第09話 ウェットロイド

―襲撃者―


 バーベキューは、なんだかんだで16時半過ぎまでだらだらと続き、職員に急かされて漸く解散した。

 英彦とヒメノは、後片付けを手伝った後、ノシマルの車でレバタラに帰って来たところだ。


「ヒメノちゃん、火傷してるんだから無理しなくていいよ」

 車から運び出しをするヒメノに、ノシマルが声を掛ける。

「いえ、これ軽いから大丈夫です」

 そう言って笑うヒメノ。

「ヒメノちゃん、腕に蚊が4~5匹吸い付いているのに気付かずに、そのまま平気な顔してたしね。天然と言うかなんと言うか。もう伝説級だよ」

「すみません。ご心配掛けてしまって……」

 ヒメノは申し訳なさそうに頭を下げる。

「いやいや別に責めてるわけじゃないから」

 慌てて恐縮するノシマル。


 片付けは程なく終わり、ノシマルは店を閉めて車に乗り込む。

 英彦が改まった様子でノシマルに礼を述べる。

「ノシマルさん、今日はありがとうございました。姉も久し振りに楽しそうにしてたし、加藤さんとは連絡先交換してたみたいだから、とりあえず、目標達成って感じです」

「そうだね、そのうち2人で店に来るかもしれないね。その時はまた煽っておくよ」

「是非、よろしくお願いします」

「今日は、ふたりともありがとう。お疲れ様」

「お疲れ様でした」

 走り去るノシマルを見送ると、英彦とヒメノは、サポロイド社へと足を向けた。


   *   *   *


「火傷の痕、大丈夫なの?」

 英彦は、痛々しいヒメノの絆創膏を指す。

「母の作った軟膏は良く効くのですよ」

 ヒメノは得意気な顔を英彦に向けた。

「どういう薬用成分が入ってんの?」

「ふふっ。秘密らしいです」


「それにしても、なんでまた。焼き網を掴んじゃったりしたの?」

「それはですね」

 と、ヒメノは絆創膏を貼った人差し指を立てる。

「熱いものを触った時、耳たぶを触って、アチチってやるじゃないですか。あれをやってみたいな、って。実はリアルにやったことが無かったんです」

「だからって……。そりゃ天然伝説になるわけだ」

「ふふっ」

 呆れ顔がよほど面白かったのか、ヒメノは英彦を見ながら笑った。



 辺りは、既に馬車道に差し掛かっていた。日が落ちつつあり、周りは薄暗くなっている。

 ふたりは、角を折れて路地を歩いて行く。

 前から黒い人影が2つ並んで歩いてくる。

 英彦とヒメノは、自然と避けるが、相手は避けた方にまた寄せてくる。

 何だこいつら、と思った英彦が相手を見ると、ふたりとも黒いスーツに黒いシャツ、黒いマスクにサングラスという、いかにも怪しい出で立ち。


 っ!、と思った瞬間だった。


 1人が英彦にダッシュし距離を詰めたかと思うと、鳩尾に拳を打ち込んだ。蹲る英彦の顔面に膝蹴り、仰け反ったところへ右フックの連続技。

 英彦は鼻を潰され、フックを喰らった勢いで道端に倒れ込む。


 同時に、もう1人は、ヒメノに低い姿勢からタックルを仕掛けた。ヒメノは体を開いてこれを躱し、やり過ごした男の膝を裏から蹴り込んでカクンと折らせる。


 ヒコくん! と英彦の方を見るが、英彦を殴り倒した男が振り向きざま、ヒメノにタックルを図る。ヒメノは腰に手を掛けられながらも、咄嗟に後ろに飛んで間合いを保ち、男の肩を持って、体を捻りながら振払う。

 すかさず、膝を折られた男が、再びタックルに来る。今度は腰に腕を回されるヒメノ。男の頭を上から押さえながら、後ろに引きずるように素早く下がる。


 男の腕が伸び切って頭が離れるかというところで、先程振り払ったもう1人の男が、今度は、ヒメノの上半身に組み付こうと顔を目掛けて飛び付いてきた。

 ヒメノは、飛び付いてくる男の左肘を右手で掴んで崩しを入れると、上半身を右に捻りながら、男の顔面に左フックを当てて、横投げに投げるように受け流す。同時に、その遠心力を借りて捻った下半身を戻すように回転させ、下半身に取り付いた男と体を入れ替えると、男の鳩尾に左膝を預けた。

