エンパシー
真珠4999
一.高辻
1.
圭介の母親は異国の人で美しく、父親は絵に描いたようなクズだった。
テレビで青い海の映像が出るたびに、母の眼が、懐かしそうな、寂しそうな光に揺れていた様子をよく覚えている。
小学校の卒業式を間近に控えた冬の朝、圭介は生まれてはじめて母に「学校を休みなさい」と言われた。隣室では徹夜のギャンブル明けの父親が、一人で眠りこけていた。
「圭ちゃん、何も言わないでついてきて」
まだオムツが取れたばかりの妹を起こすと、母は大きな荷物を持ってひっそりと家を出た。
家のそばにあるバス停は、滅多に使ったことがない。そのバス停からバスを乗り継ぎ、来たことのない大きな駅へとたどり着いた。妹を抱きかかえながら歩いていた母が、改札の手前でこちらを振り返った。
朝の寂しい光が、逆光になって雑踏の向こうに透けて見えた。
「圭ちゃん、あなたは男の子よ。強い強い、男の子」
母はそう言って涙をこぼし、圭介を強く抱きしめた。
「ゆるして。お母さんも綾ちゃんも、女なの。ここでは生きてはゆかれないの――」
抱きとめた圭介をゆっくり離すと、母はカバンから財布を取り出した。中から出てきたのは、パステルブルーのごく小さな守り袋だった。圭介はそれをよく知っている。幼稚園にいた頃、勝手に中を暴いてひどく怒られたことがあった。中には爪の先ほどの、小さなマリア像が入っている。
母の信仰の、大部分を占めるマリア像が。
「元気でね、」
白い光の中に、母と妹の影が消えていく。
やがて改札の人混みに、母の姿は完全に失われた。
圭介は、改札を通る人の流れをぼうっと眺めていた。
ただひたすらに流れる景色を眺めながら、しばらくそこに突っ立っていた。
どうしていいのか分からなかった。ホームに入って探すべきなのか、諦めて帰るべきなのか、それすらもわからない。思考はどこへも行けず、同じところをぐるぐると巡っていた。
自分は選ばれなかった。
「ぼく。」
駅員に声をかけられて、ようやく我に返る。
「学校に行くのかな?お母さんかお父さんは?――ああ、それはバスの回数券だね、乗り場はこっちだよ。バスに乗りたいのかな?」
親切な駅員について、もと来た道を戻る。
帰りのバスを待ちながら、帰ったあとどうするべきか、ぼんやりと考えた。学校は休みだ。家に行かなくてもいい。どこへでも行ける。
でもどこに?
圭介は家に帰って、暗い台所で父親のための朝食を作った。コンロの火をつけた途端、なにか時計の針が動き始めたような気がした。永遠の罰を刻む、時計の針が。
――圭ちゃん。
――強い強い、男の子。
母がこの日言い残した言葉は、圭介にとっての秘密の呪文になった。
父に殴られなければならないとき、金が足りずに同級生から盗むとき、物乞いのように近所の商店を渡り歩いて値のつかない食物を探すとき、何をするにつけてもその声が蘇った。脳内で反芻していくうちに、不思議と苦しみは消える。無感覚になっていく。
「どうせお前も俺のことを役立たずだと思ってんだろ。あの女みたいに。居なくなればいいと思ってる。そうだろ。」
父はそう言っていつも圭介を責めた。
そうだ、と思った。どうでもいい、とも思った。
耐えていればいずれ終わる。
いずれ終わることに、抵抗する意味などない。
いつか死ぬ、それまで何も抵抗せずに待っていればいい。親父だって、そうすればいいのに。
高辻に出会う日まで、ずっとそう思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます