第4話 入居数分で汚部屋。

 渡部わたべさん達と面談してから五日が経過した。分厚い背表紙のある青少女保護観察官としての規則が書かれたこの冊子も、既に三回は目を通している。僕に何が出来て何が出来ないか、頭の中は受験の時よりもパンパンな状態だ。


 でも、そのおかげで澄んだ気持ちでこの日を迎える事が出来る。


けい君」

「母さん……父さんまで」

「当たり前だろ、息子がこんなにも早く家を出るなんて誰が予想するよ」

「大丈夫だよ、青少女保護観察官プログラムは三年間だけなんだ。大学生になったらこの家に帰ってくるから、部屋とかちゃんと残しておいてよ?」

「桂馬……本当に、出来た息子だ」


 両親に抱き締められた後、僕は玄関を出る。

 既に黒塗りの高級車が待機していて、僕の初出勤を今か今かと待ち侘びている様子だ。 


「お待たせしました」

「黒崎君、両親ともしばらく会えなくなるが、本当に大丈夫かい?」

「大丈夫ですよ、会えないって言っても三年だけなんですから」

「……そうか、いらぬお節介だったな。では、車を出すぞ」


 本音を言うと、両親と会えなくなるのは結構辛い。

 でも、火野上ひのうえさんの身上書を読めば読むほど、彼女に対する情というものが湧いて来るんだ。

 更生……なんて偉そうな言葉が言える年齢じゃないけど、出来る限りの事はしたいと思う。


「さぁ、着いたぞ、火野上さんの方が先に到着しているみたいだな」


 渡部さんの言葉通り、駐車場には車が一台、既に停まっていた。

 車の側に立つのは水城さんであり、先日見た時と変わらぬ姿の火野上さんの姿もある。

 相変わらずの猫背、それに縦に二本の白い線が入ったピンク色をしたジャージ姿のままだ。


「あの……最後に質問なんですが」

「なんだい?」

「彼女、どうしてあんなに不潔なんですか?」

「ああ、なんでも自分は綺麗だと言い張っているらしい。綺麗だからお風呂に入る必要はないと言っていてね。施設の人は以前の暴行事件を知っている人が多く、誰も強引にはしないんだよ。美容院も受け入れ拒否、床屋さんは彼女が入ろうとしない。更に我々は彼女に対する特権は付与されていない。……そして、今に至る訳さ」


 洗わない方が彼女に対する虐待だと思うんだけど。

 でも、色々あっての今なんだろうな。

 水城さんも彼女の臭いによく耐えてるもんだ。

 さりげなく車の扉とか開けてあるし、大変だったんだろうね。


 すぅっと息を吸って、渡部さんへと会釈をする。


「ここで大丈夫です、後は僕と彼女の問題になるのでしょうから」

「そう言って貰えると安心するよ。ただ、無理はしないでくれな」

「はい、スマートフォンだけは肌身離さず所持していますからね」

「何かあったら即連絡、下手な大人より立派な思考回路だ」


 くしゃくしゃと頭を撫でられた後、彼女の前へと向かう。

 一歩一歩近寄るだけで異臭がしているのが分かる、鼻が曲がりそうだ。

 極度の猫背のまま僕を見ようともしない、幽霊だと言われたらそうだとしか思えない雰囲気。

 そんな彼女の前に立ち、さっと手を差し出す。


「僕、黒崎桂馬、この前はちゃんと自己紹介出来なかったけど、今日からは同棲相手だから……宜しくね、火野上ノノンさん」

 

 ――――パンッ!

 耳に響く衝撃音。


 ああ、僕は普通の生活を送ってきたんだなという実感を、彼女のビンタと共に味わった。

 熱を帯びる頬、この行為が彼女のプライドを傷つけたのか? ……だが、想定内だ。


「火野上!」

「ノノン、貴女!」

 

 渡部さんと水城さんが駆け寄ってきたのを、手で制する。

 これぐらいは序の口でしょ。だって、相手は普通じゃないんだから。


「どんなに強がっても、僕は君の保護観察官なんだ。何があっても君から離れないし、何があっても君を見捨てたりしない。三年間で君を更生してみせる……だから、改めて宜しく」

「……キモ」


 初めて声を聴いた、掠れる声、だけど女の子らしい男が出せない高い声だ。

 