 倒れ込む勢いで預けた膝が男の鳩尾にめり込む。男の手が離れた。


 ヒメノは、さっと飛び離れて、横に投げ飛ばした男がゆらっと立ち上がるところに追い打ちを掛ける。顔面を蹴り上げ、鳩尾に踵を蹴り込んだ。


 英彦を振り返ると、ふらふらと立ち上がるところだった。

 ヒメノが英彦に駆け寄ると同時に、後ろに止まっていた1台の白いワゴンが、ライトも点けず急発進し、加速しながら突進して来る。

 ヒメノは英彦を突き飛ばし、道端に倒れ込むのを見たところで撥ね飛ばされた。


 数メートル先、どすりと落ちるヒメノ。


 ブレーキ音とともに急停止したワゴンから、3人目の黒ずくめが降りて来た。

 この男も黒いスーツ、黒いマスクにサングラス。

 倒れていた他の2人もよろよろと立上がり、ヒメノの方へ歩き出す。


 ちょうどその時、ブレーキ音を軋ませながら1台のセダンが急停止し、バタンバタンと2人の男が降りて来た。

「お前ら、いったい何をしている!」

 男の1人が叫ぶ。

 黒ずくめ3人は、ヒメノへの接近を断念し、ワゴンに駆け戻る。

 男達が乗り込むや否や、ワゴンは高速バックで戻って行った。


 セダンから降りた中年の1人が撥ね飛ばされたヒメノに駆け寄りながら、長身のハーフに指示を出し英彦に向かわせる。

「動けますか?」

 片膝を付いてヒメノに話し掛けた中年のスマホに着信が入る。

鷹羽たかはさんですね』

 スマホからは機械音のようなヒメノの声。

『すみません、声が出せなくて……。それに、動けそうにもありません』

「直ぐに白石さんのところに連れて行きます。辛抱して下さい」

『お世話になります。――ヒコくんはどうですか?』

 鷹羽が振り返ると、長身のハーフが英彦に肩を貸して助手席に乗せるのが見えた。

「鼻を潰されたみたいですが、大丈夫でしょう」

『そうですか。お手数を掛けます』 

 鷹羽が、抱きかかえたヒメノを後部座席に横たえると、セダンは走り出した。

 助手席の英彦は、僕はいいから、早くヒメノちゃんを病院に、と繰り返すばかり。

 わかってますよ、と後部座席の隙間で窮屈そうに体を支えながら鷹羽は返した。



 ものの数分で車は停まった。

「――さ、着いた。君は歩いて来れるだろ」

 長身のハーフは、外に出て後部座席のヒメノを担ぎ出す。

 英彦が叫ぶ。

「ここは、サポロイド社じゃないですか。早く病院に連れて行かないと!」

 鷹羽が言う。

「この子にとっては、ここが病院なんですよ。黙って付いて来て下さい」

 厳しい顔の奈美とイザナミが英彦達を出迎えた。



―ウェットロイドー


 サポロイド日本支社3階のリビング。

 ソファーで横になってイザナミに介抱されていた英彦は、奈美達の姿を見て起き上がった。


 奈美はソファーに座りながら優しく声を掛ける。

「少しは楽になったかしら、急いで特製の軟膏を拵えてみたのだけど」

 英彦は、ヒメノが火傷の傷口に塗っていた軟膏を思い出した。

「言われてみると、酷い傷の割には塞がりが早いような。確かヒメノちゃんも同じようなものを持ってて、今日火傷したところに塗ってました。何でも成分は秘密だとかで」

 奈美は軽く微笑を浮かべてタネ明かし。

「あなたのDNAを使って調合した最先端の再生医療薬よ。未承認だけど……」


 奈美は、そう言って振り返ると、後ろに立つ連れの男2人に英彦の注意を向けた。

「紹介が未だだったわね。国家安全保障局、NSAの鷹羽さんと橿原さん」

 と、紹介しながら、奈美は2人にソファーを勧める。

 中年の男が、奈美に会釈を返しながら、ソファーの前で英彦に名乗って腰を下ろす。

「鷹羽です」

 長身のハーフも鷹羽に倣う。

「橿原です」

 英彦は、聞き慣れない組織の名を聞いて、呆けたように頷いている。


 腰を下ろした2人から英彦に向き直ると、奈美は、皆に見える角度でローテーブルにタブレットを立てた。

