檸檬の香りがする昼に
@RubisC
第1話 檸檬と紅茶
午後一時。客はまた、私以外はいないみたいだ。今まで三回ここに来たけれど、お客が入っているのは見たことがない。
美咲は、テラスの一番右奥の席に腰を下ろした。
いいねえ。休日にカフェに来てのんびりなんて、人生を謳歌してる気がする。
「いらっしゃいませ。あ、また来てくれたんですね。」
知らぬ間に店主が近くに来ていた。顔を覚えていてくれたらしい。この人はなぜだか気づいたらすぐ近くにいるので、注文を聞かれるときに毎回すこしびっくりさせられる。最初は少しどころじゃなかったけど。
「え、お、あ、こんにちは。」
「ふふ、こんにちは。ご注文、お決まりですか?」
ちょっと笑われた気がする。
「えっと、気まぐれケーキセット、飲み物は紅茶で。」
前とおんなじ注文。
「はい、少々お待ちくださいね。」
店主はパタパタと、テラスから屋内のキッチンへと戻っていった。
まだ四回目の来店ではあるが、私はこの店が好きだ。だって、ここの紅茶はおいしい。間違いなく、いままで飲んできたどんな紅茶より断然おいしい。そして、私はおいしいものが好きなのだ。
店主がティーポットに茶葉を入れる。テラスとキッチンはガラスのドアで仕切られているだけなので、店主の作業風景が良く見える。何度か彼女の技を盗もうと思ってよく見てみたのだが、あんまり効果はなかった。やっていることは私とおんなじなのだ。ティーポットに茶葉を入れてお湯を入れる。そのあと少し放置して、揺らして、出来上がったらカップに入れるだけ。
「お先に紅茶です。レモンケーキ、すぐお持ちしますから。」
「ありがとうございます。」
やった。私、レモンも好き。
「おまたせしました。お好みで紅茶にもレモンを絞って召し上がってください。採れたてですよ。」
あ、今レモンを採ってきてたのね。そういえばお店の前にレモン生えてたかも。
「あ、あの、店先に生えてるやつ。」
「そうなんです、私が育てたんですよ。」
ちょっと嬉しそう。
「とっても綺麗だし、いい匂い。」
これは、正直な感想。すごくきれいな黄色。
「ふふ、ありがとうございます。では、ごゆっくりどうぞ。」
彼女はまたキッチンに戻っていった。透明なドアが動くたびに、鈴が小気味よい音を奏でる。
彼女は、カウンターの中で小さな丸椅子に腰を掛けた。
穏やかな風が流れていく。ああ、幸せ。いい匂い。インスタ映え女が見たら脊髄反射でスマホを取り出しそうなケーキと紅茶を眺めて一人思う。食べちゃうのがもったいないからもう少し眺めてようかしら。きっと私はこういう時間のために生きてるんだわ。誰にも邪魔なんてさせないんだから…。
「あの、」
「っっひゃい!」
「あ、驚かせちゃいました…?」
店主が申し訳なさそうな顔をして向かいに立っている。向かいにいるのに全然気づかなかった。これ、もしかして私が注意力ないだけ?
「あ、いえいえ、全然そんなことは」
これは嘘。多分寿命が二時間くらい縮んだ。
「なら良かったです。美咲さん、ですよね。向かいの席、いいですか?」
え、いやいや。あんた店主でしょ。ほかにも席空いてるし、お客でもなかなかこんなこと言わないぞ。
「あ、え、私は大丈夫ですけど、ほかにお客さんとか…」
店主は少し笑った。
「ふふ、大丈夫です。お客さんなんて、めったに来ないんですよ。」
反応に困る。
「あ、そうなんですか。」
そうなんですか、は失礼だったかな。
「じゃあ、私の分も紅茶を入れてきますね。またすぐ戻ります。」
「あ、はい…。」
別に向かいに座ってお茶飲んでいいとは言ってないんだけどな。まあ、店主さん、嫌な感じはしないからいいんだけど。
店主は、いつもと同じ手順で紅茶を入れて、私の向かいの席に戻ってきた。初めてエプロンを取った姿を見た気がする。びっくりするくらい足長いな、この人。
「ふぁあ」
彼女は小さなあくびをしながら向かいの席に腰を掛けた。別に私は気にしないけど、あんまり店主がお客にその表情を見せるもんじゃないと思う。
「あの、どうして私の名前を…?」
なんかゲームの強キャラみたいな発言だな、とかどうでもいいことを思う。私、名前言った記憶ないんだけどな。彼女は私の胸を指さした。
「ほら、ペンに名前貼ってありますから。」
「あ。」
