だけど……

「じゃあ、お先でーす」


 バイトが終わって挨拶をして外へ出る。お疲れ様ー、という声を背に空を見上げれば、眩しいくらい大きな満月がのぼっていた。


(満月なんて久しぶりに見たなー。でっか)


 三秒くらい見つめて、そして駅に向かって歩き出したところでスマホが鳴った。一瞬誰かからのメッセージ受信かと思ったけど、バイブはなかなか止まらない。それで相手が誰だか分かった。


 月を見ていた時間よりも、迷った時間は短かった。私はバッグからスマホを取り出して電話に出た。


「もしもし……」


◇◆◇


 事が終わった後のうすら寒い空気はいつまでたっても慣れない。相手が誰だろうと、祭りが終わったあとの盛り下がりというか、気まずさみたいな居心地の悪さ。こんな風に感じるの私だけかな。


 パタン、と音がしてシャワールームから彼が出てくる。彼、って言っても彼氏ではない。三人称の『彼』だ。


「悪いな、先に使わせてもらって」

「別に。早く帰らないといけないんでしょ? いつものことだし気にしなくていいよ」


 まだしっかり体をふき終わってないみたいで、近くから見ると胸のあたりに水滴がついている。いいおじさんのはずなのに体には脂肪が見当たらない。最初はそれが格好いいと思っていたけれど、よく考えれば体型に気を付けているということよね。それってやっぱり……。


 頭の中の独り言を強引なキスで中断させられる。若干不愉快だ。不快さを一人で我慢するのもしゃくなので、ちょっとした嫌がらせをする。


「娘さん、彼氏出来たんだね」


 彼の着替える手が数秒止まった。


「あいつに?」

「大学の同じ学科だって。しょっちゅううちの店に来るよ。潤子ちゃんがいるときにしか来ないから、彼女が目当てなのね」


 ネクタイを締めるときの、布と布がこすれる音が嫌いだ。聞きたくないから更に話し続ける。


「彼氏? って聞いたら否定してたけど、照れ隠しかな。背が高くてイマドキのイケメンって感じ。いい大学入って格好いい彼氏出来て、いいなあ、潤子ちゃん。青春してるね」


 自分の学生時代を脳みその端っこで思い出しながら言ったせいか、予定よりずっと意地悪な言い方になってしまった。ごめん、潤子ちゃん。君は悪くないんだよ。


「……自分の娘がもうそんな年になったのか、って気づくのは、寂しいもんだな」


 ホテルに入る前の服装に戻った彼は、私が大好きな笑い方をしながらもう一度こっちへ歩いてきた。何をしようとしているのか分かったけど気づかないふりをしてシャワールームへ向かう。


「私ゆっくり汗流したいから、帰ってていいわよ。じゃあね」


 顔を見たら負けそうだから、振り向かずに扉を閉めた。


◇◆◇


 私のバイト先の近くには有名な私大がある。そのせいでお客にもアルバイトにも困らない。だけどよりによって自分の愛人の娘が入ってくるとは思わなかった。

 あの人の娘ならバイトなんかする必要ないだろうに。


 世間話の中に慎重に織り交ぜて聞いてみたら、意外な返事が返ってきた。


「暇な時間があるの、嫌いなんです」


 大学の授業なんて余程特殊な学部でもなければ、確かに試験期間以外は大して忙しくない。サークルや部活をがっつり取り組むタイプでもないのだろう。だとすれば余っている時間を労働に費やして対価を得るのは賢いやり方だと思えた。


 彼の娘はとっても働き者だ。愛想もいいしそつがない。そんなところはそっくりだと思う。

 顔も似てる。と言ってもお母さんを知らないから彼に似て見えるだけかもしれないけど。

 似てると思うと、可愛いと思うときとわざと意地悪したくなる時が安定しなくて困る。彼への不満やイライラを潤子ちゃんにぶつけるようで、本当に彼女がミスしたときも注意出来ない。


 彼への苛立ちと好かれたいと思う気持ちが、潤子ちゃんの顔を見るたびに甦る。そしてそんな自分にもっと腹が立つ。


 私が不倫してることを唯一知ってるのはお姉ちゃんだ。バレた時、絶対怒られると思ったけど説教じみたことは一言も言わなかった。

 その代わり言われたことがずっと私を追いかけてくる。


『自分のことを嫌いになる前にやめなさい』


 お姉ちゃんごめん、もう手遅れっぽいわ。


◇◆◇


 自分が正しくないことをしているのは分かってる。大事になんてされてない、愛されてすらいないのも分かってる。

 

 分かってる、って思うそばから『だけど……』って思ってしまう自分がいることも分かってる。


 彼が離婚して私にプロポーズしてくれれば幸せなのか、っていうと、それも違う気がする。かといって他に好きな人作って付き合うのも、今の私を喜ばせる未来ではない。


 ふと、あの時の潤子ちゃんの言葉がよぎった。


『暇な時間があるの、嫌いなんです』


 なるほど、やっぱりあの子は賢いな。

 私は暇だからこんなことが考えるし、あんなのと手を切れないんだ。


「とりあえず……就活するか」


 私はベッドから跳ね起きて、ノートパソコンを開いた。

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