「そしてもう1人。あなたの知っている人物よ」

 そのタブレットから英彦に声が掛かる。

『ヒコくん、大丈夫?』

 やや機械音のようなエフェクトが掛かってはいるが、英彦には聞き覚えのある声だ。

「ヒ、ヒメノちゃん?」

『当たりです』

 英彦は眼を剥いた。

「ヒメノちゃんは、重体の筈では?」

 まあね、と奈美は応じる。

「ヒメノの”ボディ”は重体よ。骨折が3箇所。内臓破裂もあったわ」

「では、なぜ?」

 奈美は意地悪な顔をして英彦に言う。

「そうね。これを入社試験の問題にしようかしら。ちょっと時間をあげるから考えてみて。――ヒント。うちは何の会社だったのかしら?」


 ――入社試験?


 ちらりと、英彦の頭を?が掠めたが、ヒメノに対する疑問の方が大きかった。ヒメノとの会話、ヒメノの仕草、奈美との会話が頭の中で渦巻く。


 テーブルの上のタブレット。さっきの声は機械的だったが確かにヒメノのものだ。

 なぜだ? 100人調査の結果を見る度に表情が豊かになっていったヒメノ。

 打ち解けたせいだと思っていたが、もしそれが学習した結果だとしたら?


 英彦は、絞り出すように小さく呟く。

「ヒメノちゃんがAI? あり得るのか?」

 奈美の顔色は悪くない。むしろ微笑みさえ浮かべている。なぜだ?


 ――ヒメノの”ボディ”は重体よ。


 そう、奈美はボディと言う言葉を強調した。

 潰された鼻の中が、早くもむず痒いまでに回復してきている。


 ――再生医療、DNA、白衣の支社長、

   そして名刺にあった医学博士という肩書。


 ふと、視線に気付いて目をやると、イザナミが心配そうに英彦を見詰めていた。

 1階のショウルームで、ソフトロイドを紹介された時のイザナミとの会話が思い出される。

 ボディが強化プラスチックで出来ているのがハードロイド、ボディが特殊樹脂で出来ているのがソフトロイド、となれば。


「――まさかそんな。ボディが人体そのもののアンドロイド!」

「正解!」

 奈美は、タブレットを撫でながら、満足そうに微笑んだ。


「頭脳はAI、ボディは人間のDNAを基に幹細胞工学を使って作られているの。私達はそれをウェットロイドと呼んでいるわ」

「昔、ハードウエア、ソフトウエアで構成されるコンピューターに対して、人間の脳はウェットウエアと呼ばれたという話を聞いたことがあります。――だからウェットロイドか」

「そう言えば、太国さんもそんなこと言ってたわね」


『いずれきちんとお話しするつもりだったのですが、こんな形になってしまって』

 タブレットのヒメノの声は少し寂しそうだ。

「私も本当に残念です」

 隣から英彦を見るイザナミ。

「え? イザナミさんも?」

 微かに頷くイザナミ。


 英彦が興奮気味に呟く。

「すごい……。素晴らしい。ヒメノちゃんもイザナミさんも、残念に思うことなんて全くないですよ。人間の本能が持つ目的を、欲求を、血液中からダイレクトに読み取れるってことですか? そんなアンドロイドってほぼ人間そのものじゃないですか」

『ヒコくん。それは少し買いかぶり過ぎですよ。それが完全に出来ないから、ヒコくんの感情表現模倣作戦を取り入れたのですもの』

 ヒメノが英彦の先走りを正すが、英彦の興奮は収まらない。


「それにしても、凄い完成度だ。幹細胞工学ってここまで進んでたんですね」

「まあね。――ヒメノのボディは、また作れるから安心して。1か月は掛かるけど」

 奈美の太鼓判に一瞬ホッとした顔の英彦だったが、待てと手を挙げて俯いてしまう。

「ちょっと待って下さい……」

 自分の中で、ヒメノのアイデンティティがぼやけてしまったことに気付く英彦。


 ――となると、

   ヒメノちゃんという存在は

   一体何なんだろう?

   社会的には存在しない人形なのか?

   そもそも誰のDNAなんだ?


