第2話 エドワード・ヴァレンティノという青年
エドワード殿は今日はヴァレンティノ家の方の執務室にいました。継母もステファンも地味な仕事は全くしないため、彼がいつも務めているのです。
縁の下の力持ち、と言うべきでしょうか。彼は自己主張をほとんどしませんが、彼がいなければ今のヴァレンティノ家は金食い虫二匹の所為でとうの昔に領民の謀反が起きて破産していたでしょう。
彼は耕作に適さない森山の領民には木材での税の納付を許可し、木材を運ぶ運河も整備しました。鉱山の過酷な労働環境を少しずつ改善しながら、新たな機械や道具、採掘法を積極的に取り入れることで生産性を向上させています。耕作地には農学者や支援魔法の得意な魔道士を積極的に派遣して、少しでも味が良く生産性のある作物を開発させ、それぞれの土に合った肥料を開発させては普及させ……。海や運河の港や港町を地道に整備して領地のあちこちや帝都に直結する大路と繋げ、商人が行き来しやすいように市場も整え、自由市場を定期的に催すようにして……。
勿論、これは彼だけでやったことではありません。私の父は元々が冒険者ギルドに所属していましたから、平民の不満や意見をよく聞いていたのです。
山の中の狭い畑で麦なんか生産したって大した意味がない。それよりこの立派な大森林の木材を納めることができたら。もしその時に大河を通して木材を自由に運搬できたら。
鉱山夫はすぐに死ぬ。粉塵で肺を病むか落盤に巻き込まれるからだ。それかやけ酒をあおって肝臓を壊す。もしもう少し長生きできるようになったら。もしもう少し便利で安全に働ける方法があるのなら。
農業は、ただ作物を植えてただ育てればいいんじゃない。苗や種は土によって合うもの合わないものがある。その土だって掘り起こし、肥料をやり、毎年毎年整えなければダメなのだ。俺達は魔力がなくて支援魔法なんて使えないから叶わぬ願いだけれど、もし支援魔法があったらもっと良い肥料が作れて、もっと収穫できるだろうに。それに、この作物を品種改良して、味や収穫量を改善できたら……。
もしここに灯台があったら、きっと父は嵐の時にも死なずに済んだ。俺達じゃ作ることなんて無理だけれどさ……。もし船の設計をこのように改良できたら、もっと安全にもっと運搬できるのに。
ここに港があれば、ここに道があれば、もし大商人だけが独占していない市場があるのなら、もっと交易が進むだろうに……。
もう少しだけここが良くなれば、きっと金を稼いで働くことにもっと意義と楽しみがあるだろうに。
父がエドワード殿に引き合わせた者は、彼にそれぞれの意見を具申しました。彼は何度も熟考し、それらの願いをゆっくりと、着実に叶えていったのです。
彼を嘲らないのは平民達です。
彼がどれほどに英明な領主か、彼らが一番分かっているからです。
『俺達の稼いだ金で、平民でも通える学舎を作ったそうだ』
『夜間もやっているし、金のない平民はただで食事を貰える』
『相談すれば就職先を斡旋してくれるそうだ』
『聞いたか!?学舎で「卒業資格」に一番の成績で合格したヤツが帝国城で雇って貰えたそうだ』
『勉強がダメなヤツは領地の「討伐団」に入ることもできる』
『魔獣や盗賊や海賊をやっつける仕事なら、俺でも何かできそうだ』
『医療院って知っているか?俺達の税金で作った医療機関だそうだ』
『俺達の税金でまかなっているから、いつでも行っていいらしい』
『どうかこのまま領主様が同じでありますように』
『弱虫でもいい』
『俺達の暮らしを良くしてくれたのは領主様なんだ』
「ユリア皇女殿下……いかがされました?お顔の色が少し悪いようですが」
私の異変に彼はすぐに気がついて、椅子を勧めながら案じてくれました。彼の言うことを聞く召使いは一人もいないので、手ずから温かなハーブティーを淹れてくれます。
「実は……」
事情を全て話すと、エドワード殿は真っ青な顔をして俯いてしまわれました。
……予想できていたことです。
私はなるべく優しい声を出しました。
「父に頼み込んで、七日後には領地にある修道院に入ろうと思っております」
「ボールワースの、修道院ですか」
「ええ。帝都からはとても遠い場所にありますが、政争にこれ以上巻き込まれる可能性も少しは下がるでしょう」
嘘を申しております。サティーナもキーラも、即位したら間違いなく私を生かしてはおかないでしょう。
父だって申しておりました。
邪神よりも人間の方が恐ろしいのだ、と。善にも悪にもなれる分、遙かに残忍なのだと。
「……」
エドワード殿は完全に黙ってしまわれました。
私も別れの言葉を選んでおりましたが、一番言うべきことを今の今まで申し上げていなかったことに気付きました。
今更に申し上げれば、今後のエドワード殿の苦しみになるでしょう。
でも、これが正真正銘の最後なのです。
「お慕いしておりました。さようなら」
ハーブティーから少しだけ塩味がします。終わった思慕の欠片でも入っているのでしょう。
「僕は」
血を吐くような声に、思わず視線を手の中のハーブティーの液面からエドワード殿へ上げました。
「それでもいい、と思っていた。失っても仕方ないと。戦うことが怖かったから、屈辱を受けても甘んじていた。僕だけが惨めであるのなら、何もかもに納得できていていた」
だが。
「僕が弱虫であったために、ずっとユリア様を苦しめてたのならば……」
背筋が凍ります。
分かるのです。
どうしてか、分かるのです。
ここにエドワード殿の姿をして座っている存在が、根幹から変容したことが。
ゆっくりとエドワード殿は顔を上げ、私を見つめました。
燃える炎よりも赤く赤く禍々しいほどに輝く瞳が、私を見つめています。
「ああ、僕が今まで怖い怖いと恐れていたものなんて、貴女を失うことに比べる必要さえもなかった」
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