命令違反で生き残れ!獣人特務部隊、何がなんでも生還します!
瀬川正義
第一章 獣人部隊出動
第1話【空覆う黒煙】
いつもと変わらない和やかな日差しが降り注いでいるが、今天気の様子を見ている者は誰一人いない。
轟々と立ち昇る分厚い黒煙がじわじわと日陰を広がっていく様が、突然押し寄せてきた来た魔物の大群への恐怖に拍車をかける。予期せぬ事態に早々に戦うことを諦め逃げていく兵士の背中を、煙の隙間から時折顔を出す太陽が容赦なく照らす。
「東門から侵入された!一旦退くぞ!」
「撤退を、基地撤退命令を早く!」
ルコヤ第三派遣基地に勤務している約300名のアルンテミア王立軍兵士たちによる悲痛な叫び声が、今起きている戦闘が魔王軍にとって圧倒的に有利に進んでいることを物語っていた。
そもそもルコヤ地方は魔王城のかなり遠方にあり、戦略的な意義は低い。とはいえこの地方はかつて人間の生活圏であったものの、今では魔物の侵略を受け少しずつ領地が奪われている事は間違いなく、避難民たちの要望を受け軍部はとりあえずこの地方の前線に基地を三つ設立した。ただその目的は、「魔王軍によるこれ以上の侵略拡大を防ぐこと。基地を拠点とした反撃作戦は行わない」という、いわゆるなんちゃって基地、実質ただの防壁替わりでしか無かった。
また基地設立といっても大規模な工事が行われたわけでは無い。ルコヤ地方に元々あった軍事基地を本部とし、それ以外は今や無人となった貴族の邸宅や城、別荘を間借りし、200から300名ほどの兵を常駐させ、そこを便宜的に派遣基地と呼んでいるに過ぎない。派遣基地に勤務する兵隊は、金に物を言わせて建設された住居の豪華さや装飾品の艶やかさを最初は楽しむが、ここは戦局に大きな影響を与えないのだという無気力感、変わり映えのしない日々によって徐々に精神が蝕まれ、二ヶ月もすればやる気の無い、ただ見張りに立つだけの案山子になってしまう。
それでもルコヤ第三派遣基地は、川沿いにあるためいつも床が水浸しの第一、ほぼ荷物置き場となり人員が日に日に削減される第二と比較すると、貴族の別荘として作られた城を居抜きして作られているのでかなりマシな部類である。深い森の中にひっそりと佇む城は、軍事拠点として徴用されて以降大きな戦闘はなく、たまの敵襲にも大きな怪我人を出すこともない「当たり」基地だと、ルコヤに派遣される兵士たちは噂していた。
しかし突如としてその平穏が破られた。翼と鋭い鉤爪を持ったアルデビルが城壁にいた物見の喉を割き、巨大なサイクロプスが東の城門を下にいた門番数名ごとハンマーで打ち砕いた。平穏に慣れすぎた兵士のほとんどは、魔王の軍勢を目の前にして戦意を喪失し、我先にと基地を捨て逃げ始めた。
「イルトーレ様!イルトーレ・サヴァルトニア様!早くお逃げください!」
事務室の扉から勢いよく開き若く精悍な、しかし怯えた顔立ちの兵士が飛び込んでくる。
「大丈夫よ。今、必要な書類だけ集めているから」
落ち着いた口調でイルトーレは答えた。つり上がった目、薄いがきつく結ばれた唇は意志の強さを、丁寧に編み込まれた輝く金髪、しなやかな指先は育ちのよさを感じさせる。華奢な体は軍服ではなく、鮮やかな赤いドレスを纏っている。軍服不着用は軍規違反ではあるが、彼女はこのルコヤ第三派遣基地の司令官、デカダ・サヴァルトニア中佐の娘、つまり「ご令嬢」だ。彼女に服装や多少の軍規違反を指摘できる人間はここにはいなかった。
この状況でも落ち着いて行動しているイルトーレを見て、兵士は彼女を「親の七光り」と侮蔑し、「どうせ仕事もろくに出来ない」とバカにしてきたことを少し反省した。
(俺たちよりもずっと冷静だ…。外には魔王軍が来ているというのに…!)
