ふわふわ
白井なみ
ふわふわ
なんかもう、全部どうでもいいや。
そんな風に思って、気が付いたら飛んでいた。次の瞬間には落ちていた。
ジェットコースターのてっぺんから急降下する時の感覚とも、エレベーターで高層階から地上階まで一気に降りてくる時の感覚ともちがう。
ものすごい速さで落ちているのに、躰はふわふわ飛んでいるような気がするのだから不思議だ。
遠くの空を白い鳥が飛んでいくのが見えた。
それが生きている時に私が見た、最期の景色だった。
さよなら私。さよならみんな。さよならパパ。
私がいなくなったところで、どうせみんな、それほど哀しんではくれないだろう。
小学生の頃、親がリコンして転校することになった時のことを思い出す。
大して仲の良くなかった子が涙を流して他の女の子たちに慰められていて、一番仲の良かった友達は妙にあっさりとしていた。
小学生の頃よく遊んだ公園、6年続けても全く上達しなかったエレクトーン、突然いなくなった母親、初恋の佐藤せんぱい、初めてバイトをした古本屋で知り合った大好きな友達・M。
そして、パパ。
ごめんなさい。最後まで私は、自分のことしか考えられない嘘吐自己中承認欲求我儘娘のままだった。大人になってもこの厄介な病気だけは克服できなかったの。
だけど私、結構幸せだった。
バカにされたりコケにされたりは数え切れないほどあったけれど、戦争に巻き込まれたこともないし、事故に遭って身体の一部を失ったこともないし、上靴を隠されたことさえない。
それなのに、ずっと死にたかった。
これから何十年も生きていくなんて考えられない。ヨボヨボのシワクチャになって、「お婆ちゃん」だなんて呼ばれるの、想像スルダケデ恐ロシイワ。
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気がついた時、私は自分の部屋にいました。
マサカ全テ夢ダッタノカシラ。だとしたらどこからどこまで?
それにしても、さっきから身体の中が何だかおかしいみたい。
臓物も背骨も子宮も血も、なにもかも抜け落ちてしまったような気がするのです。妙な違和感を感じて姿見に視線を向けると──そこには誰もいなかった。
私は透明な目玉と、透明な肉体を持って浮遊する、言うなればオバケになってしまったようなのです。
浮遊しながらの移動には慣れていなかった為(というか初めての経験だったので)、最初はコツが掴めず、何度も壁や柱にぶつかりそうになりました。(ぶつかりそうになるだけで、ぶつかったとしてもすり抜けてしまうのですが)
けれど、少し練習をすれば浮遊移動はとても楽しいものです。
ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。
たのしい。
壁をすり抜けて隣の部屋にお邪魔してみると、お隣の男子大学生が昼間からカノジョとイチャイチャしてやがりました。
ただ点けているだけ、といった様子のテレビを見て、私は今日が何月何日なのかを知りました。
私が飛び降り自殺をしてからおよそ七日後の月曜日です。
更に壁をすり抜けて、外に出てみました。
ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。
愉しい。
ユーレイというのも、そう悪くはないかもしれません。
誰にも気付かれずに人の多い駅中や街中を浮遊するのは、妙な背徳感があります。
「ヴーーー……ワンワンッ」
おっと。
「こらアンジェリカ!何に吠えてるの!」
犬ってみんな霊感があるものなのでしょうか。
初めはそう思ったけれど、そうでもないともう少し後でわかりました。
私がナデナデしても舌を出して尻尾を振っているだけの間抜けな犬もいましたから。
街中浮遊にも飽きてきたので、私は勇気を出して職場に行ってみることにしました。今いる場所から割と近かったのです。決して職場を目指していたわけではありません。
ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。
無機質な灰色のビルの壁をすり抜けて、9階にあるオフィスを訪れてみました。
月曜日ということもあってか、とても忙しそうです。
鬼のような形相の係長の周りをふわふわしてみましたが、全く気付きそうにありません。
「はあ……これ今日も残業確定だわー」
「それなー。飲み行こうと思ってたのに」
「ねえランチどこいこっか」
「部長ー!お電話ですー!」
……なんというか。
本当にここは、生前私が働いていた会社で合っているだろうかと疑いたくなる。
あなたたち、つい七日前に同僚が自殺したんですよ?わかってますか。
それなのに、こんな殺人的な仕事量を今後も捌き続けていくおつもりですか。
殆どの人が忙しなく目の前の仕事に取り掛かっている中、生前の私のデスクだけが、ぽっかりと穴が空いたかのように静かだった。
なんとなく腰掛けてみる。
隣の席では新卒の泉さんがパソコンと睨めっこしていた。整った横顔を見ていると、泉さんが突然はっとした顔つきになり、こちらを向いたのだから驚いた。
しかし、彼女にもやはり私は見えていないらしい。
泉さんは不思議そうな、疲れたような顔をして小さく首を傾げた。
「泉さん、どうしたの?」
「なんか……今、**先輩がいたような気がして」
「ちょっとそんなこと冗談でも言うもんじゃないよ!」
「そ、そうですよね!ごめんなさい……」
「全く……今回のことは、本当になんて言ったらいいか……」
「そうよねぇ。私も全然、気付いてあげられなかった」
「野村さんは悪くないわよぉ!それを言うなら私もそうだし、他のみんなだって。特に上の人たちの責任よ」
