ガラスの騎士

白井なみ

 天災。それは正しく、神の鉄槌。

 明けない夜のように長い長い戦争が終わり、この国の人々は皆、再び前を向いて歩き出そうとしていました。起床後には必ず主に祈りを捧げ、誰もが皆、慎ましやかに日々を過ごしていたでしょう。

 それなのに、我が主のなんと無慈悲たることか!


ある日、空の彼方から、人の拳ほどの大きさの無数のガラス玉が降ってきたのです。

 人々は、初めは雹か何かだと思いました。だけど、それが地上に迫ってくるにつれ、おかしいと気付き始めます。

 次の瞬間には、顔の上でガラス玉が弾け、至る所で赤い花が咲き乱れ、あたりは惨状と化していました。


 晴れのちガラス玉。そんなお天気、今まで聞いたこともありません。

 ガラス玉がいつ降ってくるのか、予測することは誰にも出来ず、人々は極力外に出ないようにして過ごすようになりました。

 爆撃の次はガラス玉。そんなこと、一体誰が予想出来たでしょう。

 またもや、人々の声と笑顔がこの町から消えたのです。




 私の父は、ガラス工芸職人でした。

幼い頃に母を病で亡くしてからは、小さな家で、父と二人で暮らしてきました。

 父の手掛ける作品は繊細でとても美しく、国王様に献上したこともあるのです。

 ──ですが、ガラス玉が降るようになって以降、父はすっかり元気を失くしてしまいました。

 町の人たちは、父が何かを企てているのではないかと疑い始めたのです。


 心優しい父は、何一つとして悪いことなどしていないのに、責任を感じているようでした。

 そして、父は悪魔と取引を交わしてしまいました。

 自分一人の命と引き換えに、この国の人々と娘を助けてほしいと、悪魔に願ったのです。

 忽然と父の姿が消えてしまった家の中で、私は一人、彼が遺した手紙を読んで泣きました。


『愛する娘よ。お父さんは、友人と旅に出ることにした。長い旅になりそうだから、いつ戻れるかはわからない。その間、おまえが寂しくないように、新しい家族を迎え入れた。彼は無口で愛想が無いように思われるかもしれないが、必ずや、おまえを守ってくれるだろう。それじゃあ、新しい家族と仲良くな。身体には気を付けるように。いつまでも愛している』


 手紙にはそう書かれていました。

 私は独りぼっちになってしまった!

 何日も何日も泣き続けました。

 泣き疲れて顔を上げた時、私の傍には、ガラスの騎士が静かに佇んでいました。


 騎士の身体は勿論、身に付けている鎧も、何もかもが透き通った美しいガラスで出来ています。それは、父の作ったガラスでした。娘の私にはわかります。顔は恐らくあるのでしょうが、鎧に覆われていて見えません。


 父がいなくなってしまった家で、私はガラスの騎士と二人で暮らすこととなりましたが、あまりに静か過ぎて、雪のような哀しみがしんしんと積もるばかりです。

 父の手紙に書かれていた通り、どうやらガラスの騎士は言葉を発することが出来ないらしく、私が話しかけても相槌一つ打ちません。初めの頃は、彼との暮らしは退屈でなりませんでした。


 空からガラス玉が降り始めると、町の人々は大慌てで建物の中に駆け込み、扉や窓を閉め切ります。

 時が止まってしまったかのような、誰も歩いていない町の中に、無数のガラス玉は降り続けます。地面にはガラスの破片が散乱し、後片付けも大変なのです。(ガラス玉が降り止んだら、町のみんなで掃除をします。)


