4.2
繁華街は雨に濡れている。俺の歩くアスファルトに、あちこちから注がれるネオンの淫靡な色が反射していた。
俺は〈今なら帰れる〉と自分に言い聞かせながら、安いビニール傘を差して裏通りへと入っていった。今ならまだ、後戻りできる。なかったことにできる。だが、年相応の好奇心のせいで、足だけは前へと進んだ。
店は雑居ビルの地下にあった。古い階段を使ってその階に降り立つ。少し錆びた入り口は重々しく、〈会員制 ブルーフィルム〉という看板だけがぽつんとでている。扉を開くと、怪しい照明に満ちた空間が広がった。ここまで来たら、もう引き返せない。
「はじめて?」
極端に狭い受付で靴箱の鍵を渡すと、そこから俺を覗き込む店員と目があった。金髪に入れ墨の、いかつい男だ。聞かれた内容に素直に「はい」と答えると、店員は俺の身体を上から下までスーっと目で舐めた。
「身分証見せてくれたら、割引カード発行するよ、」
今日はあいにく持ち合わせていない、と嘘を付く。それから、ハタチだ、という嘘も追加で。
「へぇー……」
本当は保険証も学生証もある。が、ここではそれはバレてはいけない。この店は高校生の入場を禁止している。即刻退場だ。幸い、背が高いせいか実際より上に見られることが多い。補導にも引っかかったことがないので、堂々としていられる自信はあった。
店員は少し黙ったあと、「次は身分証もってきてよ」と言って、特別料金で入館させてくれた。それから簡単にここのシステムの説明を受ける。このあたりは予習したとおりだった。店員は急に小声になって俺に耳打ちした。
「今日はあいにく、オッサンばっかだよ。いいの、」
「まぁ、なんでもいいんで、」
「あらら。若い割に達観してるねぇ。じゃ、行ってらっしゃい」
着替えとシャワーを済ませたあと、狭い迷路のような暗がりをゆっくり歩く。安っぽい色のライトが、通路に立つ男達を照らす。何人かと目があったが、俺は目線をそらしながら奥の方へ向かった。
個室の数は多くなさそうだ。店内を流れる派手な音楽の低温に混じって、どこからかうめき声が漏れ出ている。ビデオなのか、本物なのかはわからない。
この店にいる男たちはみんな、寝る相手を求めてうろついている。服を脱ぎ、露骨で覆いのない性欲で触れ合う。まるで、普段外の世界で服を着て、多数派の人間に擬態するのを揶揄するように。
だが裸であることが彼らの、あるいは俺の本来の姿なのかというと、そうでもない気がした。ここでもまた、何かの役割を演じているようだと思った。
しばらく歩いたあと、少しは年の近そうな男と目が合う。まぁ、こいつでいいだろう。
ゆっくりと視線を交わし合い、どちらからともなく指先を重ねる。男は俺の手を強く引いて空いた個室へと引きずりこみ、黒いマット張りの床に俺を跪かせた。
「かわいいね、」
俺の目の前に腰を寄せ、先を促す。俺は言われるがまま、口を使って彼に応えた。しばらくして男は興が乗ってきたのか、両手で俺の頭を掴みながらやや乱暴に愛撫をさせた。喉の奥が苦しかった。だが、変に優しくされるよりかはずっと良かった。
やがて後ろを犯されていく中で、俺はぼんやりと炉火と瑞希の姿を思い出していた。こんなところには縁もないだろう、あのふたり。
きっと炉火は瑞希に優しくするだろう。今俺がしているみたいに、むき出しの好奇心とは向き合う必要もないだろう。互いに互いの好奇心を、恋という言葉で包み隠しながら、優しく愛しあうだろう。
どうして、と思った。どうして俺は、こんなことをしているんだろう。
自分で選んだせいじゃないか、とも思う。実際、それが正解だ。俺は選んでここへ来た。こうしたかったから、している。だが心のどこかで、そうじゃない道があったのかもしれないと、漠然と思っていた。
最初ぐらい、もっと別の方法で、別の誰かとすればよかったのかもしれない。
正面から抱かれ、腹に男の汗が滴って擦れるのを不快に感じながら、俺は男にいいようにされた。
「口、あけて」
生温かい液体が口の中に注がれる。受け止めきれず、口の端から精液をこぼす俺の顔を、男は征服者の表情で満足気に見下ろし、微笑んだ。その男の薬指で、結婚指輪が光を反射したのを見た。
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