第22話 不安で不安でほろ苦い


 彼の帰国は二日後の夜だった。空港で会うなり抱きしめられた時にはさすがに周りの目を気にして慌てたけれど、その後私の家に着いてからは。


 まるでタガが外れたみたいだった。お互い、というより、ガトーさんが。


 玄関の扉が閉まるなり、照明を点けようと私が手を伸ばすよりも先にぎゅうと抱きしめられてしまった。


「わ、ガトーさ────」


 なんとか荷物を隅において、靴を脱ぐけど。その間も彼からの熱いキスが止まらなくて、話すどころか明かりも点けずに気づけばそのままベッドに倒れ込んでいた。


「……いちごちゃん」


 彼からはまだ外の匂いがした。堅い桜の蕾がうずく、肌寒い春の夜風の匂い。


「……は、い」


「どこにも行かないで」


 なに言ってるの? どこかに行っていたのはあなたの方なのに。


 思う間もなく息をするのすらままならなくなって、もうなにも考えられずにただ彼を受け容れて溶けた。




 落ち着いてからコーヒーを淹れると、テーブルの前のガトーさんは少し改まったように私を見ていた。


「いちごちゃん」

「……はい」


「一緒にフランスに来てほしい」


「え……」


 その話はもう……。


「ほんとうは仕事なんか辞めてずっとそばにいたい。『王子を辞めろ』って兼定さんが言った通りに、すっぱり辞められたらどんなにいいか」


 だけどそれはできないんだ、と。


「これは僕の運命だから。逃げたりはもうしないって決めてるんだ」


 マグに入ったコーヒーから立ち昇る湯気をじっと見つめた。


 あんなにもさみしい思いをさせておいてあっさり帰ってきたと思ったら、今度は一緒に来て、か。


「迎えに来たんだよ。いちごちゃんを」


「だけど……私は」

「僕にはいちごちゃんが必要なんだ」


「だけど半年も平気だったじゃないですか!」


 つい大きな声が出てしまった。


「いちごちゃん……」

「うあ……すみません」


 いけない。困らせる。そう萎んだら、そうっと優しく抱きしめられた。


「平気なわけないでしょう」


 耳元で聞く声は、静かだけど震えていた。


「限界だった。だからこうして無理にでも帰国したんだよ。いちごちゃんと離れた生活になんか、もう耐えられない。メールだけでの繋がりじゃ足りない。全然足りないんだ」


 ああ、もう断れない。そう感じた。


「一緒に行こう」


「…………はい」


 小さく頷くと、「はあ……、よかった」とキスをされた。


 でもフランスに行ったらどうなる? ガトーさんがいない間の生活は? 言葉や文化の違いは? パティシエの仕事はできるの? 現実的な不安はすぐに私を飲み込もうとする。


 そしてまず、お父さんはどう思うだろう。


「僕が説得する」

 ガトーさんは力強くそう言った。


 この際、入籍の許可ももらうよ。と。



 そんなわけで翌朝、急遽私の仕事を休みにしてもらって「いきなりなんだけど今から帰省するね」とお母さんに連絡することとなった。……んだけど。


「え!? 今日はだめだよ!」


 そんな返事をされてしまった。え、どういうこと?


「なにか予定あった?」

「や……そうじゃないけど」


 ん……?


「お父さんが都合わるい?」

「まあ……そう」

「ふうん。なんの用で?」


 おかしい。と思った決め手は次の言葉。


「ああ、えと、なんでもないの」


 実の娘だよ。そうでなくてもこのお母さんはとってもわかりやすいから。


「お母さん」

「ううーと。あ、そろそろ切るね?」

「お母さん」

「あ、お店に電話だ」

「お母さん!」

「……」


「……ねえ、なにがあったの?」


 わかるよ。娘だもん。


「なんにもないよ」

「うそ」


 わかるよ。嘘も。


「お父さん、元気?」

「元気だよ?」


 あ。嘘だ。いつもならこんな答え方しない。絶対最近の『聞いてよ』エピソードを言ってくれるもん。


「お父さんに代わって」

「……」


 やっぱりおかしい。絶対おかしい。


「あ。そういえばガトーくん帰国したんだ? よかったじゃんー。お土産買ってきてくれた? フランスのお菓子かぁ。マカロンもいいけど本場はチョコもいいんだよね。昔買ってもらったフランスのチョコ、すんごくおいしいのがあってね──」「お母さん」


 ねえ、もう隠せないよ?


「お父さん、どうしたの」


 するとかわいく不満げに「むう」と鳴いた。お母さんのくせにかわいいんだ、この人は。たぶんそういう所があの堅物のお父さんの心ををくすぐったんでしょ。ってそんなことは今はいい。


 しつこく訊ねると、ようやく白状してくれた。


「じつは昨日の夕方ね────」



「……な、交通事故!?」


 ぞわ、と寒くなった。だって、そんなことって。


「大丈夫。ほら、お父さんって頑丈だから。車の方がへこんだと思う」


 ひどい言われ様なのはいつもの事として。聞けば道路に飛び出した子どもを救ったんだとか。えー? そんなタイプだっけ!?


「反射神経がいいからね」

「いや……それで、生きてはいるんだよね? どんな具合なの?」


 するとここまでまだ明るかったお母さんの声が一気に元気をなくしてしまった。思わず、ごくり、と唾を飲む。


「今、まだ入院してて。検査中なの」


 どきん……!


「命に関わるほどじゃないんでしょう?」


「だと思うけど。……わかんない」

「わかんないって」


「大丈夫とは言われたよ? でもこういうのって急変したりとかもあるじゃない? ちゃんと隅々まで検査できたわけじゃないだろうし、結果がまだなところもあるし……。ああ、ううん、大丈夫。元気だったし、普通に喋れるし大丈夫なの。だけど……。ほんとはずっと付き添いたかったんだけど、そうもいかなて……」


 あれ。お母さん。「ぐずん……」って、泣いてる?


「ごめ。ああ! ……んん、んんーっ! ごめんっ! 大丈夫だからっ! だからいちごは心配しないで! ほんと、全然大丈夫だからっ!」


 お母さん……。


「お母さん」

「……なにさ」


「素直になりなさい」

「…………やだよ」


 もう。


「今から行くね」


 そんなの絶対だめ! って言われたけど聞く気はない。


 ほんとは心配で押しつぶされそうなくせに。意地っ張りなんだから。


 ガトーさんに言うとすぐに車を出してくれた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る