外から聞こる城壁が崩される音、仲間の悲鳴で兵士はすぐに現実に引き戻された。
「今は早く避難を!この基地に火をつけます!」
「だめよ!」
イルトーレがグッと兵士を睨み付ける。
「火をつけてはダメ。この基地には大切な物資もあるし、それにまだ逃げてる仲間たちがいるじゃないの!」
イルトーレの手が怒りで震える。だがこの状況、恐らく基地は魔王軍の手に落ちるだろう。そうなったとき、物資を魔物に奪われる方がリスクが高い。基地を捨てる時はその全てを破壊していくのが軍隊のセオリーだ。
「ですがイルトーレ様…」
「私がタイミングを見て火をつけます。だからあなたは早く逃げて。私は後で追い付くから」
逃げろと言われたんだ。彼女を放置して行くのは命令に従ったまで。決して職場放棄ではない。兵士はそう判断し、敬礼もそこそこに事務室を飛び出た。
建物全体がドンドンと震える。パラパラと落ちてくる天井の破片を手で払いながらイルトーレは兵士がもうこの部屋には戻らないことを確認した。
(今はやらなければいけないことがある…。早く、あの荷物を隠さないと…!)
事務室から廊下を覗く。逃げていく兵士たちは周りに目もくれず、西門の方に走っていく。
(今だ…!今ならまだ…!)
イルトーレはドレスの裾を持ち上げて食堂向かって走り始めた。食堂は城の北側にある。魔物が侵入してないと良いけど…。いや、今は仲間が善意で基地に火をつけるほうが危険だ。
こんな時、父は何をしているのだろう。既に逃げたのだろうか。娘を残して。いや、父は今避難したとしても、必ず基地に戻ってくる。私を助けに。いや、私より「あれ」を回収することが優先されるかも知れないが。
食堂は幸い魔物の襲撃をまだ受けてはいなかったが、散乱した食器や倒れた机が突然の襲撃の混乱具合を物語っている。
イルトーレは素早く台所に向かう。
(ここの食料貯蔵庫なら10日間、いや15日間は食べ物がある。あとは…)
台所で使われていたであろう、切られた野菜の脇に置いてあるナイフを掴む。
(武器…はこれで大丈夫だ。とにかく今はあれをどうにか…)
食料貯蔵庫は床下にあり、兵士たちからの盗難防止もかねて、その入り口は少し分かりにくい形になっている。基地の中でここを知っているのは炊事担当者と一部の事務員だけだろう。
しゃがみこみ、木目の隙間、床一面どこにでもあるような小さな窪みの一つに、イルトーレは近くにあった椅子の足を差し込む。テコの原理で重たい扉を持ち上げると、木製の階段が顔を覗かせ、奥から野菜や果物の香りが漂ってきた。椅子を放り出し、階段を下りて内側から重たい扉を閉じていく。貯蔵庫は地下ではあるが、小窓から日の光は差し込んでいるので暗闇に呑まれることもない。
もう少しで扉が閉まりきるという時に、一瞬だけ彼女の手が止まった。
(そういえば、彼は、私の護衛は何をしているのだろうか。基地内では親のコネ、無能と罵られた私を唯一庇ってくれていた彼は…。彼ならこの貯蔵庫も知っている。一番にここに駆け付けてくれるのは父ではなく、彼かも知れない)
だが、今は感傷に浸っている場合ではない。私はここに籠る。基地が占領されたとて、焼け落ちなければ助けはきっと来る。こっちには「あれ」がある。もし助けが来なくても…いや、今はネガティブに考えてはダメだ。今は、今は耐えるのだ。私には命を懸けてやらなければいけないことがある…。
ガコン…と貯蔵庫の扉が閉まる。
しばらくして、あっけなく魔物の部隊がルコヤ第三基地を占領した。撤退の際に基地に火をつける余裕のあった兵士など一人もおらず、多少城壁が壊れたが手直しせずとも城は引き続き使えるだろう。基地内で使えそうなものを漁る魔物たちが食堂に来た。彼らは床を踏み鳴らし、机を投げ、台所にある作りかけの料理を蹴飛ばしていく。
だが一匹たりとも、そのすぐ足元で一人の人間が息を潜めていることには気がつかなかった。
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