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『そっちに仕事、ある?』


 静が突然電話をよこしたのは、三年前の夜ことだった。五月の暮れ、風は少し梅雨の予感をはらんでいた。


『しばらくそっちで、世話になってもいいか?』

「世話になるって、先輩急にどうしたんすか。今どこなんすか」

『今?下関のサービスエリアだよ。出たはいいものの、行くあてがなくってね。ほんの少しの間でいいからさ、洸太の家においてくれよ。今から行くから、明日にはつく』


 それまでも、静が突然洸太の家を訪れることはよくあった。だが、と言われたのは初めてだった。


 翌日の昼、静は兎和山の洸太の家の前に車を停めて待っていた。

 夜通し高速を走ったのだという。なるほど確かに目の下にうっすらとクマができていたが、それでも彼の美貌は損なわれてはいなかった。


 車から出てきた静は相変わらず背が高く、目の覚めるような美しさだ。初めて会った高校の時分から少しも変わっていなかった。

 目元には愛用の金縁眼鏡。背には大きめの黒いバックパックが一つ。他にアクセサリーも何もない。

「俺の荷物はこれだけだから。向こう出るときに、だいぶ捨てちゃったんだよね」

 存外に小ざっぱりとした荷物を彼から受け取る。


「悪いけど、しばらくよろしくな、洸太。」


 洸太の頭をくしゃくしゃと撫でる、その腕も、笑顔も、彼のすべてが初夏の爽やかな日差しを反射して、知らない生き物のように眩しく光って見えた。



 その日から、静との共同生活がはじまった。

 静の仕事は祖父に紹介してもらった。親戚の朝子が経営するホテルだ。朝子は「住み込みでもいい」と静の働きぶりを気に入っていたが、静のほうは「洸太の家が良い」と言って住み込みを断ったらしい。


 晩夏の夜、二階で寝支度を整えながら、そのことについて尋ねたことがあった。彼は「居心地がいいんだよ」と言った。ようやく聞いてくれたな、という顔だった。

「お前の隣が、心地いいんだ、」

「……なんすかそれ。そういうのは女の人に言ってくださいよ、」

「ほんとにそう思ってる?」

 静は、全部知っている、という眼で洸太を見ていた。

 何も答えられずにいる洸太に、彼は無言で近寄り、同じ布団の上に座った。

 彼と初めてキスをしたのはその晩だった。

 あまりにも突然で、信じられなくて、十年間もの間ただの妄想であったそれが現実となったことに、文字通り夢見心地だった。洸太はそれが夢でないことを確かめるように、何度も繰り返しせがんで口づけてもらった。


 一番美しい記憶だと洸太は思った。

 彼と過ごした二年間は、かけがえのない光だった。


 美しい日々は突然奪われた。


 いや、予兆はあったのかもしれない。

 静はあの晩、一人きりで家を出た。

 土砂で潰れた車の中からは、彼の荷物が見つかった。それは彼が洸太の家に来たときに持っていたものと全く同じだった。つまり、全私物だった。

 彼は下関から洸太のもとへ来たときのように、もてる物を――洸太を捨てて、遠くへ行こうとしていた。遠く、笠寺のところへ。


 ふたりを分けたのは死ではない。もっと前から、少しずつ、離れていったのだ。




 不意に、携帯がなる。

 洸太はハンドル横のボタンを操作し、ハンズフリー通話に切り替えた。


『洸太は平気か?何しとる?』


 祖父の寿史ひさしからだった。

「平気だよ。今、運転中。ちょっと、花をさ。」

 花という言葉で、寿史も察したらしい。そうか、と短く言うと、困ったように咳払いをした。


『心細くないか。静くんのこと』

「うん、平気。慣れたから」

『なんかあったら言えよ。それにな、』

 声を抑えながら、寿史が言う。


『今朝も。もうこれで三日目だ。山が怒ってる。悪い事の前触れだ』

「嫌なこと言うなよ。」

『ばあさんのことを覚えているだろう。お前気をつけろよ。家にいるときは鍵を閉めろ。お山が呼んでもついていくな。じゃねぇと、』


 その時背後でけたたましい犬の鳴き声がした。祖父の飼い犬のポンだ。洸太は不審に思った。あの犬は、めったに吠えない犬なのに。

『……ほれ、ポンも勘づいとる。気いつけろ、洸太。じゃねぇと、山に連れて行かれる』

 そう言って、寿史は電話を切った。


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