確かに、胸ポケットにしまっているボールペンには名前シールが貼ってある。ちょっとダサいかもしれないけど、ペンを無くすよりマシだ。言われてみれば、確かに何度かこの店でペンを使ったかもしれない。いやいや、とはいえそれだけで名前覚えるか?名前、結構小さい字で書いてあるし。
「よく見えましたね…。」
「えへへ、目はいいんです。」
彼女は自慢げに言った。いや、別にほめてないよ。むしろ若干引いてるよ。
一口紅茶を飲む。相変わらずおいしい。なんか花みたいな香りがする。
「いい香り。どうやったらこんなにおいしく入れられるんですか?」
なにか秘密があるんだろうか。よっぽどいい茶葉使ってるとか。
「ありがとうございます。いつも幸せそうに飲んでいただいて、嬉しいです。」
見られてたか。ちょっと恥ずかしいかも。
「あんまり特別なことはしてないんです。いつも、『おいしくなあれ』って思いながら入れてるから、おいしいのかも。」
「はあ。」
大真面目な顔でそう言われると、普通に反応に困る。
二人の間に、しばらく沈黙が流れる。店主とお客が向かいに座って、互いに紅茶に時々手を付けるだけの、不思議な時間。だが、あまり気まずさは感じなかった。そろそろケーキに手をつけようかな、と思い始めた時、おもむろに店主が口を開いた。
「実は、美咲さんにお聞きしたいことがあって。」
この人、普通に客のことを名前で呼ぶんだな。
「なんですか?」
彼女は、また一口紅茶を啜った。
「どうして、何度もこのお店に来てくださるんです?お近くに住んでるとか…?」
ああ、そっか。確かにこのカフェ都内とはいえ、めちゃくちゃな僻地にあるもんな…。リピートしてくる人、少ないのかも。
「いや、バスで一時間くらいかかります。でも、ここの紅茶とケーキ、美味しいので。」
彼女はキョトンとした顔をした。
「遠くないですか…?」
「いや、でも、美味しいので…。」
「…。」
え、なんか変なこと言った?
彼女は笑い始めた。結構盛大に。
「はあ、ちょっと、ふふ。いや、えへへ、ありがとうございます。」
ひとしきり笑い終わったみたい。
「わざわざそんなに遠くから来ていただいてたんですね。お代から交通費、引いとかなくちゃ。」
いやそんなバイトみたいな。
「いえいえ、お気遣いなく。」
お気遣いなく、の使い方はこれであっているだろうか。
「ふふ、じゃあ、紅茶くらいはサービスさせてくださいな。おかわり、いかがです?」
気づくと、私のカップの中身は早くも三分の一程度になっていた。
「え、本当にいいんですか…?」
もとからそんなに値段しないから普通に払うけど。
「もちろんです。私のサービス、受け取っていただけますか?」
そういわれて断る人はいないだろう。
「じゃあ、遠慮なく。ありがとうございます。」
彼女はなぜか微笑んだ。柔らかい微笑みだった。
「今、お持ちします。」
店主は、自分の分のカップを片付けて、キッチンに向かっていく。せっかく向かいに座ったのに、もうキッチンに戻ってしまうらしい。彼女はきっと、私が何度も来ている理由が知りたかったのだろう。物好きだと思われたかな。
「お待たせしました。またおかわりが欲しくなったら声をかけてくださいね。」
「ありがとうございます。」
彼女はまたガラス扉をとおってキッチンに戻っていく。
「あ、あの。」
店主がこちらを振り返る。
「店主さんは、お名前、何て言うんですか?」
その時、一瞬店主の顔がこわばった…気がした。なんか、まずいこと聞いちゃったかな。ちょっと気になっただけなんだけれど。
「あ、いえ、言いたくなかったら全然いいんですけど…。」
「エリカです。」
「え?」
小さな声で、よく聞こえなかった。
「花嶺エリカ。お気軽に、エリカって呼んでください。」
今度ははっきり聞こえた。
「あ、エリカさん。いいお名前ですね。」
名前を聞いた後って、なんていうのが正解なんだろ。店主…エリカさんはまた少し、儚げに笑った。
「じゃあ、ごゆっくりどうぞ。」
「あ、そうだ。」
「はい?」
「このお店のことは、あんまりお友達に伝えないでいただけますか?もちろん、お客さんが来てくれるのはうれしいのだけれど、あんまりお客さんがいっぱい来ちゃうと、私しかいないので大変なんです。」
「あ、はい。わかりました。」
「ありがとうございます。では、ごゆっくり。」
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