雨のワンダーランド
針間有年
第一話:入口
1-1
しっとりとした空気が肺を満たす。今年は来ることができた。
こんにちは。あなたが創るワンダーランド。
*
そろそろ、今年度版が出ているはずだ。
薄曇りの空の下、私は書店に向かう。自動ドアが開く。ひんやりとした空気が流れてきた。どうやら、冷房をかけ始めたらしい。
いつも立ち止まる文庫コーナーを通り過ぎ、旅行ガイドの棚を目指す。
時期が時期だ。それは簡単に見つかった。
梅雨の街、と書かれたガイドブックを一冊、手に取る。表紙は去年と変わらず、展望台からの風景だ。
裏表紙が折れていることに気づいた私は、手に持った本を戻し、棚の後ろのものと交換した。レジで会計を済ませる。シールの貼られたそれをエコバックに入れた。
一人暮らしのアパートに帰り、首に巻いたスカーフを取り去る。解放感にふっ、と息をついた。ここには人目などない。
私はベッドサイドに座り、ガイドブックを開く。昨年はどんなエリアができたのだろう。高揚と胸の痛みが混ざり合う。きっと、私好みのエリアができているに違いない。
梅雨の街。それは梅雨の時期だけ開くワンダーランドだ。
といっても、北海道から沖縄、さらには世界中のどこにも存在しない。そういった理の外にある世界なのだ。
都市伝説のような話だが、梅雨の街はカメラに写るし、日本円も使える。なんならATMまである。
そのため、幻想的な世界、というより、観光地、としての印象が強い。雑誌、テレビ、インターネット、様々な媒体で紹介されている。
行き方は簡単だ。雨降る梅雨の日に外を歩けばいい。だが、確実にその街にたどり着く方法はない。
ガイドブックによれば、一日に百人ほどが梅雨の街に招待されているらしい。だが、その招待の基準は分かっていない、と記載されている。彼ですら分からないのだから、私たちに分かるはずもない。
梅雨の街ができて十年が経つ。私でさえ、三度しか行けたためしがない。
ベランダの手すりを叩くその音に顔を上げる。カーテンを開けると、雨の線が見えた。
私はスカーフを巻きなおす。肩掛けポシェットに財布とスマホだけを入れて、玄関に向かう。パンプス型のレインシューズに足を通し、トントン、とつま先を打った。
薄緑の傘を手に取り、私は家を出た。
午後八時の住宅街は寂しい。赤ん坊の泣き声や、家族団らんの笑い声が、追い打ちをかける。
それらを遮断するように、私は傘を打つ雨の音に意識を集める。
ぽつぽつ、や、しとしと、といった文字では表せない音色が頭上から響く。雨粒が砕け散る刹那の、強く、 切ない響きに耳をすませる。
私はわざと深い水たまりに足を踏み出した。
いつもは不快でならない感触だが、この時期は愛しく思える。水たまりがあの街とつながっている気がするのだ。
あてどなく、街灯と街灯を渡り歩く。
ぞわり、と肌が粟立った。この感覚は知っている。私は歓喜した。
目の前に真っ白な光が現れる。それは私を覆いつくした。身体が軽やかに浮き上がる。
ああ、今年は彼に会えるのだ。
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