第32話 絶望と希望

「妊、娠?」


 衝撃の言葉に頭の中が真っ白になるが、医師は嬉しそうに微笑む。


「えぇ、お世継ぎが居られます。何とめでたいことでしょう」


 喜びの感情は全く浮かび上がらない。


(リーヴ様の子を授かったなんて、信じられない。わたくしは何という裏切りをしてしまったの……)


 頭の中で後悔と絶望がひたすら渦巻いていた。


 こんな事を知られたら、今後ますます外へ出る事は叶わなくなる。


(産まなければいけない? いえ、産まないという選択肢は出来ないわ)


 既にササハが確認しているからには、誰にも知られずに何とかする事は不可能だろう。


 たとえ内緒にしてと頼んでも数日くらいだろう。彼女はリーヴの部下なのだからいずれ伝えてしまう。


 産んでしまったら今後は大事な跡継ぎの、そして海底界の母として過ごさなければならない。


 もしかしたら更に行為を強要されるかもしれない。


「お願い致します、わたくしからリーヴ様へ伝えたいので、この事は少しの間だけ言わないでいてもらえますか?」


「えぇ勿論。おめでたい事は自分の口から言いたいものですよね」


 ササハはにこにこと笑顔で頷いてくれる。


 そんな甘やかしい話でもないのだけれど、そんな事をササハに言っても伝らないだろう。


(ここに居るもの皆リーヴの味方ですもの)


 ササハを見送った後、わたくしは一人枕に顔を埋めながら考える。


(どうしたらいい?)


 授かった命に罪はない。そうなるとこのまま産み育て、海の神の母となるしかないという事になる。


 では生まれる前にその命を奪ってしまうか。


(そんな事出来ないわ)


 涙がじわりと溢れて来る。


 たとえ愛する男性の子どもではなくとも、そんな事は出来るわけがない。


 それならばこの子を産んでから命を絶とうではないか。


(ソレイユ、ごめんなさい)


 まだ大きくもないお腹を擦りながら、ルナリアはただ泣くしか出来なかった


 そうして悲嘆に暮れている時に、外から声がする。


 涙を拭い入室を許可すると、入ってきたのは兄様とリーヴであった。


「何故お兄様が?」


 所用で出かけると聞いていたのに、帰ってくる時間も早い。


 久しぶりに兄様の顔を見て一瞬だけ嬉しくなるけれど、すぐに考え直す。


 今や兄様もわたくしの敵だ。あんなにも仲が良かったのにソレイユを殺したのだから。


「今日はルナリアの調子を見に来たんだ。気分はどうだ?」


「……まだ優れません。なのでもう少し休ませてほしいです」


 警戒し、つい固い声となってしまう。


「それもわかる。だが話を聞かせてくれ。一体何が起こったのか」


 兄様に詰め寄られ、わたくしは少しだけ嘘も交えながら話始めた。


「部屋で食事をしている時に、間違って普段食べていない魚を口にしてしまったのです。それで気分が悪くなっただけですわ」


「本当にそれだけか?」


「えぇ。皆さま心配症で事を大きくしてしまったみたいですけれど、そこまで大した事はありません。この通り元気ですし」


 精一杯無理をして笑顔を作る。


 リーヴは安心したような顔をするが兄様の表情は変わらない。


 射る様な眼差しだ。


「本当なのか?」


「……本当です」


 兄様にも本音が言えないのは辛いけれど、行ってしまえば計画を止められてしまうだろう。


「部屋に匂いが残っている。下手な隠し立てはするな」


 その言葉にしゅんとしてしまった。


 やっぱり兄様を欺くことは出来ないかと。


 状況を説明すると兄様は顔を顰め、リーヴは信じられないと衝撃を受けたようだ。


「リーヴ様、これは約束を反故されたと言いざるを得ないですね」


「そんなまさか……いやしかし」


 実際にリーヴは関係があったわけではないから、知らないのは当然だけど。


 けれど命の危機だったと聞けば多少しおらしくなった。


「もっと詳しく事情を問い詰め、そのササハという神からもルナリアがどういう状態だったのかを、詳細を確認してください。その間私とルナリアは二人で話をさせて貰います」


「二人でとは、何を話すつもりですか」


 リーヴが警戒するように言うが、兄様は素知らぬ顔だ。


「兄妹水入らずで話をしたいのですよ。心配なら扉を開けておきますので、見張りを立てていてください」


 そうまで言われるとリーヴは渋々ながら了承してくれた。


 外に見張りは居るものの、二人きりになると途端兄様から優しい眼差しを向けられる。


「話とは一体何でしょう」


「まずは横になるように。まだ体が辛いだろうから」


 そう言ってベッド上で体を起こしていたわたくしを寝かせ、毛布を掛けてくれる。


 ポンポンとあやすように頭を撫でられた。


 そのような気遣いをしてくれるのに、何故ソレイユを殺したのか。


 その矛盾に体が震えるが、跳ねのける意気地もない。


「手遅れにならずよかった、聞かせたい大事な話があったから」


 そう言って兄様の手がわたくしの耳元に触れられる。


「?」


 触れている部分が震えているような気がした。


 そうして言葉が紡がれる。


「ルナリア、リーヴ様は優しいか?」


 そんな言葉の後にまるで違う言葉が脳内に響く。


『驚くだろうけれど、大きな声を上げないように』


 兄様の口は動いていないのに、その言葉は確かに聞こえた。


「は、はい」


 混乱する頭でどちらにも当てはまる言葉を探して返答すると、安心したように兄様が頷いた。


『きちんと聞こえるなら良かった。今から本当の事を話すから、落ち着いて聞くんだよ』


「それならば安心だ。ルナリア、リーヴ様の言う事を聞いていい子にするように」


 そもそもどうやって伝えているかわからないのだけれど、兄様は何をわたくしに伝えようとしているのか。


「はい、わかりました」


 何を言われるのか怖いけれど、このような周囲に聞こえないような手法で伝えようとしている事だから、余程大事な事だろう。


 ぎゅっと毛布を握って次の言葉に備える。


『ソレイユは生きている』


 その言葉の衝撃が強すぎて、兄様の口から放たれた建前の方は耳に入らなかった。









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