第50話 懐疑と迷いと

 自室で本を読んでいると、フレートが迎えに来た。イェレミーアスの膝から下りて、手を振る。

「イェレ兄さま。ちょっとルカ様のところへ行って来ます」

「ああ。待ってる」

 イェレミーアスから少し離れた窓際には、ルチ様が外を見て座っている。イェレミーアスとなら、同じ部屋に待っていられるんだよね、ルチ様。他の人ならぼくに付いて来る。妖精や精霊がそうだ。ぼくがお願いした時以外、傍を離れずずっと付いて来る。

「ベステル・ヘクセ様、スヴァンテ様をお連れしました」

「入って」

 ルクレーシャスさんは日当たりの良い部屋の中央に置かれたソファで、珍しくしゃんと座っていた。じろりとぼくを睨んでテーブルを挟んで向かいの席を目で指し示す。

「……」

 大人しく指示されたソファへ歩み寄る。フレートがぼくを座面へ下ろした。

「君は外に居てくれ」

「承知いたしました」

 フレートが出て行き、扉が閉じたところでルクレーシャスさんが口を開く。

「君は、イェレミーくんと明星様の関係を察しているね?」

「……まだ、」

「『断定できないから』だろう? 想像の域で構わないから言ってごらん」

「……言いたく、ありません」

 口にしたら、現実になってしまいそうで。今はまだ、疑惑でしかない。確かめてしまったら、それが事実になってしまいそうで怖い。

「……」

 膝で結んだ拳へ力が籠る。ただぼくは、認めたくないんだ。ぼくが死んだらルチ様と一緒に精霊の国へ行くと言ったら、あんなに心配していたのだ。そんな敬虔なデ・ランダル神教徒の彼がどうして、その選択をするに至るのか。そこには一体どんな経緯があるのか。それは苦難の末に選ばざるを得なかったことではないのか。ならば、ぼくは失敗したのか。

 ぼくが考えつくようなことへ、ルクレーシャスさんが思い至れないわけがない。

 ルクレーシャスさんが立ち上がって、ぼくの脇へ膝をついた。それからぼくの握り締めた拳へ手を添える。

「責めているのでは、ないんだよ。スヴァンくん」

「……分かっています。けれどぼくはそれがイェレ兄さまの選択ならば、仕方のないことだとすら、考えているんです」

 ある程度の、いくつかの可能性と対処について考えるのは無駄ではない。だが、結局のところどうなるか分からない、答えの出ないことについて、どれだけ考えても無駄だ。今できることを今考え、その時しかできないことはその時に考えればいい。

「その結果がどこへ繋がるのか。その先に何が在り、何が失われるのか。例えばそれが、今現在を変えてしまうとしても。それはその時、また考えようと思っているんです」

「……はぁ……」

 大きなため息を吐いて、ルクレーシャスさんは自分の尻尾を抱えるようにして手を動かした。ぼくはそわそわした。だって、ずっと言いたかったんだもん。

「……ルカ様」

「なんだい?」

「あの、ぼくも」

「うん?」

「しっぽに触っても、いいですか?」

 ルクレーシャスさんは完全に動きを止め、空を見つめた。

「全く、君って子は本当に一体何を考えてるんだろうねッ!!」

「えへへ」

 もふもふについて考えています、とは言えずにぼくは笑ってごまかした。ぼくの手へ添えられたルクレーシャスさんの手を反対の手で押さえる。

「ぼくが避けたいのはね、ルカ様。誰かに狭められた選択肢の中、それしか選べなくされた結果の選択をぼくが大事だと思う人がさせられること、です。それは己の意志で掴み取った選択とは言えません。イェレ兄さまにとってそれが最善だったのなら、他人から見れば最悪の選択でも構わないと思っています」

「……君という子は……」

「例えばその結果が、ぼくとの対立だったとしても。イェレ兄さまに、後悔がないのならそれでいいと思うんです」

 ルクレーシャスさんの瞳は、理解不能の生き物を見ている驚愕に満ちている。なるほど、ぼく以外の人間にはぼくが絶世の美形に見えているのなら、たびたび向けられて来た視線の意味が分かる。

「君という子は、優しいようで冷淡なところもある……なるほど、ヴェンのことも両親のことも恨まぬわけだよ……」

 それは前世の記憶がある、という大人としての諦念と俯瞰的な思考、冷徹な感情の切り捨てだ。六歳の子供がそんな素振りを見せたら、ぼくだって気味が悪いと思うだろう。けれど、ルクレーシャスさんはそれを変に構えたり捉えたりしない。

「中身は三十過ぎですからね。ぼくは見た目通りの幼子ではないのですよ、ルカ様」

「そうだった、そうだったね……」

「だから、この話は一旦ここで保留にしていただけませんか。ルカ様」

「……本当に、君って子は。君にそう言われたら、わたくしが何も言えなくなるのが分かっていてそれを言うのだから質が悪い」

「ルカ様を、信頼しているんですよ?」

 ぼくが首を傾げて見せると、ルクレーシャスさんは目を閉じて僅かに唇の端を上げた。

「仕方がないねぇ。わたくしは、人を頼るのが苦手で不器用なかわいいこの弟子に弱いのだから」

 金色のお耳がぱたぱたと動いた。ぎゅう、っと抱きしめられて遠慮なく背中へ手を回す。

「ぼくが前世の年齢とか考えず素直に甘えられるのは、ルカ様だけですよ」

「知っているよ」

 ぽんぽん、と頭を撫でられて目を閉じる。胸へ顔を埋めた。ルクレーシャスさんからは、仄かに乾いたシダーウッドとお菓子の甘い香りがした。

「スヴァンくん」

「はい」

「君はわたくしを心配させた罰として、わたくしにキャラメルを奉納しなさい」

「……台無しです、ルカ様……」

「はははっ」

 ぼくがぼやくと、ルクレーシャスさんは耳をぱたぱたさせて笑った。しばらくぼくを抱えたまま、あやすように揺らしてフレートを呼ぶ。

「スヴァンくんをお部屋に戻して、わたくしにキャラメルを取って来ておくれ」

「……かしこまりました」

 開きっぱなしにした扉の枠に凭れかかり、手を振るルクレーシャスさんをフレートの肩越しに眺める。普段はぼくのすることに口を挟まないのに、ちゃんと頼りになる師匠だ。

 フレートに抱っこされて自室へ戻る。ぼくの部屋の前に、イェレミーアスが待っていた。

「ヴァン」

 ぼくを認めると、手を広げる。フレートの腕から、イェレミーアスの腕へ移動した。

「では、私は晩餐の準備をしてまいります」

「うん。お願いね」

 普段通りに夕食を済ませ、イェレミーアスとラルクと共に湯あみをして、イェレミーアスと一緒にベッドへ横たわる。最近はそこに、ルチ様も加わって三人で眠ることがほとんどだ。ルチ様は明け方になると、大抵いつの間にか姿を消している。精霊のお仕事があるんだろうか。この世界でも、明けの明星は金星のことである。そう、明けの明星。ルチファー。神に逆らった天使の名だ。

「今日は皇宮へ行く用事はないから、私の朝稽古を見学するのだよね? ヴァン」

「はい。いつも通り、木陰で読書をしながら見学します」

「じゃあ今日は、朝稽古の後に訓練場を一周走ろうね、ヴァン。だから今日は、まず軽装で出かけよう」

「……ひぇ……、はい……」

 ひぃふぅ言いながらなんとか訓練場を一周走り、イェレミーアスに抱えられて屋敷へ戻る。風呂に入りたかったけど水は貴重なので、体を拭くだけに留めて午前の授業を受け、午後はヨゼフィーネ伯爵夫人からマナーとダンスを習う。マナーとダンスの授業が終わったら、今日は事業について考える。