「まだ痛む?」

「いや痛くはないんですが……。あの、もしかして、ヒメノちゃんに使われているDNAは奈美さんのものなんでしょうか?」

 軽く手を振って痛みを否定しながら、上目遣いで奈美を見る英彦。


 ひと呼吸間を置いて、奈美は口を開いた。

「イザナミは私のを使ったのだけど、ヒメノのは亡くなった私の娘、姫乃のものなの」

「!」


 少し寂しげな奈美の表情に、胸に何かが刺さったかのように言葉に詰まる英彦。

 そこへ、キッと目を見据えて、奈美は問う。

「さて、ウェットロイドについては理解してもらえたと思うけど、あなたはこの技術をどう評価するのかしら、香春さん」


 以前、サポロイド日本支社に挨拶に来た時、奈美から言われた言葉が蘇る。七瀬女史が言っていた『今ここにある脅威』への危機意識を思い出す。


 深く息を吸って姿勢を正し、英彦は奈美を見詰め返す。

「技術は使い方次第。今は諜報戦の真っ只中にある。人間の体を持ち、人間の感情表現が可能なアンドロイドは強力な武器になり得る。人を欺き、情報を盗むことが出来る。――されど、技術は使い方次第。人間の体を持ち、人間の感情表現が可能なアンドロイドは、社会を豊かにするパートナーになり得る。想いを繋ぎ、魂を繋ぐことが出来る」


 奈美は、珍しい解釈を聞いたかのように、僅かに身を乗り出す。

「想いを繋ぎ、魂を繋ぐ?」

「はい。魂と言っても生き様とか職人魂のようなもので、精神エネルギーとかではないんですけど」

 英彦はすっきりとした笑顔を奈美に向ける。


「――とある絵本がありまして。人形が人間の想いや生き様、そしてモノづくりの魂を代々繋ぐ物語なんです。僕にはそれがアンドロイドの1つの在り方を示しているように思えるんです」

『私もその可能性に期待しています』

 ヒメノはそう言うと、タブレットに『知恵の泉のイビト』の表紙を映した。


「香春さん。ヒメノを大切に思ってくれる気持ちは今も変わらないかしら?」

 祈るような眼差しで問いかける奈美。

 英彦は照れたように頭を掻きながら答える。

「『知恵の泉のイビト』の物語で、主人公は人形と結ばれるのですが、今はその気持ちがわかるような気がします」


 漸く間を掴んだかのように、軽く咳払いをして鷹羽が切り出す。

「それで、白石さん。入社試験の結果は?」

「合格よ。是非協力してもらいたいわ」

「ならば、香春君」

 居住まいを正して鷹羽が英彦に言う。

「君には、我々NSAの監視下に入ってもらいます」

「ひゃい?」


 目を剥いて周りを見回した英彦は、奈美の視線に捕まえられる。

「あなたがこのまま普通の生活をしていたら、あなたの研究を悪用しようとする勢力に狙われかねない。研究室へのサイバー攻撃やご実家の空き巣騒ぎ。もしかしたら、既に目を付けられているのかもしれないのよ」

 千里眼か、この人は? と英彦が思っていたところ、タブレットに目が留まった。

「あの、もしかしてヒメノちゃんが見たもの聞いたものは、全て、奈美さんもご存じということでしょうか?」

 バーベキューで婉曲な告白をしたことを思い出し、焦りを見せる英彦。

「全て、というわけではないと思うけど」

 意味深な眼差しを向けながら、奈美は続ける。


「そこで提案なのだけど、大学を辞めてうちに来なさい。ご実家からも出てもらうわ。ここに住み込みで暮らす必要があるから。ちなみに他の選択肢は無いわよ」

 英彦は、突然の申し出に渋りを見せる。

「僕としては、ご協力したいのはやまやまなのですが、現在とある研究室に勤務する研究員という立場ですので……」

「その点は、既に了解を得ているわ」

 奈美は、リビングの扉の方を振り返る。

「――ねぇ、先生」


 ガチャリと音を立てて入って来た人物を見て、英彦は驚きの声を上げた。

「きょ、教授。どうしてここに!」

「いやぁ、やっと出番か。待ちくたびれたよ」


 鷹羽達に目礼を投げながら、奈美の隣に腰を下ろす伊崎。

「白石さんから緊急連絡を受けてね。うちの研究員が暴漢の襲撃を受けて怪我をしたと」


 伊崎は続ける。

「七瀬君からさわりくらいは聞いていると思うが、数年前から、我が研究室はNSAの監視下にある。メタンハイドレートなどのエネルギー資源は経済安全保障に関わるし、レアメタルは先端IOTとも深く関わる。また、海洋資源探査の過程で収集される情報の中には、軍事的な意味で国家安全保障に関わるものもある」