 ガラス玉が降り始めると、屋内に逃げ込む町の人々とは対照的に、騎士は悠然と家の外へ出て行きます。

「あっ、今外へ出たら危ないわよ!」

 最初の頃、私がそう言って止めても、彼は聞きませんでした。


 外からは、ガラスの激しく割れる音が絶えず聞こえてきます。私は一人、家の中で耳を塞ぎ、怯えていました。

『大丈夫だ』そう言って抱きしめてくれる父も、今はもういません。

 騎士が割れてしまったのではないかと不安で不安で、私は勇気を振り絞り、二階の窓を薄く開けました。


 信じられない光景が視界に飛び込んできました。

 ガラス玉だと思っていたものは形を変え、悍ましいガラスの化物の大群となり、その中で騎士は一人で戦っていました。

 一体、これはどういうことなのでしょう。私は夢でも見ているのでしょうか。何故今まで誰も、あの化物の存在に気が付かなかったのでしょう。




 ガラスの騎士と暮らし始めて、二年が過ぎました。その間、彼は一言も言葉を発さず、素顔を見せることもなく、ただ静かに私の傍にいてくれました。

 彼と暮らし始めたばかりの頃は、私は父を喪った哀しみに全身を支配されていて、生きる意味さえ見出せずにいました。

 話しかけても何も答えないガラスの騎士が退屈だと感じ、時には彼に酷い言葉を投げてしまうこともありました。

 そして、その度に私は声を上げて泣きました。彼に八つ当たりをしたところで、父が帰って来るわけではないのに。


 だけど、私がいくら酷いことを言っても、騎士はいつも私の傍に寄り添ってくれていました。まるで、「自分に出来ることはこれしかないのです」とでも言うように、申し訳なさそうに控えめに佇んでいました。




「ねえ、貴方は悪魔なの?」

 ある時、私は騎士に聞きました。

 騎士は透き通ったガラスの鎧の奥から、私をじっと見つめ返しています。

「貴方が悪魔だって言いたいんじゃないのよ。ただ、お父さんは悪魔と契約して、それで貴方がここへ来てくれたでしょう?だから、貴方も悪魔なんじゃないかと思って」

「…………」

「でもね、貴方が悪魔だったとしても、私は貴方が好きよ。だって、貴方はお父さんの形見だもの」


 騎士はやはり何も言わず、その場にじっと佇んでいるだけでした。

 だけど、私にはそれだけで十分でした。家の中に誰かが居てくれる。それだけで絶望の霧は払われ、孤独を凌ぐことが出来るのです。




 ガラス玉が降り始めると、騎士は私を家に残して外へ出て行きます。

 私はそっと二階の窓を開け、戦う騎士の姿を見守ります。


『お願い、どうか、騎士様が割れてしまいませんように……!お父さん、騎士様を守って……!』

 そう願わずにはいられず、私はいつも泣いていました。外からは、ガラスの砕ける音が絶えず聞こえてきます。

 次第に外が静かになり、玄関の扉が静かに開いて騎士様が戻って来ると、私は彼を抱きしめ、声を上げて泣きました。

 彼の身体は恐ろしいほど冷たく、ですが、不思議と温かいような気もしました。




「ねえ、今度一緒に海へ行きましょう」

 ガラス玉が降るようになってから、もう何年も遠出をしていません。いつガラス玉が降ってくるかわかりませんから、外へ出ることはただでさえ危険なのに、遠出なんて以ての外だと町の人たちから言われていました。

 だけど、私にはガラスの騎士がいる。

 彼が一緒なら大丈夫だと考えたのです。


 彼のガラスの手を引き、私たちは列車に乗って海へ向かいました。辛うじて列車は動いているものの、ガラス玉を恐れて遠出をする人が大幅に減った為、車両の中はがらんとしています。

 私たちの他には、端の席で新聞を広げているおじさんや、陰鬱な表情で窓の外を見ている青年がいるくらいです。


 私たちは、二人掛けの座席に並んで腰掛けました。

 窓の向こうでは、物凄い速さで町の景色が流れていきます。市場に民家、役所に劇場、黄金色の麦畑に果樹園、いくつもの瞬間を通り過ぎ、やがて光の粒を纏いながら耀かがやく青い海が見えてきました。


 波の打つ音も、潮の香りも、随分と懐かしく感じます。海は私にとって、大切な場所なのです。

 小さい頃、お母さんがまだ生きていた頃、お父さんと三人で海水浴に来ました。

 お母さんとの思い出はとても少ないので、海へ来ると、家族三人で過ごした楽しい記憶が鮮明に浮かび上がってきます。

 