「だけど、うちってまあまあホワイトですよね?」
「まあ、原因が職場にあったとも限らないしね……」
「本当に、まさかね……」
ヒソヒソ話の輪は次第に広まって、仕事中にも関わらず、いつしか大きな集まりが出来ていた。私もこっそりその輪の中に加わって、みんなの話を聞いていた。
仰る通り、私が死んだ原因は職場には御座いません。私の中にあるのです、なんて。
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お次は、愛すべき親友のMに会いに行こうと思います。
Mは最近は専ら在宅勤務だと言っていたので、今日も恐らく家にいるでしょう。
改札の上を通ってタダで電車に乗車しても、ユーレイなのでそれほど悪いことをしている気にはなりません。
Mの家の最寄駅で降ります。
ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。
Mは実家暮らしです。彼女の自宅はこれと言って説明すべき特徴の無い、普通の一軒家なのですが、私の実家よりかは遥かに新しく、綺麗に見えます。
ふわふわ飛んで、2階の窓をすり抜けて直接Mの部屋に行きました。一応言っておきますが、これは決して不法侵入ではありません。私はMの友人であり、ユーレイの身なので。
Mはベッドの上で壁にもたれ掛かって、膝を折って俯いていました。そうして、しくしくと泣いていたのです。
Mはもしかして、私のために泣いてくれているのでしょうか。
泣いているMを見ていると、こちらまで哀しくなってきました。
私はMの隣に座って、透明な腕で彼女の身体を包みました。そして暫しの間、私たちは一緒に泣いていたのです。
M。私のために泣いてくれる、可愛い人。
貴女がずっと幸せで生き続けてくれますように。そう強く思うほど、透明な胸が軋むように痛みました。
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夜になりました。
私は実家に帰ることにしました。
ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。ふわふわ。
実家と言っても、一人暮らしの私の家からそう遠くありません。
私の父はひどい酔っ払いで、枕も、歯ブラシも、ワイシャツも、父の使う物は全てアルコールのにおいがします。
思えば、父がお酒をよく飲むようになったのは、母が突然姿を消してしまった時からだったように思います。
どれだけ感動的な映画を観ても涙を流せない父は、大きな哀しみに直面した時、涙ではなくアルコールを排泄するのだと子供ながらに知りました。
父が一人で暮らす家、実家そのものが酒くさいような気がします。それがたまらなく嫌で、私は高校を卒業するとすぐに家を出ました。
決して父のことが嫌いなわけではなかったのですが、父を駄目にした酒と母親を憎んでいました。
壁をすり抜けて家の中に入ります。
ただいま。
声には出さずにそう呟きました。
家の中は酒臭くて埃っぽくて、ユーレイなのに噎せ返りそうになりました。
至る所にお酒の空き瓶が転がっています。
私は思わず溜息を吐きました。
見慣れた光景とは言え、久々に見るとどうしても嘔吐感に似た嫌悪感が込み上げてくるのです。
実家に仏壇は無いのですが、和室の壁際にあるテーブルの上には、香炉やお線香、白い花が生けられた花立ての他に、私の写真が飾られていました。
いつか父と金沢へ旅行に行った際、半ば強引に撮られた写真です。そこには、愛想のない引き攣った笑みを浮かべたブスな女がいました。
そして何故か、写真の横には飲みかけのアサヒビールの缶が置かれていました。
父はそこでお腹を出して、座布団の上に寝転がっていました。
来なきゃよかった。
直感的にそう思いました。
これほどまでに醜悪な光景は、生きていた時にも見たことがないでしょう。
家を出ようと父の背中に背を向けようとしたその時、父の背中が小さく震えていることに気がつきました。
父は泣いていたのです。
私の写真の前で。独りで。
父の目から透明な涙が垂れ流され、私は手を伸ばしましたが、それを拭ってやることはどうしても出来ません。
「……パパ」
父の目が動きました。
横になったまま、視線だけを忙しなくあちらこちらに動かして、私を捜していました。
父が小さな声で私の名前を呼びました。
弱弱しい小さな声で。
それは父がつけてくれた名前でした。
その時、言葉では言い表せないほどの悔恨の念が私の躰を雁字搦めにして、砕け散りそうになるほど強くきつく全身を締め付けました。
嗚呼、私はなんて愚かなことをしてしまったんだろう。
ごめんなさい。ごめんなさい。
パパを独りぼっちにしてしまった。
生き返りたいと願っても、それはもう叶わないのです。
後悔の念はいつまでも透明な身体の内側に残り続け、その為に私は長い間この世界に留まっていられました。
生前の同僚も、友人も、私の死を忘れるまでにそれほど時間はかかりませんでした。
Mでさえも。もちろん彼女が私のことを完全に忘れることはないのですが、数年が経過した頃には、当時の哀しみの傷は殆ど癒えていたようです。
父だけがいつまでも泣いていました。
ゆるやかな時間の流れと共に父の背中は次第に小さくなっていき、何処にでもいるような歯の無い小さな老人へと変わっていきました。
父が死ぬまで、私は静かに傍にいました。
ふわふわ 白井なみ @swanboats
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