其の九十四:鶴松、虚無感の中に佇む

「水だ!水を持ってこい!」「違ぇよ!そっちじゃねぇ!そこ壊せ!」


 八丁堀での騒ぎを収めた後、栄の親衛隊と、新入り同心である弥七をで比良に帰らせたオレ達は、火事から逃げて日本橋の辺りまでやって来た。時間はそろそろ昼下がり…橋を渡り、ここまで来れば一安心だろうか。邪魔にならない所で、火事の騒ぎを呆然と眺めて少々…嫌な寒気は、今の所感じない。


「さて、こっからどうすっかなぁ…」


 騒ぎを遠目に眺め、遠くに見える煙を眺める中で、お千代さんがボソッとそう呟いて、懐から虚空記録帖を取り出す。それを見たオレ達は、お千代さんの周囲に集まると、お千代さんが開いた虚空記録帖の中身に目を向けた。


「真っ赤じゃな」

「うわぁ…これ、放っておけば更に増えるよね」

「虚空人になるのも出てくるだろうぜ」

「難儀だ」


 虚空記録帖の中身には、真っ赤な文字が踊っている。オレ達は揃って顔を顰めると、辺りをもう一度見回した。道行く人々は居るものの、そのほとんどは火事絡み。何時もの喧騒とはほど遠い、ちょっとしたお祭り騒ぎと言える状況。こんな不安定な中でこれだけの違反者が出れば、最早オレ達に打つ手は無い。出来る事といえば、火が鎮火して、江戸が落ち着きを取り戻すのを待つばかりだろうか。


「これから火に捲かれる奴もいるだろう。火事に出張った奴等は抜くとしても…この近辺の違反者くらいはやっとかねぇとな」


 お千代さんはそう言いながら、記録帖を捲り始める。


「離れてるってのは何処までを指す?」

「どうだかなぁ…ちと、待っててくれ」


 螢の質問に、お千代さんは答えを濁すと近場の商家へ入っていった。オレ達まで押しかけるとが起きるだろうから、黙ってみているだけ。お千代さんは中に入り、二、三の言葉を交わすと、筆を手にして戻ってきた。


「神田川までを区切りにしよう。そこを通る橋にゃ門があるもんな」

「あぁ、あったな」

「ならば…っと」


 虚空記録帖に筆を走らせるお千代さん。違反者を神田川から内側の者だけに限定するように求めると、記録帖はすぐに答えを出してきた。


「うげぇ…それでもコレか」

「外側は少ないんじゃない?まぁ、ボク達だけでやる事じゃないよね」

「親衛隊もやがて戻ってくるじゃろ。わっちが言伝しておくか」

「任せた。ワタシは門の辺りから廻る事にすっかぁ…で…こうしてぇっと」


 お千代さんは更に記録帖を捲り筆を走らせると、記録帖から返って来た答えを見てその紙を破り取る。


「公彦、お前はこの辺り。螢はこれ。鶴松はココを頼むぜ。栄はちとまって親衛隊とこれを分けな」


 テキパキと仕事を割り振るお千代さん。新人の尻拭い…裏切り者の尻拭いと考えるとやる気は失せるが、そんなことを言ってられる余裕は、少しも無かった。


「あいよ…」


 オレはお千代さんから記録帖の一部を受け取ると、早速紙に目を通す。オレの振られた地域は浅草の方…てっきり歩かされるかと思っていたが、そうじゃなかった。


「じゃ、そこに挙げた奴らを始末したら比良に戻れよ。明後日の夜、風呂屋の二階で会おうやぁ」


 お千代さんは紙を配り終えるなり、すぐさま歩き出す。どうやら、一番遠い所はお千代さんの担当らしい。オレは紙に再び目を落して、それなりに居る違反者の名前を見て頭を掻くと、ゆっくりと向かう方に体を向けた。


「んじゃ、仕事しますかねぇ」

「それじゃ、後でね」

「あぁ、後でな」

「後で」


 短い別れの言葉を交わし、日本橋の喧騒に紛れていくオレ達。火事の煙は、まだこの辺りまで届いていないが、後少しもすれば、ここも煙に捲かれるだろうか。


「しっかし、多いなぁ…」


 オレに振られた違反者の数は、ざっと数えて五十三。これは、暗くなってからも動き続ける必要があるだろう。ひょっとしたら、違反者が違反者を生み出すだろうから…数はもっと増えるかもしれない。オレは一人溜息をつくと、紙を懐に仕舞い、周囲を見回しながら首をコキコキと鳴らした。


 辺りを見回せば、火事だ火事だと喚く人ばかり。江戸で一度火事が起きれば、その日はもう何もしないのだ。皆が炎を求めて火元に近づき、それを火消しが退け家を壊して回り…様々な余波を受けてあちらこちらで喧嘩騒ぎ。火事と喧嘩は江戸の華とは良く言ったものだ。


 オレはそんな中を、ゆっくりと浅草の方へ歩いていく。行き交う人々…というより、野次馬と火消し連中が次々に来るのを避けながら、流れに逆らって進んでいく。


「曇り空か煙か、分からねぇなこれじゃ」


 空はどんより曇り空。火が起きるまでは、陰気臭い天気だと思っていたが、火が起きてしまえば、頭の上にあるモクが雲なのか煙なのかが分からなくなる。さっきまで煙の下にいれば尚更だ。


 暫く歩き続けたオレは、本格的に仕事を始める前にふと立ち止まって来た道を振り返る。ここまで離れれば、火事の騒ぎも大分収まっていた。何時もの喧騒とは違う、ちょっと不気味な静けさ。オレはその中で、道の真ん中にボーっと突っ立って遠くに見える煙を眺める。


「受け入れなきゃぁ…次は、オレの番ってやつかぁ…」


 誰にも聞かれない独り言を呟くと、手を合わせてコキコキと骨を鳴らす。さぁ、今回の仕事の総仕上げだ。


「最初は何処のどいつから手を付けてやるか…選り取り見取りだぜ。畜生め」

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