交じり者の生き方
床豚毒頭召諮問
第1話 森の家
森はいつになく静かだった。
いつもなら小鳥のさえずりと生物が茂みを揺らし、森を通る小川の流れる音が微かな安らぎを与えてくれるはずなのに、今日はその音すら不快に思えた。
ここまで生物の躍動を感じなかったのは久しぶりの事だ。
それも、この森に住まう誰もが固唾を飲んで息を潜めているような、こんな緊張感を張りつめた空気は感じた事がない。
木々達もも普段はあんなにも楽しくお喋りをし、葉を風に乗せ、木漏れ日で森を優しく照らすというのに、彼らは今日は気が乗らないと言わんばかりに枝葉で日の光を閉ざし、森を暗く染めていた。
森に生きるもの達のこの反応、十中八九、侵入者だ。
それも、森が最も嫌う類いの種族。
「人間か…」
俺はそう呟くと同時に、黒装束を身に纏った。
全身を黒いローブで隠し、長すぎる袖を手の先から垂らして、頭には黒い布を巻き付け、ターバン状にすると、その中心に黒い棒を立て、その棒の上から黒い布を被せた。
口元には黒いスカーフを巻き、目元と鼻は黒いマスクを付けて、身体から素肌はどの角度から見えない姿となった。
これでどんな奴が来ても何も思うまい。
俺は長柄の斧を持ってくると、ドアのすぐ右側の壁に立て掛けて、椅子に腰掛ける。
はぁぁ……。
不意に溜め息が漏れた。
不安と緊張、それが俺の心を満たしていた。
何年ぶりだろう。人間と話すのは。上手くやれるだろうか。いや、やらねばなるまい。今までも危ない時はいくらでもあった。その度に何とかなった。何とかしてきた。
大丈夫だ。無理に恐れを抱く必要はない。何も怖くはない。怖いはずはない。
さて、丁重に、波風を立てずに、追い返そうではないか。
我が家から、この森から、我々の居場所から。
「おい、どうだ?」
「足跡はこっちまで続いてる。この森に入ったのは間違いない」
「うぅ~ん、小賢しい奴だなぁ……犬でも居りゃあ良かったが」
三人の男達が森を進んでいく。時折、腰を折り、しゃがみながら地面に残る小さな足跡を見逃さぬように、周りに目を配りながら足元を注視する。
「森はやだなぁ。意地の悪い精霊でも居てみろ、一生迷わされるかもしれないぞ」
「縁起でも無い事言うな、さっさと見つけて帰るぞ」
「ふんっ、暗いな。地面が見えやしねぇ」
「ろくに管理もされて無いんだろう。この辺りはまだ開拓がされて無いんだろうよ」
一人は戦斧をだらりと右手に持ち、残りの二人は腰に剣を提げていた。くたびれたブーツに、撚れた麻の服。各々個人で背負っている大きな荷物。
彼らはこの土地の者では無いらしい。
この周辺地域に生きている者なら知っている事だが、この辺りに管理された森林など一つも無い。在るはずがないのである。
「おい、向こうに家があるぞ」
先頭を行く男が前方を指差した。
小さな小屋ほどの家が木々に寄り添うように遠慮がちに立っていた。
「人が居んのか?」
「空き家なら隠れてるかも」
「良ぉし、こじ開けるぞ」
三人は家の入り口である小さな門と一瞥する事なく家のドアに駆け寄った。
「おい、裏回れ。逃がすなよ」
「おう、せっかくの大枚を逃がすかよっ」
「よぉし…」
男が一人、家の裏手に周り、戦府を持った男が家のドアを破壊しようとした時だった。
家のドアが開け放たれた。
そして、男達の目の前に真っ黒な何かが現れた。
「うわぁぁっ!」
「あああっ!化け物!」
二人の男は悲鳴を上げると、その何かと距離を取るため後ろに下がる。
「どうした?!何があった!」
「化け物だ!」
「魔物かも知れねぇ!倒すぞ!」
二人の男は戻ってきた裏手に回ろうとしていた男に早口に説明すると、得物を構える。
だが、二人とも得物を持つ腕は微かに震えを帯びており、とてもじゃないが闘えるようには見えなかった。
「お前達、何用だ?」
男達が怯える何かが言葉を発した。人間の言葉を。
「え、お、あ、あぁ…?」
「な、な、な…に、人間か…?」
裏手に回ろうとしていた男も二人の男の近くに来てその何かを確認する。
「えっ…あっ…こいつあれだよ、
男が何かを指差しながら、その何かについて知っている事を言った。
「…あっ、あれか、ヒクバ教徒か!」
「えっ、ヒクバってあの…?」
「そうだよ、あのヒクバ!」
「あぁぁぁ…だからこのかっこ…」
三人の男達は合点がいったらしい。
「いやぁ、ごめんね、おっさん。この森くらいからさぁ、こいつら、化け物に見えちゃったみたいでさぁ。ごめんね、ほんとぉ」
男の一人が何かに向かって弁明する。彼らには何かに対しての悪気は無かった。ただ、この家に人が居るとは思っていなかっただけなのだ。まぁ、人が居ようと居まいと彼らはドアを壊して目的を達成しようとしただろうが。
「…何の用だ?」
しゃがれた低い声で何かは言った。
「いやぁ、実はこの森に半魔が逃げ込んだみたいでさ、さが…」
「何っ?!
