Hiroshima Nostalgic Night
凛5雨
第1話G♭m
「雨宮くん、今日はこれ以上客も来そうにないし、後任せるわ」
「はい、お疲れ様です店長」
30代の比較的若めな店長はそう言うと早々と帰り支度をして店を出て行った。今日は水曜日、時刻は22時を少し回った所だ。少し広めの店内にはカウンター席が10席と、テーブル席が2セットある。平日だと言うこともあり、客は誰一人としておらず、薄暗い店内は洋楽が小さく流れているのみでとても静かだ。俺がこの店で働き初めてもうすぐ一年半が経とうとしている。当時、連続不審死事件に関わっていた俺はバイトを無断欠勤してしまい、それが理由でクビになってしまった。そんな俺を心配し、この店を紹介してくれたのが松本奈緒という名のヤクザの娘だった。
そんな事をぼんやりと考えつつグラスを磨いていると、入口のドアが開く音が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは背の低い女性だ。おそらくこの店に来るのは初めてだろう、少なくとも俺が働き出してからは来たことの無い客だ。黒のMA-1に和柄のスカート、そして背中に背負ったギター。彼女は何も言わずにギターを降ろすと、カウンターの端の席へ座った。
「こんばんは、落ち着いた雰囲気のええお店やなぁ」
何となく幸薄そうな雰囲気の彼女は、整った美人な顔でにっこりと笑いながらそう言った。薄めのメイクに右目の下の泣きぼくろ、そして綺麗に纏められた黒髪から大人びた雰囲気を感じる。言葉のイントネーションから、彼女が広島人では無いことがわかった。
「どうぞ」
やや熱めのおしぼりを、少し冷ましてから手渡す。
「おおきに」
彼女はそう言っておしぼりを受け取ると、丁寧に手を拭いてから、これまた丁寧におしぼりを畳んでカウンターに置いた。
「お姉さん、何飲まれますか?」
「そうやなぁ⋯ほなオリンピックにしよかな」
「かしこまりました」
俺は後ろの棚からクルボアジェV.S.O.P.というコニャックを取り出し、オレンジキュラソーとオレンジジュースを加えてシェイクした。出来上がったオレンジ色の液体を丁寧にカクテルグラスに注いで彼女の前にそっと置く。
「どうぞ」
「お兄さんかっこええなぁ、おおきに」
彼女はグラスにそっと口をつけ、ゆっくりと一口目を飲む。俺はビンを片付けながら横目でそれを見ていたのだが、彼女の仕草は一つ一つがとても綺麗で上品だった。
「ギターが趣味なんですか?」
「ああ、そうやなぁ、うちは弾くんは下手やけど好きなんよ」
彼女はそう言うと黒いギターケースを開けて、中からエレキギターを取り出した。真っ白なボディに黒のピックガード、そして沢山のステッカーが貼り付けられたそれは、テレキャスターと呼ばれるギターだった。
「テレキャス良いですよね」
「あら、お兄さん分かるんや。もしかして昔ギター弾いとったん?」
「少しだけかじった事がある程度ですが」
「あはは、敬語ちゃうくてタメ口でええよ」
彼女はそう言って笑い、イスをくるりと回転させてこちらに背を向けると、座ったままギターを弾き始めた。エフェクターにもアンプにも繋いでない為、音はとても小さく耳を済まさなければ聞こえない。彼女はどこかで聞いた事があるような曲をゆっくりとコードだけで弾くと、ギターをケースにしまってこちらへ向き直った。
「なんか恥ずかしいなぁ、うちの演奏下手やん?」
「そんな事ないよ、なんの曲かは分からんけど上手だったし、どこかで聞いた事あるような気がしたな」
「かなんなぁ。そないな事言われたら喜んでまうで、照れてまうさかい勘弁してやぁ」
関西出身なのだろうか、方言まじりの喋り方がとても可愛らしい。彼女は照れ隠しの為なのか、グラスに残ったカクテルをグイッと一気に飲み干した。
「そう言うたら自己紹介がまだやったね、うちは茉由。お兄さんは?」
「俺は雨宮稔、よろしくな」
「うん、よろしゅう雨宮はん。おんなじやつをもう一杯くれる?」
「広島の人間じゃなさそうじゃけど、茉由はどこ出身なん?」
俺は再びオリンピックを作りながら彼女にそう尋ねる。
「うまれは広島やけど育ったんは京都なんよ」
「じゃあこっちに来るのは久しぶりなん?」
「そうやなぁ、もう20年以上になるわなぁ」
彼女はパッと見では20代前半に見えるのだが、もっと歳が上なのかもしれない。だがいきなり歳を聞くのも失礼なので聞かないでおくことにした。
「はい、お待たせ」
「おおきに、うちはなぁもう25歳やわぁ」
俺の気遣いなど必要ないかのように彼女は自ら歳を明かした。
「そしたらちょっとだけお姉さんじゃね、俺は22歳⋯つってもこの冬で23になるけど」
「あはは、ほんならうちが雨宮はんのお姉ちゃんになったるわぁ」
「あはは、ありがとう。そういえば何で広島に?」
俺の質問に、さっきまで笑っていた茉由の表情が少し曇った。もしかして聞いてはいけないことだったのかと俺は少し後悔した。彼女は何も言わずカクテルグラスを空にすると、少し多めの料金をカウンターに置いて立ち上がった。
「ほなうちはそろそろ帰るさかい、また会えたら教えたるなぁ」
「⋯あっ、お釣り」
「釣りはいらへん、今日はおおきになぁ。ほなまたね」
そう言うと彼女はギターを担ぎ、店を出ていった。一人残された俺は、彼女に余計な事を聞いてしまった後悔を抱えつつ閉店作業に取り掛かった。
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