平成八年生肉之年

電楽サロン

初川千歳(1)

「三角生研、あなたの健康と未来を支える、バイオテクノロジーのリーディングカンパニーです」

 明るい曲とともにラジオからCMが流れた。千歳はいつもこのCMが流れると声の大きさで驚いてしまう。編集長によれば、朗々と喋っているのは社長である三角妙子なのだという。妙子は今年で70を超えるというが、溌剌とした声には老いの影は見当たらない。千歳はボリュームを絞った。

 乳白色の霧が遮るように道に立ちこめていた。一台の車が静かな住宅地を走る。初川千歳は取材のために中学校に向かっていた。

 長野の寒さにはいつも慣れない。冬が来るたび千歳は思う。エアコンが音を立てて車内を温めようとしている。ハンドルを握る手は一向に温まらない。

「参ったな……」

 千歳がため息をつく。吐く息が白い。自分の姿がルームミラーに映る。ブラウンのストレートの気怠そうな女と目が合う。こんなことなら社用車にするんじゃなかったと言いたげだ。

 オカルトブームが再燃し、編集長は県内校の都市伝説の特集を予定していた。そのため、長野出身で一番若手の千歳に白羽の矢が立ったのだ。

 新聞社から中学校までは距離もあり、最寄り駅もない。やむなく選んだ社用車だったが、すでに後悔しはじめていた。

「……次のニュースです。WHO は、BSEは変異型クロイツフェルト・ヤコブ病を発症させると公表しました」

 ラジオから流れるニュースに耳を傾ける。車の運転では普段からかけていた。BSEは狂牛病とも呼ばれる。日本に入ってくれば、またオカルトめいた言説が生まれるのだろうか。千歳はぼんやりと考えた。

 コンビニの前を右に曲がる。以前は中華料理店だった。やけに大きい看板が中華料理店の名残をとどめていた。通学路の狭い道を走りつづける。新しくなった家もまばらにあるが、それでも千歳の記憶とさほど変わらない。

 ニュースキャスターが次の話題に移る。千歳はチャンネルを変えた。何回か合わせていると、童話の朗読が聞こえてきた。

「それでも、ヘンゼルはグレーテルに、「なあにそのうち、道がみつかるよ。」と、いっていましたが、やはり、みつかりませんでした──」

 咄嗟に千歳はラジオを消した。

 昔から童話が苦手だった。特にヘンゼルとグレーテルは嫌だった。飢饉で口減らしのために子どもが捨てられる冒頭が恐ろしく思えた。捨てられてもなお、家を目指すヘンゼルが自分と重なりそうになる。寒いはずなのにじっとりと手汗をかいていた。

 凹んだカーブミラー、錆びた消火栓、地面に描かれた消えかけの「追突注意」の文字。それらは中学時代をいやでも思い出させた。とぼとぼ歩く自分の姿を霧の中に見てしまいそうだった。

 ヘンゼルとグレーテルを頭から追い出そうとする。

 千歳は息がつまる気がして深く息を吸った。そして肺の中の息を吐ききった。

 中学の頃はできるだけ思い出したくない。あの時のみじめな自分はもういない。平気で顔を殴る父も、見ないふりをした母もいなくなった。私の親はとっくに死んだんだ。両親の火葬を思い出して記憶を振り切る。思考がぐるぐると回るうちに校舎が見えてきた。

 千歳は駐車場に車をとめる。熱くなった脳の芯を冷やすために外を歩く。体育をやっているのだろう。興奮した子どもたちの声が遠くから聞こえた。

 霧に包まれた校舎を眺めると、不安が心に影を落とした。

 千歳は門に向かう。銘板には「朱川中学校」とある。たしかに自分がいた場所だ。校門は記憶よりも小さく感じた。自分が場違いなように思えてしまうが、取材で来たのだと気持ちを誤魔化す。

「お待ちしてました。寒かったでしょう」

 職員用の玄関口まで来ると、女性が声をかけてきた。スーツ姿で品の良い佇まいだった。

「信州タイムスの初川千歳です」

「教頭の松代です。取材ですね。どうぞこちらへ」

 松代の案内で応接室に通される。机にはお茶が湯気を立てていた。千歳が席につき、電話で伝えた取材の旨をもう一度説明しようとした時だった。

「都市伝説をお話してくれる三年生の三人が、体調を崩してしまったんです」

 松代はすまなさそうに頭を下げたあと、「でも」と言葉をつないだ。

「今日新しく手をあげてくれた子が一人いて。どうしても今日お話したいようなんですが、お時間をいただいてもよろしいですか」

 こちらとしては、一人でも収穫があった方が嬉しい。

「ぜひ、お願いします」

「よかった。休み時間になったら移動しましょう」

 松代は千歳の対面に座った。休み時間になるまでは少し時間があった。

 しばらく世間話をしていると、自然と学校の話になった。

「実は私、今年から教頭になったんですよ。去年までは牛崎先生が教頭だったんです」

「国語の先生だった?」

 松代が小刻みに頷く。

 牛崎先生の名前は聞き覚えがあった。朗らかなお婆さんの姿が浮かぶ。千歳は中学校の頃に教えてもらっていた。古典に詳しく、テスト前に分からない場所を聞きに行ったものだ。

