22.本音

 キスをしてと言われたエヴァンダーの表情は、固まっていた。


「……私がキスをしてしまった時、二度とこんなことをしないようにとおっしゃっていませんでしたか」

「気が変わっちゃった」


 まるで悪女のような自分の振る舞いがおかしくて、ふふっと笑ってしまう。

 こんなことが言えるなんて、自分でも思っていなかった。残り寿命が少ないのだと思うと、なんでもできてしまうものなのかもしれない。


「恐れながら、私には大役がすぎます。アルを呼んで参りますので………」

「そんなに私とのキスがいや?」

「……違いますよ」

「じゃあ、して」


 語尾を強く発すると、エヴァンダーは覚悟を決めるように息を吸い込んだ。

 そしてゆっくりと近づくと、その唇をルナリーの唇に乗せてくれる。

 一秒にも満たないキス。あっという間にエヴァンダーが離れていく。


「これで、よろしいですか」


 無理やりにさせてしまったキスは、やはり胸が痛い。

 だけど、これだけでは足りない。


「もっとして」

「これ以上はご勘弁を」


 拒否されると、胸が一層苦しみを訴えてきた。

 ばかなことをしてしまった。こうなるとわかっていたから、ずっと我慢してきたというのに。

 キスをするなと言ったりしてと言ったり、ルナリーの気まぐれにエヴァンダーも呆れてしまったに違いない。


「どうして私を試すようなことをするのですか。ルナリー様らしくもない」


 その声は、ほんの少し怒りを帯びている気がした。

 自分勝手にもほどがある。優しいエヴァンダーなら、なにをしても許してくれると驕っていたのだ。

 途端にルナリー心は罪悪感に襲われ、頭を垂れる。


「ごめんなさい……」

「ルナリー様……」

「嫌わないで……許して……」


 こんなにすぐ後悔するなら、最初からやらなければよかった。

 エヴァンダーの気持ちはわかっていたはずなのに、我慢ができなくなってしまっていた。


「命が尽きるまで、いい聖女でいようと思っていたのに……本当に命の期限が近づいているんだと思うと、私……っ」


 わがままが……そして欲望が溢れた。自制できない自分が情けなくて、こんなことをさせてしまったエヴァンダーに申し訳なくて、ぽろぽろと涙が溢れる。


「いい聖女で……?」


 エヴァンダーが眉を下げながら、そっとルナリーの金髪を撫でてくれる。


「無理に演じずとも、私もアルもそのままのルナリー様のことを愛していますよ」


 優しい言葉をかけられると、さらに涙が溢れてきてしまう。

 聖女は正義だから。人々の模範となるように、清廉でいなければいけないと思っていた。

 だけど命が残りわずかだと思えば思うほど、聖女も一人の人間なのだと知るほど、清廉なんかではいられなくなってきている。


「本当に……? 私がどんなわがままを言っても欲望を溢れさせても、私を愛してくれるの?」

「私の気持ちは、ルナリー様のわがまま程度では変わりません」

「でも今、キスをさせたら嫌がってたじゃない!」


 拒否されたのが苦しくて、ルナリーは思わず声をあげた。

 また優しい言葉で誤魔化されたくなんかない。嫌ならそう言ってほしい。

 もちろん真実を知るのは怖さもある。もし『本当はこんな小娘の機嫌なんかとりたくない』などと言われたら、泣き崩れてしまうかもしれない。

 しかしこのまま気持ちを誤魔化され続ける方が、申し訳なくて胸が潰れそうだった。


「嫌がってなんかいませんよ」

「うそ! してって言っても一度しかしてくれなかったわ!」

「それは、ルナリー様にはご自分を大事にしてほしかったからです。残り寿命のせいで投げやりになってしまう気持ちはわかりますが、そういうことは本当に心から愛する人と……」

