ。


「満を持して封切り! 主演は、あの世界的大コメディアン……! 一家の一員としてパタスモンキーを迎えた、ロイヤルファミリーの波乱万丈ドタバタ劇場! その名も『ライフ・オブ・エイプス』!」


 ゆっくりと浮き上がっていくひときわ大きなアドバルーンに転写されているのは、白い歯が眩しい美男子。


 淡い金髪の癖毛と空色の瞳、筋骨隆々とした長身の体躯。どことなくしょんぼりとした顔の霊長類を胸に抱いて笑う、絵に描いたように理想的な壮年のベルチェスター男子を知らない市民はいない。


 連邦共和国第十八代首相、アダム・レイチャイルドである。


「……んんん?」


 強い西日にしかめた顔のなかで、さらに眉が寄った。


 たしかに、所定の位置で空に浮き上がるものはあった。だがここで見られるのはプロパガンダ丸出し映画の宣伝などではなく、自分の出生に繋がる秘密のはずなのだが──。


「ひょっとして、首相があたしのパパだったり? それともまさかサルが……いや! いやいやいやいや~」


 エルは首を振った。自分に毎年バースデーカードが届くというのは、ギムナジウム生なら全員知っていることだ。どこにでもあるようなレターペーパーに書かれているのだから、揄揶からかおうと思えば簡単に偽造できるはずである。


「悪戯だったのかしら? だとしたら、おサルさんがあたしの出自だなんて失礼しちゃうわね」


 やれやれと背を向けた少女の後ろ。


 アドバルーンのはるか上空で、薄雲に影が映る。


 ハルベルク現象と呼ばれるこの現象は季節が移り替わる夕暮れどきにしばしば起こるもので、いくつかの条件が揃うと地上の山や建造物の輪郭が蜃気楼のように上空の雲へと転写される。ヴァルト州の北東部ハルベルク山の麓で見られることから、そのまま名前が冠された。


 沈みかけた太陽の傾きを受け、箱庭の影が長く伸びていく。六角形は光線の傾きを経てひし形の長方形となり、上空の雲には天上から魔法使いの長杖ロッドが翳されたかのような影が滲んだ。長く晴天が続いたこの日はさらに、杖の左右に紫や黄緑や薄紅が映ってたなびいた。彩雲である。それは南からの季節風を受けて、地平に向かって扇状に縁を広げていった。


 一筋の影の左右を淡い虹色に染めた空はさながら、空を覆うほど巨大な鷲が羽を広げて滑空する姿を思わせた。

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