第五章 そして

第40話 正夢

 千歳が会社を辞めたのは、当然の流れだった。


 自宅で意識を失って倒れていて、目が覚めると、丸々一日経っていた。床にそのまま倒れ込んでいたので、体中が痛く、あちこちが軋むようだった。


 割れそうになったネイルのはげかけた爪。


 艶のない髪の毛。


 窓に映った自分の姿を見て、千歳はこれは限界だと感じた。


 翌日、病院に念のため行ったのだが、特に何も問題はないという。良かったと胸をなでおろしながら、家に帰ってすぐに千歳は心を決めた。


 たった数時間意識を失っていただけなのに、心が穏やかで晴れやかな気持ちになっていた。


 まるで、長い間とても心地の良い夢を見続けていたかのような。身体は痛かったのに、不思議と今まで感じていた謎の焦燥感も、不安も、怒りも悲しみもなくなっていた。


 退職の希望を出したのはそれからすぐ後で、引き継ぎ作業を終えるとすぐに住んでいる部屋を引き払った。


 今まで、一度も帰ろうと思わなかった実家に、突如帰りたくなったのだ。


 なぜか、家族に病気があるような気がしていて、すぐに戻らなくてはと思ったのだった。


 電話で仕事を辞めて戻るからと伝えると、いつもは図太い神経を持っている母が、その時ばかりは声を詰まらせたのだった。


 千歳はそれで、父に何かがあったのだと確信した。


 実家に帰って、そして父親の癌のことを知らされた時、つい口をついて出た言葉は「うん、知っている」だった。


 そして、そう呟いてから、自分でもなんで知っていたんだろう? と疑問に思うばかりだった。


 何か、そういった夢を見ていたのかもしれない。


 実家に帰ると、父親が癌だと分かってしまう夢。見た覚えはないのだが、妙に現実感を持っていた。


 帰ってきた千歳を見て、両親は涙を流した。


 千歳は、やっとほっとした。


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