「私が愛してるのは、エヴァン様よ!」


 思わず叫ぶと、エヴァンダーは「……え?」と少し目を広げていた。

 ああ、告白してしまったと、ルナリーは痛む胸を押さえる。

 言ってしまえば、エヴァンダーはルナリーの言うことを聞かざるを得なくなってしまう……だから伝える気はなかったというのに。


 けれどもう限界だったのだ。このまま気持ちを押し殺すことなんて、できなかった。

 今さら『妹として愛してる』なんて言い訳ではきっと誤魔化せない。本気の気持ちを伝えてしまったのだから。

 いつも飄々としているエヴァンダーは、さすがに驚いたのか言葉を詰まらせている。


「残り寿命がわずかな私に、告白なんかされても困るってわかってる……エヴァン様は私の気持ちを無下にはしないって知ってるから、言うつもりなんてなかった……けど……」

「ルナリー様」

「ごめんなさい……聞かなかったことにして……エヴァン様を困らせたいわけじゃな──」


 すべてを言う前に、ルナリーの体はぐっと抱きすくめられた。

 すっぽりとエヴァンダーの腕の中に収まってしまったルナリーは、ぎゅっと唇を噛む。


 だから嫌だったのだ。こうさせてしまうことを、わかっていたから。


「離して……」

「嫌です」

「もう無理に優しくなんてしてほしくないの……! させたくないの!」

「同情や、護衛騎士の責務で優しくなどしていません。ルナリー様に優しくするのは……私の意思です」


 ハッキリと伝えられた言葉に、それでもルナリーはまさかという思いの方が強い。

 優しすぎるエヴァンダーは、最期の瞬間まで自分を騙し切るつもりなのだろうと。


「うそ……」

「好きだと、愛しているとお伝えしたはずですが」

「私のために言ってくれただけでしょう……?」

「違いますよ。私が伝えたかったから、伝えたのです」

「本当なの……?」

「どう言えば信じてもらえますか。百回好きだと、愛してると言えばわかってもらえるのですか。それとも百回キスすれば?」


 抱きしめられたまま耳元で囁かれる。

 体が痺れるような感覚に襲われて、胸の奥がきゅうっと収縮した気がした。


「嫌ならおっしゃってください。ルナリー様、好きです」


 ちゅ、と音がして耳たぶにキスをされる。

 くすぐったくて身じろぎすると、今度はこめかみにキスされた。


「愛しています……好きです」


 次は額に、そしてまぶたに。頬に。


「好きです……好きです。愛しています」


 唇をかすめ、首筋に、腕に、手の甲に、指に。


「愛しています。愛しています、誰よりも……」


 髪に、肩に、耳の下に。


 幾度となく繰り返されるキスに、全身が喜びで震えていた。

 気づけば涙が溢れていて、ルナリーは自分からエヴァンダーを抱きしめる。


「ルナリー様……?」

「私も……好き……エヴァン様を、愛してる……」


 たくさんの愛を受けて、ルナリーもようやく素直に言葉にする。

 交わされた視線は、互いを真剣に見つめ合っていて。

 エヴァンダーの翡翠の瞳は、笑みとともに細められた。


「ありがとうございます、ルナリー様……嬉しいです」

「私も……私も、愛してくれてありがとう……私はもう、少ししか生きられないけど……」

「言わないでください、今は──」

「んっ」


 エヴァンダーの唇が、ルナリーの唇に重なる。

 何度も何度も──

『愛しています』の言葉とともに。


 二人は存分に互いの想いを確かめ合う。

 百回を超える愛の囁きと、キスで。


 カーテンの隙間を掻い潜り、太陽の光が部屋に柔らかな輝きを運び込んでいた。

 存在が重なり合うことで、互いを理解し、心の奥深くでつながっているような感覚で満たされる。

 時が静止し、外の喧騒が遠ざかったかのような瞬間。

 世界に二人しか存在していないような錯覚に陥っていく。 



 ──その日、エヴァンダーとルナリーが宿から出てくることは、なかった。

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