夢、売ります。買います。

@rona_615

第1話

 古くからの商店が立ち並ぶ、細い路地。その中程、閉まったきりのクリーニング屋とスナックの間の狭い通路を抜けた先に、その店はあった。

 “獏屋”

 “夢、売ります。買います”

 引き戸の左右に掲げられた木の看板に書かれた文字は、達筆ながら雨風に長年さらされたためか、すっかり薄くなってしまっている。

 店の前に立った真那津は、上半分に曇りガラスが嵌められた扉の前で、トートバッグの持ち手をぎゅっと掴んだ。

 店内は、建物に囲まれて日差しの届かないこの場所よりも尚暗く、人がいるのかすら定かではない。

 と、不意に右の戸がスライドする。音もなく開いた入口のすぐ内には、まるで暗闇から滲み出たかのような男性が立っていた。

 一七〇センチメートルはある真那津よりも、さらに頭一つ高い身長。

 耳が隠れるくらいのショートヘアは烏羽色で、身につけているものも、艶のある素材のシャツからジーンズ、スニーカーまで、全て真っ黒だった。

 対照的な色合いなのは、その肌。抜けるように白い、というのがこれほどぴったりな人間もそうはいないだろう。怖いくらいに整った顔立ちもあって、この世のものではないようにすら思える。

「お客様ですか?いらっしゃいませ」

 左足を一歩引きながら、彼はそう口にした。感情のこもらない声色に、真那津はむしろ覚悟が決まった。

「あの、ここで売ってしまえば、悪夢を見なくなるって聞いたんですが」


 主だと名乗る男に導かれ、扉のついた棚の間を抜ける。店の一番奥には、タイプライターのような機械が置かれたテーブルがあった。向かい合って置かれたストールのうち、入口に近い方のものを、男は真那津に勧める。

「夢を売りたいとのご要望ですね。どのようなものでしょうか?」

「あの、ここのところ、ずっと見てる夢なんです。小さな男の子に手を引かれて、歩いていく夢で……」

 テーブルの上で祈るように手を組み、ただ頷く店主の姿に真那津は安堵を覚えた。夢の売買だなんて突拍子もない話だけれど、少なくとも真摯に聞いてくれるつもりはありそうだ。


 その夢の中で、真那津は草原に立っていた。名も知らない細長い草が、ふくらはぎあたりまで生えている。見渡す限り平坦で、木も、道も、何もない。茶色くなった葉がどこまでもどこまでも広がっていて、まるで海のど真ん中みたいに放り出されたような心地だ。

 真那津の右手は、自分のものよりずっと小さな手に握られている。坊主頭に白いタンクトップ、半ズボンなんて、今どき見かけることのない、ステレオタイプの“田舎の少年”が、真那津の手を引き、歩き出そうとする。

(行きたくない。行きたくない。行きたくない)

 そう思っても声は出ず、手を振り解こうにも叶わない。引き千切られそうな程の腕の痛みに負けて、渋々と少年を後をついていく。彼の足取りはしっかりとしていて、目的地への道標が、見えているかのようだ。