頭の後ろを掻きながら事情を話した男を大きな圧倒する気迫で、その何かは叫ぶと同時にだらりと下がった袖をそのままに長柄の斧を掴む。
そして、そのまま男の方に躊躇無く接近していった。
「ちょちょちょ…」
「どこだ!どこに居たっ?!」
「いや、いやいや、まだどこに居るかは分かんねぇって!」
「この近くで足跡を見つけただけなんだよ!」
何かの問いに動揺しながらも男達が答えた。
すると、黒装束の何かはしょげたように、肩を落とした。
「そうか……なら良い。消えろ」
何かはそれだけ言うと、力無く斧をぶら下げて家の中に戻っていった。
バタッ。
ドアが閉まると、さっきまで場の空気に立ち込めていた緊張感にも似た、未知の生物と出会った時のどうしようもない動揺とでも言い表すべき感覚が一気に溶けて消えてゆく。
「…はぁ……」
「何だったんだよ…あの野郎…」
「…ビックリしたぁ……何だったんだ、あの人…」
男達は今まで感じた事の無い空気から解放されて、胸を撫で下ろす。
「まじでなんなんだよ、あんな奴いんだなぁ」
「てか、こんなところに住むなよ、気持ちわりぃ」
「半魔って聞いた瞬間距離詰めんの早すぎんだろぉ、なんなん?」
「宗教上なんかあんのかなぁ?」
「でも、無害だけど異端だろ?何しでかすか分かったもんじゃねぇよ」
「そうだよなぁ…あ、見かけたら連絡して寄越せって言うの忘れたわ」
男の一人が後悔に顔を歪ませる。
「別に良いよ、言わんで。言ったところで、連絡する前に、野郎、殺しちまうだろ」
「え、それじゃ、賞金貰えねぇじゃん」
「どうにかして先に見つけるしかねぇなぁ」
男達はそんな事を言いながら、家の前から去っていった。
行きはした、か。
俺はドアに耳を押し付け、外の音を探る。
遠くに行っただろうか。家の中に入ってからというものの、ドアに耳を押し付け男達の話し声が聞こえなくなるのを、今か、今かと待っていたが、用心に用心を重ねておきたかった。
もう良いだろう、さすが、この家を視認できる範囲に奴らは居ない。
そう思っても、まだ、ドアにぴったりと張り付いた耳を外す事が出来なかった。
いつの間にか足が震えていた。怖かったのだ。人間が。
いつ正体を見破られ、牙を剥かれるか分からない凶暴な獣に、不信感を与えはしなかっただろうか。
上手く喋れていただろうか。近付きすぎて布越しに顔が透けて見えてしまってはいないだろうか。
今更何を思っても、もう遅い。
その時間は当に過ぎ、消え去ってしまったのだ。もう後には戻れない。
はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…
息が荒くなっている。心なしか背中に来ている衣服が張り付いているように感じる。冷や汗でもかいたのだろうか。
だが、それならば、もっと考えるべき事があるだろう。
俺は荒い呼吸を整えながら、自身を覆う黒い布を乱暴に取り外しては、テーブルの上に放る。
大人の俺がこんなに怖かったのだ。恐怖に震えて、汗をかいて、思い出して呼吸を乱して、ここまで動揺し、混乱してしまったのだ。
あの子はもっと怖かったに違いない。
「……もう大丈夫だ、出てきて良いぞ」
俺はそう廊下の先に声を届けた。
すると、奥の部屋からドアを微かに開いて何本かの小さな指が顔を出す。
続いて、小さく尖った角と薄い紫色のおかっぱが揺れる。
そして、最後に小さな幼い顔が、つぶらな、されど光無き目でこちらを見つめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます