異端の御使いの冒険譚
水無月くらげ
第1話 はじまり
「………い…」
ー誰かが、俺を呼ぶ声がしていた。
固く固く閉じた瞼の向こう。
ー何だか、あったかい………。
頬に、包むような柔らかな熱がじんわりと
ポカポカとあたっている。
あー。
昔、ばーちゃんちの縁側で昼寝してた時のあれだな。うん………。
柔らかくあたたかな陽射しが体を優しく
包んで。花と緑の匂いを含んだ春の風が髪を撫でて
くすぐって通り抜ける。
俺は、子供の時。田舎のばあちゃん家で過ごす
時間がすごく好きだった。
穏やかで、静かで。
じいちゃんばあちゃんも笑顔で、
おじさんや、いとこ達もいて。
時の流れもゆっくりに感じてたっけ。
ばーちゃんには、風邪ひくから止めろって
散々言われたんだけど
あの縁側昼寝は止められなかったんだよなぁ。
サワ……サァア………
ピピッ、チチッ と小鳥が鳴き交わす囁き。
桜の淡い香りを纏った春の風が、柔らかく
木々を揺らしていく。
微かなざわめきが耳に心地よくてくすぐったい
『いい加減に起き………』
「……ばーちゃん、もうちょいしたら
起きる、から……」
それを口に出した瞬間
すっぱァァーーーんっ!!
軽快な音が雷のように彼の顔面を
直撃したかと思うと
その平穏なまどろみは一挙に破られた。
鼻折れた!?
というか顔面が平たくなった気が絶対する!
「っっ………いってーーな!!
何すんだこのヒス女神!」
彼は、触ってみてとりあえず顔面に凹凸は
残っていることを確認すると
せっかくの気持ちいい眠りを
最悪の目覚めにした張本人を涙目で睨んだ。
目の前には仁王立ちしていたのは女。
顔より大きな馬鹿でかいハリセンを手にしていた。
その姿はたおやかな波のように螺旋を描く
艶やかな、長い銀の髪が風にそよいでいる。
キュッと締まった見事なくびれを描くウェスト
その肢体を包んでいるのは
純白のロングワンピースだった。
胸を内側から
押し上げているド迫力の胸がたわわに
ボクはここにおります!と自己主張している。
下部のサイドのスリットから、極めて流麗な
脚線美の素足がなめらかに
これまた、こんにちは。
メガネの内側から見つめる切れ長の瞳は深い
美しい深緑である。
そしていつも通り、形のいい紅い唇に
咥えタバコをしていた。
生きとし生けるもの全ての男が見れば
ゴクリと生唾を飲み込みそうな
エロ……もとい、妖艶な女であった。
そしてその背中には、まさしく漫画でしか
見た事がないような、純白の翼が
はためく。
ふうーっと彼の顔目掛けて紫煙を吐き出す。
「ごほっごほっ!!」
煙い煙い!!
副流煙反対!
病気になるわっ!