「部屋は見た? まだなら僕が案内するよ」

「……」


 ぷいっと無視して先を歩く。いきなり逃げるのも想定していたけど、流石にそれはなさそう。

 振り返ると、渡部さんと水城さんが心配そうな顔をしていたから、二人には親指を立てて、サムズアップで返しておいた。 


 先を行く彼女を慌てて追いかける。

 脂でぺっとりとした赤く長い髪、ぱさぱさじゃなく、逆に束でくっついている感じだ。

 荷物の類が何もないけど、まさか手ぶら? いや、先に持ち込んであるのかな。


 とりあえず、声を掛けるか。


「こんなに大きいマンションとか住んだことないよね、僕だって初めてでさ」

「……」

「あ、この自動扉ね、僕がいないと開かないんだって」

「……」

「キーホルダーは持った? それが無いと入れないからね」

「……」

「凄いよね、三十階だってさ、こんな高い場所数えるくらいしか行った事ないよ」

「……」

「ここが玄関、ここも三重ロックになっててね、一度入ると……ほら、三つのデッドロックが掛かって、もう二度と開かなくなるんだってさ」


 返事なんて気にしない、渡部さんから教えて貰った内容をオウム返しのように語る。

 と、玄関まで来たところで、彼女が叫んだ。


「うるさいッ!」

「あ、えと」

「うるさいうるさいうるさいッ! ノノン、沢山は理解出来ない! ウルサイからあっち行って! もう側に来ないで!」

「……ごめん」


 ずんずんずんって歩くと、彼女は予め指定されていたのか、玄関から右側二個目の扉を乱暴に開けて中に入ってしまった。


 いきなり話しかけ過ぎるのはダメか、距離感が出来てなかったかな。

 しかし……彼女が通った後は悪臭が残る。洋服も洗ってないみたいだし、靴も酷い。

 ボロボロ過ぎなんじゃないか? 紐も茶色く染まってるし、靴ベラだって真っ黒だ。

 

 ……洗うか。


「げ、なんだよこの色」


 浴室で彼女の履いていた靴を洗うと、信じられないぐらいに濁った色になって流れていく。

 靴用の洗剤なんてないからシャンプーで勝手に洗ったんだけど、こりゃ酷いな。

 黒い靴なのかと思ったら、元は白っぽいピンクの靴だったし。 

 いや、もしかしたらピンクなのかも。劣化してこの色になっちゃっただけで。

 洗って気付いたけど、この靴アニメが描かれてるのか? 小学生向け?


「なんで!」

「うわ、ビックリした」

「なんでノノンの靴洗ってるの!」

「汚いから洗ったんだけど」

「ノノンは、ノノンでするの! ほっといてよ!」

「ああ……え?」


 まだびしょ濡れの靴を僕から奪い取ると、火野上さん、そのまま部屋に持って行っちゃったんだけど。嘘だろ、一切拭かないで持って行くのかよ。脱衣所から廊下、彼女の部屋までびしょ濡れじゃないか。しかし自分のことは自分で出来る? 一体どの口が言ってるんだ。


「……って、扉開けっぱなしか」


 脱衣所から廊下を除くと、彼女の叫び声と共に開ききった扉が見える。

 家の構造上、この廊下を通らないと僕の部屋にもリビングにも行けないのに。


 いや、まずは濡れた廊下を全部拭かないと。

 彼女の部屋だって酷い事になっているに違いない。

 どれもこれも新品だけど、適当なタオルの封を切って彼女の部屋に向かう、すると。


「げ、え? ちょっと待って、何だよこれ」


 少なくとも、僕が渡部さんと一緒にこの家に来た時には、何もない綺麗な部屋だった。


 それが今や彼女の荷物を入れていたであろうキャリーバッグが全開にされ、他にもリュックや段ボール箱、その他、何かが入っていたであろう箱や袋が全部開封され、収納されていたものがあちこち床に散らばっている。

 

 当の火野上さんはというと――


「ないない! ノノンのなのに! どこにもない!」


 何か喚きながら、箱の荷物をひっぱりだしては投げ散らかしていく。


 荷物っていっても、日用品や洋服、下着の類はあらかじめ用意されている。

 だから、持ってくると言っても、バック一個程度で済むはずなのに。


 あーあ、何もかもぶちまけて、部屋の中がどんどん汚れていく。

 げっ、ゴキブリ!? 彼女の荷物の中からゴキブリが出てきたんだけど!?


 ちょちょちょっと、殺さないと。

 あ、ダメだ、もう荷物の隙間の中に隠れて見えなくなっちゃった。 


「ね、ねぇ、火野上さん、なに探してるの?」

「ノノン一人で出来るから! お前は部屋に来るな!」

「出来てないから聞いてるんだよ、探し物はなに? 教えてくれたら手伝うからさ」

「出来てる! 出来てるよ! ノノン、出来るって言ってるのに、なんで邪魔するの!?」

「邪魔してないって、協力するから教えて……え? 血?」


 火野上さん、よく見たらジャージの下を脱いで、穿いていたであろう下着も右足の足首に残ったままだ。そして床に広がるどす黒い血……彼女の股間から結構な量の血が溢れてきているじゃないか。咄嗟に脳裏に思い浮かんだのは十歳の頃の強姦の図、まさかこの家に来るまでの間に襲われたとか? ――――渡部さんに連絡しないと。


『生理だな』

「生理……ですか」

『ああ、鎮痛剤と生理用品は彼女の部屋にあるはずなんだが。どうする? 水城君を行かせようか?』

「えっと、あ、いえ、試しに火野上さんに渡してみて、それでダメなら再度連絡します」

『分かった、無理はするなよ』

「はい……あ、そうだ。この家ってゴキブリホイホイとかってあります?」

『それは流石に用意してなかった。荷物の中に紛れ込んでいたか』

「その通りです、宜しくお願いします」


 生理か……それであんなに焦ってたのかな。

 年頃の女の子なんだ、焦って当然か。


「火野上さん、ちょっと中に入るよ」


 彼女は床に座り込んだまま、沢山の荷物に囲まれてうーうー唸っている。

 到着してほんの数分でこの部屋だけ汚部屋だ、臭いも凄いし、床も血まみれだ。


 ちなみに生理用品はすぐに見つける事が出来た。

 壁一面が収納になっていて、そこにテプラでちゃんと書いてある。

 でも、既に彼女の太ももあたりは血で汚れているし、何にせよ臭いままだ。


 ……よし、さっそくだけど、お風呂をお願いしようかな。

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