「今は何をしてらっしゃるんですか」

「退職されてからはボランティアで子どもたちに教えてるそうですよ」

 千歳は相槌を打ちながら、お茶をすする。

「松代先生は生徒から都市伝説を聞いたりは」

 松代が首を振ると、綺麗に染めた白髪が揺れた。

「それが全く。お力になれなくてごめんなさいね」

 佇まいが上品な人物だった。

「初川さんの頃には何かお聞きになりました?」

「わたしの頃ですか……あっ」

 千歳は不意に思い出した。

「……不審者情報」

 今まで思い出せなかったのが不思議なくらいだった。

「それはどんな?」

 松代が聞く。声は柔らかく、きっと現役の教師だった時は生徒に好かれたのだろうと千歳は思った。

「いえ、話というほどじゃないんです」

「お聞きしたいです」

 柔和な松代の眼が光ったような気がした。千歳は言葉をつなげる。

「その日のホームルームは雨でした。不審者情報が出たんです……。特徴はぼんやりとしていて大人の背の高さで黒い服を着ていたようです」

「どうして頭に残っているんです?」

「……顔が赤いんです。血を塗ったみたいに真っ赤な顔をしていたみたいで。私はそれがすごく怖かった」

「会ったことがある?」

 千歳は首を振る。

「でも、頭の中にこびりついていつか会ったんじゃないかと思ってしまうんです。私が知らないうちに赤い人が私を見ていて、私はそれに気が付かなかったら……」

「千歳さん」

 千歳は息を呑む。松代が隣に座っていた。彼女は千歳の肩を抱いて安心させようとしていた。

「……すみません」

 空調の音がやけに大きく聞こえた。

 うまく話せないでいると、チャイムが鳴った。二時間目が終わり、休み時間になった。

「それでは行きましょう」

 松代につられて席を立った。千歳は不思議な感覚を覚えた。新聞社で取材をする中で、会話のペースを掴むコツは掴めてきたと思っていたはずだが、今は松代にペースを握られっぱなしだった。

 松代の後ろをついて廊下を歩く。階段を上がり、二階の教室の前で止まる。松代は取材のために空き教室を用意してくれていた。

「また40分後に来ますね」

「松代さんは?」

「二人の方が話しやすいでしょう。私は応接室にいるので」

 松代はそう言って離れた。

 千歳が扉を開ける。教室には二つの机が向かい合わせになって置いてある。向かい側にポニーテールの少女が座っていた。

「信州タイムスの初川千歳です」

 千歳は彼女に一礼すると、椅子に腰掛けた。

「こんにちは」

 少女が挨拶すると白い歯がのぞいた。きゅっと上がった口角は見る人に快活な印象を与える。

 彼女は山口圭子と名乗った。

「冷えますね」

「ですね」

「それで今日はどんな話を……」

「待って」

 千歳の言葉を圭子は遮った。

「初川さん。私がこれから話す話に見返りはあるの?」

「基本的に取材へ報酬は支払わない原則になっています」

 取材相手に報酬について尋ねられることは多い。千歳は反射的に答えた。

「そうなんだ。じゃあ……、今回は特別にお願いっ」

 圭子が合掌してきた。

「お金を払うことはできないんです」

「ああっ、違うの。初川さんは明日の土曜日だけ私の話し相手になってほしいの」

 千歳は彼女の申し出に首を傾げた。

「それはどういう……」

「私ね、日曜日になったら消えてなくなっちゃうから」

 圭子は何気ない風に言った。嘘を言っているようには見えなかった。ただ、スケジュール帳に書いた予定について答えるように「消える」と言った。それが快活な彼女を歪にさせていて興味を惹かれた。