 一歩一歩、重い足を進めるたびに、空が暗くなっていく。先に進んではいけないと思うのに、抗うことができない。

 右腕を振り、足を踏ん張っても、否応なしに前へ前へと引きづられる。逃れるには、いつの間にか左手にあった、この包丁で腕を落とすしかない。

 もうこれ以上は無理だと思ったところで、左手を大きく振り上げる。躊躇いをかき消すべく叫び声を上げて……


「そこで、目が覚めるんです。実際に飛び起きながら叫んでるし、しばらくは心臓がバクバクして、寝直すにも時間がかかって。

 そうやって、毎晩毎晩。ただでさえ寝不足なのに。人に話したところで“たかが夢”だって呆れられてしまうし」

 心療内科にでもかかろうかと本気で検討し始めた矢先に、同僚から渡された一枚のチラシ。真っ赤な字で印刷された“夢、売ります。買います”の文句を、信じてみたくなった。

「本当に買ってもらえるんですよね?そうしたら、ちゃんと寝れますよね?」

「草原の中を少年に引かれて歩く夢ならば……」

 そう言いながら店主は、机の上の機械を動かす。それは古めかしいレジスターだったようで、引き出しから一枚の万札が取り出された。

「こちらでいかがでしょうか?」

「あれを見なくて済むなら、それくらい払います」

 財布を取り出そうとする真那津の動きは、店主にやんわりと止められた。

「夢を買い取らせていただくのですから、こちらがお支払いする金額です。問題ないのであれば、このままお受け取りください」

 真那津は手のひらの上に置かれたお札と、店主の顔を交互に見る。

「悪夢を祓ってくれるんじゃないの?」

「いえ、当店はあくまでも夢の“買取”を行っております。それに」

 レジスターを閉じるために、一度セリフを切った後、店主はこう続けた。

「この夢が、吉夢か凶夢かは、わかりませんよ」


 半信半疑ながら獏屋を後にし、店と店の通路を戻る。路地に出てから振り返ってみても、先ほどまでいた建物は見えない。

 白昼夢のような出来事だったけれど、手の中には確かに一万円札が存在している。騙されたのだとしても、損はしてないのだから良いかと真那津は思った。


 その一週間後。真那津は再び獏屋を訪れた。一度目の訪問時とは違い、路地を、通路を早足で進み、勢いよく引き戸を開く。

「また、夢を見るようになったんだけど」

 レジスターの前のストールから立ち上がる店主に、掴み掛かるようにして真那津は言った。

「今度のは、海を泳いでる最中で、やっぱり同じ子に手を引かれてるの。段々と深く潜ってくみたいだし……これじゃ、前よりも酷いじゃない」

 息を切らせた真那津を落ち着かせるように、店主は椅子を勧める。途端に恥ずかしさを覚えたものの、言葉を止めることはできなかった。

「草原だけじゃなくて、海でも、山でも……とにかく、引っ張られる夢を見なくすることはできないの?

 あの子、私が堕した赤ちゃんなんだわ。このまま地獄に連れていかれちゃうのよ、きっと」

 両の手に顔を埋め、真那津はうめくように呟く。そんな彼女にかけられた声からは、何の感情も掬い取れなかった。

「少年の夢を全てお売りになるのはおすすめしませんが」

「けれど、このままじゃまともに寝られないもの。お願い、お金を出しても良いから、引き取って」

 黒衣の店主は、たったままレジスターを開くと、右手に紙幣を掴んだ。

「それでは、こちらでいかがでしょうか?」


 受け取った一万円札は、家に帰ってから数えてみれば、全部で六枚もあった。封筒に入れたそれをお守りがわりに、枕の下に入れる。

(今日こそ、ちゃんと眠れるはず)

 一度だけ深く息を吸うと、真那津はゆっくりと目を閉じた。


 目覚ましの音で瞼を開く。カーテン越しの陽光で、部屋の中がぼんやりと明るい。

 夢は、見ていない。

 たった、それだけのことだけれど。睡眠のために確保できた時間は、四時間ぽっちだったけれど。

 ひどく、気分が良かった。

 カーテンを全開にし、掃き出し窓を開ける。素足のまま、ベランダへと出た。

 このまま、幸せなまま、どこかへ。

 風が大きくカーテンを膨らませる。その動きが落ち着いた、その時には。

 ベランダにはもう、誰もいなかった。


 地方紙の中面の、小さな、小さな記事。転落した女性の安否に目を通したところで、鋏を手にとる。新しい売り物につける、覚書代わりのスクラップだ。

 母親に望まれなかったが故に、生まれ落ちることは叶わず、それでも、彼女を生へ向かわせようとする、少年の夢。

「けれども、あのお客様にとっては、生き続けていくことこそが、地獄だったのでしょうね」

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