 本格的に貴族向けの競馬を事業化することにした。この世界は騎士が居るから、騎士たちの訓練として馬場競技がある。そして馬場競技の優勝者が誰になるかを当てる、賭博もある。しかしそもそも騎士の鍛錬が目的なため、馬の障害物レースみたいなものなのだ。単純に馬が出走するだけの、いわゆる競争レースというものはない。

 しかも競馬はありとあらゆる収益化への手段を含んでいる。馬主を貴族に限れば、名誉と権力を示すこともできる。騎手は下級貴族と平民から募り、賞金を与える。名馬を育てる下級貴族や平民も潤う。二、三年で実現したい。そのための計画を練って、具体的に指示を出すためにメモをして行く。

 初めはぼくが馬主、騎手の雇用、全てを兼務するしかない。儲かると十分周囲に知らしめてから、年会費を払えば他の貴族も馬主として参加できるようにすればいいし、どの馬にどの騎手が乗るかは公平にくじ引きとかにすればいい。騎手は主催、つまりぼくらが自由に雇用できるようにするつもりだ。これはいずれは平民も騎手になれるようにするためである。

 そう、孤児院で育てた子たちを適材適所で雇用するのだ。孤児院の孤児たちの中から適性のある者を育てれば、ぼくの名声も広がる。いいことづくめた。ぼくはなんて悪い子なんだろう。うひひ。

 机に向かっているぼくの手元を覗き、イェレミーアスは苦笑いをした。椅子の背もたれに置かれた手の熱を感じて、ぼくは振り返った。

「なるほど、賭け金から賞金と配当を引いたものを、馬の持ち主と騎手に還元するのか。儲かると分かれば貴族がこぞって自分の馬を競技へ出せと言うだろう。君は本当に非凡だな、ヴァン」

「……金に汚いのですよ、イェレ兄さま」

 後ろ盾がないぼくは、とにかく誰にも利益を奪われない、自分だけの資金を稼がねばならない。イェレミーアスたちを養うにも孤児院を経営するにも、金が要る。

「……よい馬を育てる牧場を、いくつか知っている。君の力になれるかい? ヴァン」

「! ありがたいです、イェレ兄さま。とってもとっても、助かります!」

 あとは騎手だ。当然、乗馬を嗜むのは騎士と貴族のみ。もしくはそれこそ、騎士向けに馬を育てている牧場に関わっている平民くらいだろう。初めは騎士か、貴族から騎手を募るしかないだろう。

「あとは騎手なのですが……」

 騎士は全て、デ・ランダル神教と皇王に忠誠を誓ったエファンゲーリウム騎士団の団員で、貴族出身か貴族家門に属している。それ以外は平民の傭兵で、傭兵たちのことは騎士とは呼ばない。つまり大きな括りで言うと、騎士は全て皇王の部下、というわけである。二、三回腕試しで賭けレースに出場するくらいは咎められないだろう。しかし正式な雇用主が皇王である騎士は、賭けレースで賞金を稼ぐことを専門にはできない。そう、それが大事だ。今のところ騎手になれるのは騎士だけだが、騎士を辞してまで騎手になりたがる騎士はいない。だから平民の新たな職業としての道が開けるというわけだ。だがまずは騎手が要る。要る、のだが。

 イェレミーアスは腕を組んで頭を傾け、視線を右上辺りへ流した。

「例えば、領主が社交で皇都に来ている間、付き添いとしてタウンハウスへ同行した騎士たちはその間、暇ができる。当主の護衛に付く人数は限られているが、領地から同行するのは一個師団だ。相当の人数が皇都のタウンハウスで訓練しながら待機になる。そういう待機している騎士たちの小遣い稼ぎにもなるし、分団ごとに分けて競わせれば士気を鼓舞することにも繋がる。ラウシェンバッハの当主は代理のグイードだから、グイードに頼んでラウシェンバッハの、父が目をかけていた騎士に声をかけてみようか?」

