2
夕刻、家に帰ると建付けの悪い引き戸を開け、奥に向かって「ただいま、」と投げかけた。
狭い土の玄関。低い天井。ボロボロの土壁。いつもの、古くて暗い借家だった。
だが、いつもにはない他人の足音が、台所の方から聞こえてくる。
「おかえり、」
廊下に、静がヒョコリと飛び出した。
「洸太、仕事どうだった、」
「まぁ、別に、普通っすよ。……このにおい、」
湿気た木材の匂いに混じって、玉ねぎとスパイスの温かな香りが漂ってくる。少しこってりとしたこのにおい。
「そう。ビーフシチュー作ったんだよ」
「……ども、」
誰かが食事を作って待っているなんて、久しぶりだった。
「……ちなみに先輩、何人前作ったんすか」
「何人前かな?とりえず、ルーは一箱使ったよ」
「……っすよね。」
一箱で標準十皿分。
明らかに作りすぎだが、静が大鍋料理を作るときはいつもこうだった。
静の家は四人兄弟の六人家族で、作る食事の量の基準が六人前なのだ。二人で暮らしていた頃も、当然のように一箱フルで作っては連日のシチュー責めに苦しんだものだった。
まさかふたたびその特技に相まみえることになるとは。
「いいから、座りなよ」
静はレストランの給仕のような振る舞いで洸太の椅子を引いた。
それからコンロに戻り、一人分のシチューを持って洸太の前に差し出した。すでにサラダとバゲット、それにスプーンは準備されている。
「ありがたく召し上がれ。」
洸太は何か言おうとしたが、結局言われた通りにありがたく頂くことにした。その様子を、静は向かいに座ってじっと見つめている。彼のテーブルには、何も置かれていなかった。
今朝聞いた話では、静は何も口にできないということだった。即席の体に、飲食は負担が大きすぎるらしい。水を舐めるぐらいなら良いとのことだ。
結局、この家で食事ができるのは洸太だけだった。
洸太は残りのシチューをどう捌こうか思案した。色々考えたが、結局、祖父にも協力を仰ごうと思った。
幸い、味は悪くない。牛肉はよく煮込まれ、柔らかくなっている。
「……あれ、そういえば牛肉、冷蔵庫にありましたっけ?」
「あぁ、なかったから買いに行ったよ。ふもとの農協。」
洸太は思わず静の顔をみた。彼の方は、それが何か、と言わんばかりの表情だった
「先輩、昨日あの人に言われたの覚えてないんすか……?山に連れてかれるかもしんないんですよ。それに先輩、一応死んでるんすから、誰か知り合いに見られたら大変な……」
「お前が金を置いていったんだろう」
その金は、やむを得ない何かが起きたときのための金であり、シチューの材料を買いに行く金ではなかった。
「なんだよ。せっかく一年ぶりにお前のもとに帰って来たのに、仕事を理由に丸一日一人っきりで留守番させられて。それでも健気にメシを作って待ってたら、今度は出かけるな、だって?なぁ洸太、それが死んだ人間にする仕打ちか?」
責めるような口ぶりに対して、表情はどこか冗談めいていた。そんな顔で言われてしまうと、洸太はもう何も言えなくなる。
「もういいっすよ。明日から気をつけてくださいよ。」
はいはい、と静は笑った。
「そう言えば農協のそばで笠寺を見た。あいつもここにきてるんだな」
洸太のスプーンが止まる。一番会ってほしくないやつに会ってしまったらしい。
「向こうは気づいてなかったけどね。つれないな。俺のことは忘れたのかもしれない」
「……花、持ってきてましたよ。命日に」
「へぇ、あいつも可愛いところあんじゃん」
静が嬉しそうにしているのを見て、洸太は何だか胸の奥につっかえを感じた。
静の方は大して悪びれる様子もなく、ゆったりと食卓に肘を付いて、スプーンを運ぶ洸太の表情をまじまじと見ていた。
「ひょっとして、なんか怒ってる?」
「怒ってません」
「そ。それならいいよ。ね、シチューうまい?」
「……まぁまぁっす、」
「素直じゃないな。うまいだろ、」
「……、」
温かな視線を感じながら、黙々とビーフシチューを頬張る。
嘘みたいだ、と思った。
こうして目の前に静がいることが、ではない。
静が死んだというのが、そもそも嘘だったのではないか。
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