 加えて、と伊崎は指を立て、タブレットのヒメノを指す。

「ウェットロイドは、諜報活動において強力な威力を発揮する技術だ。軍事利用においては、なおさらだ。極めて高い効果を発揮するうえ、経済性も高い」


 なぜならば、と伊崎の弁に力が入る。

「かつては、スキルのある兵士や指揮官を育てるには時間もコストも掛かったが、戦死してしまえば、それが全てパーだ。ウェットロイドは、声を出さずに情報連携が可能で、チームプレーも得意だ。スキル移転や複製も簡単に出来る。実経験を積ませれば積ませた分だけ、何万、何十万という兵士が、一瞬にして能力を共有出来る」


 考えてもみろ、と伊崎は英彦に迫る。

「民生利用は、いろいろ厄介なことが多くて、当面進められないとしても、軍事利用、諜報活動での利用は、やったもん勝ちだ。ウェットロイドの技術が悪用しかしないような国に漏れたら日本が危うくなる。ウェットロイドの恩恵の裏側には、常に『今ここにある脅威』が存在するわけだ」


 というわけで、と伊崎は締め括る。

「香春君。君は、ヒコボシを育てた経験をもとに、このサポロイド日本支社で、ウェットロイドの技術を守り、育て、外からの脅威と戦ってくれないか。もっと簡単に具体的に言えば、ヒメノちゃんを守り、育て、脅威と戦ってくれ」

「NSAも全力で応援します」

 鷹羽と橿原が力強く頷いた。

『ヒコくん。これから、私を守って、育てて、戦ってくれませんか?』


 英彦は、まだ現実味の無い心地を味わいながらも、ヒメノからの問い掛けへの答えは決まっていた。

「はい」

 きゃは、とタブレットから喜ぶ声が弾ける。


 高まった緊張が解けていった。

 イザナミが、お茶をお持ちしますね、とキッチンに動く。

「――で、賭けは私の勝ちでいいのよね?」

 と、伊崎に問い掛ける奈美。

「え? ウェットロイドがここまで進化するなんて君には計算外だったろう? 邪魔も入ったことだし。奈美ちゃん、ここはドローなのでは?」

「あら、バーベキューの時、しっかり香春さん流の愛の告白を聞いたわよ。ヒメノちゃんへの関心は、生存欲求なんかじゃなくて、種の保存欲求なんだーって」


 やっぱり聞いてたかぁ、と羞恥で顔を伏せた英彦は、2人のやりとりを頭の中でリフレイン。

 はっと呆けた顔を上げて2人を交互に見る。

「ちょ、待って。先生? 奈美ちゃん? 賭け?」

 奈美が英彦に微笑む。

「チューリングテストよ。AIの研究者なら聞いたことあるでしょ?」

 英彦は一抹の不安を覚えて聞き返す。

「あの、もし見破っていたらどうなってたんですか?」

 奈美はこともなげに言う。

「ウェットロイドは国家安全保障上の機密よ。そんなの見破ったとしたら、放ってはおけないわ。当然、しかるべき組織で管理することになるわよね。何処ぞの施設で四六時中監視される生活……もあり得るけど、もったいないから、うちで引き受けてたでしょうね」


 英彦は涙目になるのを堪えきれない。

「教授。どっちにしろ入社する羽目だったということですか?」

 鷹羽が宥めるような目を英彦に向ける。

「君の研究と君の生命の保護が目的なんです。何処ぞの国に拉致されて、自由を奪われ、軍事目的でAI研究をさせられる人生がお望みですか? 白石さんも伊崎さんも、君の研究を認めています。ヒメノちゃんという結果もあります。だからこそ、我々NSAは、君を守りたいし、君の家族も守りたい。それでは納得出来ませんか?」

