22歳、網膜剥離

木風麦

第1話 

 動揺したとき、たいていの人は愛想笑いを浮かべるのだと、ドラマや漫画を見て思った。

 そして自分がいざその状況に立たされたとき、やはり愛想笑いが浮かんだ。


「網膜剥離ですね。手術が必要な病気です」


 近所の医師の声は、無機質で感情を感じられなかった。いかにも可哀想なものを見る目で「おつらいですよね」といわれても困るのだけど。二択だったら前者の方がいいのかもしれない。医師である限りは私のような患者を相手にしているのだから、いちいち感情移入していたら身が持たないだろうし。

「病院に紹介状を書きます。手配もこちらでしてしまっていいですか」

 と慣れている様子でトントンと話を進めていく。ほとんど頭が働いていない私にはありがたかった。

 診察室を出る前、

「紹介する病院は隠れた名医がいるところなので、そこいらの病院よりいいと思います。埼玉で1番とか、日本で5本の指には入るような名医がいるんですよ」

 と説明された。安心させてくれるような言葉をかけられると思ってはいなかったので少々面食らったが、たしかにその紹介だと不安が幾分か和らいだ。

 待合室で会計待ちしていたとき、看護師さんからは、

「びっくりしたよね、でも評判いい病院だから」と慰めの言葉をもらった。

 初対面なのに、しかも駆け込みで来たけっこう迷惑な客なのに、やさしい言葉をくれた。

 けれど、心からの笑顔で「ありがとうございます」なんて言えなかった。網膜剥離のことを、手術のことを考えないようにするだけで精一杯だった。

 なんでもない顔をして、なんでもないことだと自分に言い聞かせ、いつものようにきっとなんとかなるだろうとか楽観的に考えて、自分の大切な人の前では重くならないように前を向くよう仕向けて、病院を出た。

 手術が必要だとわかった時点で母に連絡はしていた。高校も大学も私立に行かせてもらって、私は奨学金も借りずに生きてこられた。それなのにまた手術で出費をさせてしまう。どうして私はこう金食い虫なんだろうと思わずにいられなかった。

 親は「そんなふうに思ってないよ」と言ってくれる。だけど私はどうしたって言葉を額面通り受け取ることなんてできない。自分が不甲斐なさすぎて、いつまでたっても自立なんかできなくて、こんな人間でいることがたまらなく恥ずかしくなる。


「早産でしたか」


 医師せんせいの言葉に、私の血の巡りが速くなるのを感じた。

 近所の眼科から紹介された病院には翌日行くこととなった。昨日やったじゃん、と言いたくなる視力検査と目に風が当てられる眼圧の検査を終え、眩しい光を当てられる目の写真を撮られ、あれよあれよという間に診察の順番が回ってきた。目の網膜を見ているのかわからないけれど、とりあえず機械を通して診察され、先の言葉をかけられた。

「ちょっと覚えてないです。たぶん違うと思います」と咄嗟に答えた。

 おそらく願望から出た言葉だった。そうであってほしいと思ったことをそのまま口にだしてしまった。

 診察室を出てから、やはり手術をしなければならないことを母に連絡した。あまり聞きたくない、と思いつつ、早産だったかも聞いた。すると、

「陣痛促進剤つかって出てきたよ。お腹の中で成長が止まっちゃって、出した方がいいってなったから」と返信があった。

 あの医師せんせいの見立ては当たっていた。

 未熟児に見られる症例なのだと医師せんせいは言った。実際そのとおりだった。未熟児なのは母のせいなんかじゃない。切迫流産になったときも踏ん張って耐えてくれた母のせいなんかじゃ絶対ない。

 絶対ないのに、早産が原因で目の病気になったなんて、母が自分を責めないわけがなかった。私に罪悪感を抱かないなんて無理だろう。そういう人だから。

 どう伝えたものかと、正直困ってしまった。目薬の影響で陽光やスマートフォンのブルーライトが眩しく、視線の落ち着く先が見つからなかった。

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