 私と騎士は漂流木に腰掛けて、目の前の海を眺めていました。

 突然、周囲が陰り出し、不穏な予感に空を見上げると、分厚い雲が空を覆っていました。遥か上空にきらりと光るものが見え、次の瞬間には、無数のガラス玉が降り注いできました。

 もう駄目だ!そう思いながら、咄嗟に両手で頭を守りました。……ですが、痛くありません。


 恐る恐る顔を上げると、一体何処から取り出したのか、騎士様が片手に持つ大楯で私を守りながら、もう片方の手に持った剣でガラス玉を弾いていました。


 信じられません。その姿は信じられないほど美しく、この状況下で、思わず見惚れてしまいました。

 そしてその後、更に信じられないことが起こります。

 降り注ぐガラス玉は上空で形を変え、異形の化物となって私たちに襲い掛かってきました。

 あまりの恐怖に顔は引き攣り、悲鳴を上げることさえ出来ません。


 彼は片手で私を守りながら、もう片方の手で、ガラスの悪魔たちを次々と薙ぎ払っていきました。鎧に隠れている為彼の表情はわかりませんが、とても苦しそうに見えました。

 その時、強烈な悪寒を感じて空を見上げると、異形の王とでも言うような、巨大なガラスの怪物が、灰雲の裂け目からぬうっと顔を出しました。


 すると、どういうことでしょう。ガラスの悪魔たちが次々と砕け散り、光の粒子となって消えていきます。

 ガラスの怪物は、ついに全身を現しました。それは巨大なガラスの骸で、気を失いそうになるほど、邪悪なオーラと腐敗臭を放っています。

 骸は物凄い速さでこちらまで距離を詰めてきて、私たちを圧殺せんばかりに、その手を振り下ろしました。

 私はぎゅっと目を瞑りました。


 ……どれくらいの時間が経ったでしょうか。不思議と痛みはありません。

 ゆっくりと目を開けると、さらさらと光の砂になって、骸が消えていくのが見えました。

 ガラスの騎士が私を庇うようにして、目の前に立っています。盾や剣は砕け散ったのでしょう、もう何処にも見えません。

 彼の身体には、深いものから浅いものまで、無数の亀裂が入っていました。


 私は懸命に、声を絞り出しました。

「……い、いや……いや……!いやあぁあ!お願い、消えないで……!いや、いやぁあ……!」

 鎧を纏った彼の身体が、眩い光の粒となって潮風に流されていきます。

 私は彼をこの世に繋ぎ止めるべく、消えゆく身体を強く抱きしめました。

「お願い、一人にしないで……!お願い、消えないで……!」


 ゆっくりと、彼がこちらを振り向きました。

 貴方の笑った顔が、初めて見えたのです。

 私は彼の頬に両腕を伸ばし、ガラスの接吻くちづけを交わしました。

 彼の身体が全て光となって消え、辺りには波のさざめきだけが残りました。


 見上げると雲は何処かへ消え、青空には虹が架かっています。

 彼の頬に触れた指先は、きらきらと光を纏っています。彼の頬は氷のように冷たく、仄かに濡れていました。


 深い絶望に頭の中が真っ白になり、私は暫くの間、その場に一人で立ち尽くしていました。

 騎士様がいなくなったことが信じられません。

 だけど、いくら周囲を見回しても、彼の姿はもうどこにも見えないのです。

 私はその場に屈み込み、両腕に顔を埋めて泣きました。私はまた、独りぼっちになってしまった。


 どれくらいの時間、そうして泣いていたでしょう。ふと足元を見ると、先ほどまで彼がいた所に、掌に収まるくらいの大きさのガラス玉が落ちていました。

 ガラス玉は青空を映して虹色の光を宿し、その中に私の姿を閉じ込めています。それはもう、一目見れば目を離せなくなるほど美しいものでした。


 私はそっと、両手でガラス玉を掬い上げました。

 掌から伝わる感触は、まるで雪解けのようです。冷たさの中から、春の日差しのような温もりがじんわりと伝わってきます。


 これを持った瞬間、私にはすぐにわかりました。このガラス玉は、騎士様の命の灯です。

 騎士様の命を宿す、ガラスの身体や鎧を作ることが出来たなら──もしかしたら、私はあの方を取り戻すことができるかもしれません。

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