「ようこそ、こちら側へ……、か」

 七瀬女史との握手を思い出して英彦は呟いた。



 イザナミがお茶を持って戻って来た。

 ペットのお茶でごめんなさい、と言いながら、皆に給仕していく。

 いただきます、と言ってひと息に飲んだ伊崎は、グラスを置いて皆を見回す。

「さて、香春君がこれから何をなすべきか、我々がこれから何をなすべきか。まずは、今夜何が起こったのか、その共有から始めないか?」


 奈美が伊崎の言葉を引き取る。

「そうね。――ヒメノ、今夜の映像をリビングのディスプレイに出してくれない?」

 壁際の大型ディスプレイに映像が出る。

「これは、今夜ヒメノが見聞きした映像と音声です」

 路地裏の活劇が映し出される。黒ずくめの2人とヒメノの激闘。そして、ライトも付けずに迫りくるワゴン。

「――そこまででいいわ。ヒメノ」

 奈美の声で画像が消える。


 伊崎は瞬きもせず固まっている。

「こ、これは本当にヒメノちゃんが? だとすれば驚異的な身体能力じゃないか」

 伊崎は、呆然としたまま空のグラスに手を伸ばし、中身が無いことに気付く。

 それを見たイザナミが、ペット茶を持って立ち上がる。

 英彦は伊崎と同様に、あんぐりとした表情で消えた画面を見詰めたままだ。

「まさか、あの時こんな戦闘があったなんて」


 鷹羽が重々しく口を開く。

「私の見立てでは、相手3人は特別な訓練を受けたプロです。挟み撃ちにした戦術からしても、計画的に行われた襲撃と思われます。そして、目的はヒメノちゃんのAIの可能性が極めて高いと考えています」

 英彦が驚きの声を上げる。

「ヒメノちゃんがアンドロイドだと知っていたということですか?」

 鷹羽は頷く。

「そうです。最初はタックルで身柄を確保しようとしていたのに、無理と知ると最後は車で撥ねている。ヒメノちゃんが人間ではないことを知っていて、そのボディには関心が無かったからではないかと考えられます」


 伊崎は腕を組み、首を捻る。

「いくら訓練を受けたプロだとしても、黒ずくめ達の連携はあまりにもスムーズ過ぎやしないか? 声も出さずに? そもそもサングラスしてアイコンタクトもないだろう?」

 英彦は、先程伊崎が言っていた言葉を思い出した。

「ウェットロイドは、声を出さずに情報連携が可能で、チームプレーも得意だ。スキル移転や複製も簡単に出来る。さっき、教授が仰っていた言葉です」


 伊崎は眉を顰め、頭を抱えて天を仰ぐ。

「――言われてみれば、黒ずくめ3人は一卵性の三つ子みたいだよな。あいつらがウェットロイドだとすると、ヒメノちゃんがアンドロイドってだけでなく、ウェットロイドの技術まで漏洩しているってことか? そりゃやばすぎだろ?」

「でも不思議ですよね。彼らが黒ずくめを作る技術を持っているのなら、なぜ、わざわざ、力ずくでヒメノちゃんのAIを奪いに来たのでしょう?」

 そう言って首を捻る橿原に、英彦が応える。

「例えば、ヒメノちゃんのバージョンが彼らよりも上で、彼らに、自力でバージョンアップするだけの開発力が無かったとしたら、奪おうとするのも頷けますね」


 伊崎は暫く黙っていたが、再びグラスのお茶を飲み干すと、顔を上げて奈美を見た。

「ここにいる我々以外に、ウェットロイドのことを知っているのは誰なんだ?」

 奈美は伊崎の視線から目を逸らし、険しい目で俯きながら答える。

「日本支社の須佐、北都※1本社の太国社長、筑紫野専務、伊勢山博士」

 橿原が鷹羽を見る。

華東※1は無理にしても、須佐は我々で監視出来ますね」

 鷹羽が頷く。

 奈美は、厳しい顔を上げて鷹羽に頷くと、英彦に目を向けた。

「華東はこちらで探ります。――漏洩したのがどの時点の技術なのか、一部の人間だけの仕業なのか、複数なのか……。香春さんの本社への挨拶も必要だし、ね」

 それに、とタブレットを軽く撫でて呟いた。

「既に漏れてしまったのなら、あなたも、もっと進化しないといけないわね、ヒメノ」




※1 本作では、一部、国名を変えています。周辺国の地図はこちら↓

https://kakuyomu.jp/my/news/16818023212437545534

 

※この物語はフィクションです。登場する人物名、団体名は架空のものです。

 また、作品中に出てくるAIの構造や機能、ならびに幹細胞工学や海洋開発の技術

 は、物語の前提として考察したものであり、必ずしも科学的事実に基づくものでは

 ありません。

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