第26話 冬の海
「ねえ死神。ちょっとだけ、海行こう」
どうせ寒くないのだから、と思って千歳がバスから降りると死神に向き直った。雪がはらはらと降り注ぐ中、真新しい雪の上に足跡もつかないのを見ると、なんだか無性に海に行きたくなった。
「いいですよ」
「こっち」
バス停から雪を踏むことなく歩くこと数分。雪は死神の上にも降り注ぐのに、積もることさえなく消えて行く。千歳も雪を掴んでみようとしたのだが、雪に触れられることさえできないままそれらは消えた。
波打ち際まで行くと、水が打ち寄せる音が耳に大きく聞こえてきた。睡眠リラックスミュージックのような音ではなく、激しく波が引いては打ち寄せる音は、お腹に響くような迫力がある。テトラポッドに勢いよく弾ける波が、白い花を咲きほこらせるかのようにはぜる。
「嗅覚は残っていないのに、視覚と聴覚は残っているのね。触れないし、海の匂いもしないけれど、私、帰ってきたんだ……」
海をじっと見つめながら、千歳はそう思った。髪の毛がぱさぱさになるのを嫌がり、潮の匂いが滲みこんだ家を飛び出したのは、何年前だったか――。
千歳が帰ってくると信じて、見送った時も一生懸命に尻尾を振っていたチビの顔が忘れられない。
駅まで送ってくれた両親の、じゃあね、と言ってその後の言葉を飲み込んだ喉の動き。
帰ってきたくないと思い始めたのは、いつからだっただろうか。いつの間にか、冬の海よりも冷たい都会の冷たさに心が凍えていた。
必死で仕事をこなして、必死に生きて行かなければならない日々。溺れて、呼吸の仕方も大事な物さえも忘れて、がむしゃらに息もせず泳ぎ続けていた自分に残っていたものが、まさかの突然死だったとは。
千歳の目からす、っと涙が出てきた。
ぬぐうこともなく、突っ立って海を眺めたまま、千歳はしばらくそうしていた。海を見ていると、心が空っぽになった。何にも考えずに、ただただ波を目で追うのが好きで、カモメが飛んでは海に落ちるように着水するのを見ていた。
千歳はやがてその場に座り込む。
死神は一言も口をきかないまま、そっと、ずっと千歳の隣にいた。
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