「消えるとは……?」

「土曜日に教えてあげる。報酬くれるの?」

 もっと聞きたいことがある。けれど、この機会を逃してはいけないと直感的に思った。

「……いいですよ」

 千歳は考えすぎる前に承諾した。

「やった。取り消すなんてダメだから」

「そんなことしません。それより都市伝説を」

「はいはい」

 圭子は千歳の反応に満足したようだった。すっと息を吸い、千歳に問いかけた。

「……初川さんは赤い顔って知ってる?」

「私のいた頃にあった不審者情報です」

 圭子は眉を八の字に曲げた。

「不審者? それじゃないかも」

 千歳は自分が聞いた赤い顔の目撃談を話した。彼女は千歳の一言一言を飲み込むように聞いていた。

「へえ……めっちゃ怪しいね」

「圭子さんが聞いたというのは」

「赤い顔は体育館の女子トイレに現れる幽霊だよ」

 千歳は言葉を促す。

「女子トイレの奥から3番目に夜中の2時に行くと現れるの。扉を閉めると「赤い顔ほしい?」って聞いてくる」

「聞かれたらどうするんです」

「「はい」と答えれば天井からカッターナイフが落ちてきて顔が真っ赤になる。断れば縄が落ちてきて首が締まって青い顔になって死んじゃうの」

 いかにも学校の怪談じみた話だが、記事のネタになりそうだ。千歳は話をノートにとる。

「どうなっても殺されてしまうわけですね」

「でも赤い顔には回避方法がある」

 圭子が顔を近づけてきた。

「なんだと思う?」

 圭子の目が悪戯に光る。彼女にとって千歳の方が年が上かなんて関係ないのだろう。第一、千歳自身、彼女の話に飲まれそうになっていた。

「先延ばしにするの。ちょっとだけ考えさせてくださいって。簡単でしょ」

 千歳は拍子抜けした。

「でも、先延ばしにしたら三日後にまた訊かれるの」

「「赤い顔ほしい?」と?」

「そう。でも今度は答えがどうあれ攫われちゃう」

「どうしてです」

「頭のいい子が好きなんだって。考えてから答える子に赤い顔は目がないの」

 三日後に攫う赤い顔。土曜日に消える少女。

「圭子さん。あなたは……」

 千歳が困惑する様子を見て圭子は笑った。

「だめ。まだ教えない。初川さん、約束は守ってね。朝10時に駅集合だから」

 圭子は千歳の言葉を待たずに教室を出て行った。扉は閉じられ、廊下を走る音が遠ざかっていく。一人残された千歳はメモ帳に「AM10松本駅」と書いた。休み時間が終わるチャイムが鳴った。

 千歳は教室を出た。応接室に続く廊下を歩いていると、迎えにきた松代と合流した

「お話はたくさん聞けましたか?」

 松代の問いに千歳は頷く。

「圭子さんは運動部でスポーツ万能そうですね」

「彼女、ああ見えて美術部なんですよ。そういえば」

 松代は手をポンと叩く。

「この間、写生会があったんです」

 松代が廊下を右に折れる。千歳が松代についていくと壁に沢山の絵が飾られていた。自分の時にも写生会があったのを思い出した。どの絵も自分がいた頃よりも上手に感じた。

 グラウンドの遊具を描いたもの、歩道橋から見た車を描いたものもある。その中で一際目立つ絵があった。

 神社を描いた絵だった。魚眼レンズのように歪ませた構図が異空間のように錯覚させた。絵を描いた作者には山口圭子とあった。名前の横には折り紙で作った金メダルが付いていた。

「圭子さん。この前の写生会で金賞とったんです」

 松代はそれを思い出して連れてきたようだ。

「すごい絵ですね。習ってるんですか」

「本人からは特に。習っていてもこんなに上手く描ける子はそういないかもしれません」

 荒々しい筆使いで青空と山の稜線が描かれている。絵を見ていると、取り込まれてしまうようで見事だった。千歳は絵に顔を近づける。一点に視線が吸い寄せられていく。神社の奥に祠があった。薄暗い灰色と黒の間に焦点が合う。

 暗闇にぼうっと赤い点が浮かんでいた。

 なんの気なしに置かれた赤い点が、こちらを見返している。

「初川さんがさっき仰っていた赤い顔の話。私も気になって昔の校内の資料を探してみましたよ」

 千歳の後ろで松代が呟いた。

「当時はよくある見間違いだったそうです。雨で赤い信号機が反射したのが原因のようです」

 松代とその後、話すことはなかった。車に乗り込み、中学校をあとにする。

 新聞社に帰る道中も頭から絵が離れない。神社の鳥居の向こうを見た時に見た赤い点はなんだったのか。

 赤い顔は千歳の記憶同様、ぼんやりとしている。霧の中から対向車のライトが光る。千歳の中に答えはまだなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

平成八年生肉之年 電楽サロン @onigirikorokoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