「おめーには下界をちゃんと見ておけって言いつけて
あったろうが…ったく。」
タバコを、どこからともなく取り出した
持ち運び用の灰皿に押し付けると
よっこらしょと掛け声をかけて、傍にあった
木の根にあぐらをかいてどっかり座る。
「あー、会議ばっかりで肩こった」
「神様がおっさんみたいに
あぐらかくんじゃねえよ」
「だれがおっさんだコルァ」
えらく耳ざとく呟きを聞きつけた彼女が
後ろに音もなく忍び寄ったかと思うと
ガシッ!と腕を回し
いわゆる腕ひしぎをかけた。
「あだだだだだっ!!!」
「やい、拓斗ぉ。
おめえ、あたしに助けられた恩を忘れたわけじゃ
あるめえなぁ?」
「ギブ!ギブ!」
………その姿は、まるっきり
ただの絡みオヤジだった。
『せっかくブラック企業から脱出できたと
思ったらこれだ』
俺。
ー前嶋拓斗。
35歳。
ただし、生前だ。
づけば、いつもの光景。
目の前に、明るく光を放つ
パソコンのモニター。
使い慣れたくたびれたキーボード。
デスクの周りには並んだドリンク剤の空き瓶が
ちかちかと明滅する明かりに反射して
浮き上がっている。
そして、その真ん中に座る、窶れた中年男が居る。
分厚いメガネの奥の瞳はどんよりと力なく、体は
溜まりきった疲労で鉛のように重い。
「早く休みてぇ……」
微かに呟いた声が、彼以外は誰もいない
オフィスにいやに生々しく響いた気がした。
白が基調の、無機質な社内。
閉められたオフホワイトのブラインドの向こう
まだ行き交っている車が通り過ぎる音が微かに
聞こえていた。
カチ、コチ。
壁にかけられた
時計の音だけが定期的なリズムを刻む。
時刻は、既に夜の11時をまわろうとしている
所だった。
お決まりの残業も、これで3日連続。
いくら慣れているとはいえ、三十路から5年を数える年に突入した身にはキツ過ぎる。死ねるレベルだ。
しかも、今彼が片付けている仕事は
彼自身のものでなく。
部下がやらかしてしまったが故に尻拭いさせられて
いる案件。
現代社会の中で生きる皆様ならお気づきであろう。
超ブラック企業でブラック残業、黒に次ぐ黒。
こんな会社に入り、下手に役職に着いてしまったが
故に連日のサービス残業の連続だった。
定時に帰れたのは、考えてみれば入社したその日だけだった気がする……。
それでも彼は必死にキーボードを叩くのだ。
早く、早く。
終わらせて、せめて終電で帰って
ゆっくり風呂に入りたい。
どうせ数時間で出勤になるのだが、わずかでも
休みたいのは人情というもの。
最早干上がった気力を限界まで絞りきって
彼は急ぐ。
『急げ俺っ!がんばれ俺!』
終電が出る時刻まで、あと30分!
かさかさに渇き感覚もなくなった彼の手が
キーボードをタンっ!と叩き終わった。
「よ…し!」
終わった!
終わったぞぉ!
彼は勢いよく、デスクから立ち上がり
そのままー真後ろへ倒れ伏した。
ガラガラガシャンッ!!
座っていた椅子が、勢いよく弾け飛んだ勢いで
背後の棚にぶつかり
巻き添えを食って横倒しになったキーボードと
栄養ドリンクの空き瓶が、けたたましい音を立てて
周りに散らばった。
あ。
あれ?俺……
なんで……
体はピクリとも動かせなかった。
ただ、焼け付くように、胸の拍動が熱く
体から飛び出しそうにドクドクと跳ねているのに
鉛のように体が重く。冷えきって。
声が出せなかった。
その向こうに
音を聞いて飛んできたのか、警備員の叫び声が
していた。
『俺、死ぬのか……?』
不思議に。あんまり怖いとは思わなかった。あまりに
唐突すぎた。現実味のなさに、自分の身に
何が起こったのかも理解が追いつかない。
ただ、後悔した。
偏差値の高さから、入れば絶対彼女が出来るという
噂を信じて男子校へ入ったことが人生の過ちだった
のだと。
彼女出来たことがない歴=年齢
おまけに社畜のまま35になったのに
結局魔法使いにはなれなかった事を。
『次産まれてきたらせめて平凡で……共学で…
彼女がいて………無理か、そりゃ』
妄想しかしたことがないため現実感がないイメージのモテ男を想像しながら、彼は締めくくりに自分で
諦めた。
遠くに響く、救急車のサイレンの音を
薄れていく意識の向こうで聞きながら。
彼は、瞼を閉じた。
彼は知らなかった
空からひとひら。
ひらりひらりと、季節にはまだ早い雪が
舞い降りてきていた事。
空の、ずっと、ずっと遠い所で輝く銀の三日月が
凍てつきながら、見下ろしていた…。
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