「グイードというと、リース卿ですか?」

「ああ」

 ちなみに一個師団というと、作戦遂行に必要な各種部隊を含めた実行部隊、ということなので最小でも六千から一万人くらいの騎士からなる。当主と皇都に上がるのだから、エリート中のエリートであり腹心が率いる部隊だろう。まぁ、今回の社交シーズン、リース卿は皇都には来られなかったわけだが。そう、諸々が急過ぎて間に合わなかったのだ。それでもおそらくは、イェレミーアスを代理として出発する予定を組んでいたはずではあるが……。

 しかし、前ラウシェンバッハ辺境伯を殺したハンスイェルクはラウシェンバッハ辺境伯が今年の社交シーズンには、皇都へ来られないことを知っていたので準備万端だった。だから顔を出せたわけである。自分がラウシェンバッハ辺境伯の死に関わっていますよ、と言わんばかりの行動だが、そんなことに気づくような人間ならもっと上手く立ち回っているだろう。

「……リース卿は、ラウシェンバッハのタウンハウスへ滞在なさるのでしょうか」

「どうだろう。叔父上がタウンハウスへ居座るのではないかな」

 そりゃそうか。ハンスイェルクからすれば、皇都のタウンハウスに居る前ラウシェンバッハ伯爵の勢力を一掃しておきたいに違いない。

「来年もそんな状態ならば、リース卿やご一行をこちらへお泊めするのもよいかもしれません」

「ああ。それなら騎士たちや牧場の紹介も不自然ではなくなる。それでいいかい? ヴァン」

「……いいですね。イェレ兄さまの影響を残せますし、騎士たちに賞金を出せば、例え領地に不在でもイェレ兄さまへの忠誠心も保てる。そうなれば、ハンスイェルクにとってはおもしろくない状況が続く。そうと決まれば文句を言えないように、皇王陛下も巻き込んでしまいましょう。ジーク様にお願いしなくちゃ」

「ふふっ、ヴァンは本当に困った子だな」

 イェレミーアスは的確にぼくの意図を汲んでくれているから、ありがたい。椅子の座面で方向を変え、背もたれへ置かれたイェレミーアスの手へそっと手を重ねる。

「イェレ兄さまのものは全部、イェレ兄さまの手へ返してさしあげますからね。名誉も、騎士たちの忠誠も、全て」

「それは私が自ら得て行かなくてはならないものだよ、ヴァン」

「けれど本来ならそれらも今すぐ、引き継ぐものですよ? イェレ兄さま」

 本来なら、嫡男として期待の高かったイェレミーアスはそのまますんなりと次期当主として受け入れられたはずである。しかし七年も辺境伯家から遠ざかれば、やはり人心は離れる。ハンスイェルクもそれを狙っているに違いない。だからこそ、それらをバカにしてはいけない。離れても、影響力を見せつけ続けなければならない。見捨ててはいないが、邪魔者のせいで戻れないと示さなければならないし、邪魔者は己の力で排除してみせないといけない。

 まだ、たった十一歳の少年が、だ。

 だからぼくは、イェレミーアスの手を両手で包んだ。いつも通りににっこりと微笑んで見せる。

「ぼくにできるのはお手伝いだけです。イェレ兄さまの手へ返してさしあげるなんて見栄を張りましたけど、しかるべき時にイェレ兄さまには先頭に立っていただかねばなりません。それだけは、代わってさしあげることができないのです。お願い、できますか」

「……当たり前だよ、ヴァン。他の誰でもない、私のために君がしてくれているのだから。それくらいはさせてくれ」

 抱きしめられて目を閉じる。いつだってぼくは、イェレミーアスに抱きしめられたり抱えられたりしている。

 だから大事な時に、彼がどんな表情をしているか、見落としていたんだ。いつも。

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