第51話 恵み月の嵐

 日本で言う八月。皇国の暦で恵み月の後半になると、遠方の領地から来ている貴族たちは自領へ帰り始める。一番遠い南方領主のシュレーデルハイゲンなどはもう、帰り支度を始めているだろう。

「あああああ、もうやだ孤児院ももうそろそろ人を雇っておかないといけないし、競馬の事業化、週三回皇宮で勉強、お見舞いを隠れ蓑にした薬学士との探り合い膨大な薬学書の解読、お茶会への出席、ブラウンシュバイクへの尋問、ぼくがもう二人ほしい……」

「君が三人も居たら何をしでかすか分からないからわたくしは困るよ、スヴァンくん」

「ヴァンが三人もいたら、惑わされる人間が大量に出て大変だよ?」

 コモンルームでおやつを食べるルクレーシャスさんと、イェレミーアスへ愚痴を言う。もうそろそろマウロさんがやって来る時間だ。きっかり十分前に、フレートがコモンルームの扉をノックした。

「スヴァンテ様、マウロ様がおいでになりました」

「今、行きます」

 応接室へ移動するぼくをイェレミーアスが抱き上げる。のっそりと立ち上がりながら、ルクレーシャスさんは皿に残ったカスタードクリームやフルーツを包んだクレープを口へ放り込んだ。応接室に待っていたマウロさんの向かいに、ぼくを抱っこしたままイェレミーアスが座る。その横にルクレーシャスさんも座ると、マウロさんは深々と頭を下げた。

「お久しぶりでございます、スヴァンテ様」

「お久しぶりです。今日はお呼び立てしてすみません。平民区域の孤児院のことなんですが。そろそろ孤児院の子供たちの面倒を見る人間を雇いたいと思います。できれば夫婦で住み込みの方と、女性数人と、男性を若干名募集したいんですけど、どうでしょう。もちろん、女性数人は住み込みで構いません。男性は住み込みにすると、問題が起きそうでご遠慮したいのですが」

 警備面の問題は、ルチ様の加護で何とかなるので男性は通いでお願いしたいんだよね。女性と子供ばかりのところ、となると良からぬことを企む輩は湧きやすいものだ。

「雇うのは平民で良いのでございますか?」

「ええ。もちろん」

「では、すぐに見つかるでしょう。探しておきます、スヴァンテ様」

「よろしくお願いします、マウロさん」

 ぼくは競馬の事業化に付いて書いた紙を机へ広げた。

「えっと、次に事業化しようと思っているのはこれなんですが……」

「ふむ。拝見いたします。……ふむ。ふむふむ。……ほほう、なるほど……ああ、なんと……」

 食い入るように紙を眺め、それからマウロさんは目を閉じて背筋を伸ばした。

「……素晴らしい……まこと、スヴァンテ様の非凡な才能はこの世界の歴史を必ずや書き換えることになるでしょう……」

 前世の知識ですとは言えず、ぼくは笑顔のまま固まった。気を取り直して口を開く。

「それでですね、外門に近い場所で広い土地を買い入れたいのです。そこで競馬場を作ろうと思います。高位貴族の居住区近くは反対されるでしょうから、下級貴族の居住区で。南門辺りに、よい土地はないでしょうか」

「ふむ……跡継ぎが居らず爵位を返上した、シェーファー男爵のお屋敷跡などはいかがでしょうか。……この辺りになるのですが」

 マウロさんが広げた地図を覗き込む。イェレミーアスがぼくの腰へしっかり腕を回しているので、どれだけ身を乗り出しても落ちる心配はない。

「できれば、もう少し広い土地がいいんです。初めから広い土地を押さえておけば拡張が容易ですので」

 そう。収益が上がって来たら、そこに兼ねてより考えていた、レストランを作るのだ。子供を預かる意味で、貴族子息たちが交流するサロンを作るのもいいだろう。親は競馬に集中できるし、子供は幼いうちから他の家門の子息と交流できる。ぼくとしても、情報収集の場となりありがたい。まさに一石二鳥である。

「……そうなると、西南にあるこの辺りになりますが……ゼクレス子爵のタウンハウス跡なのですが……あまり、その……お勧めはしません……」

「なぜですか?」

「ここは、その……」

 言いにくそうにマウロさんは、人の良さそうな顔に吹き出す汗をハンカチで拭いた。

「幽霊が出ると、噂がありまして……」

「ゆう、れい?」

「ええ……」

「オレ、知ってるぜスヴェン!」

 マウロさんが帰って行った後、入れ違いでやって来たローデリヒはぼくらの話を聞くと元気よく声を上げた。コモンルームのテーブルには、ぼくが今朝焼いたスコーンがうずたかく鎮座している。そのスコーンの山を、ローデリヒとルクレーシャスさんが精力的に切り崩して行く。

 イェレミーアスは優美な所作でスコーンを一つ、手に取った。それからイェレミーアス好みにぼくが作った、紅茶のジャムを塗る。

 食べやすい大きさに割ったスコーンを口元へ差し出され、長い指へ触れないように気を払いながらむ。目を上げる。にっこりと微笑みながら、自らもスコーンを口へ運ぶ勿忘草色の虹彩が柔らかくしなう。イェレミーアスのものを食べている姿が何故かあまり「食事」という雰囲気ではないのは、ゆっくりと美しい仕草だからだろうか。

 ぼんやりと考えながら、差し出されたスコーンへ口を開く。四つ目のスコーンにキャラメルソースをくぐらせ、ローデリヒは指を指揮棒のように振った。

「ゼクレス子爵はさ、奥さんが亡くなってすぐに、三人の子供も原因不明で突然亡くなって自分も首を吊って自殺したんだよ。そんで、今でも男爵の幽霊が奥さんと子供たちの名前を呼んで屋敷跡をさまよってるんだってさ。いっとき騎士の間で旧ゼクレス邸での肝試しが流行ったくらいだぜ」

「……リヒ様は、やっぱりそういう俗な噂をよくご存知ですね」

「おう!」

 褒めてないんだよ、ローデリヒ。しかし騎士たちとそんな話をするくらい、仲良くしているということでもある。ゆえにローデリヒは騎士からの好感度が高い。だからこうして、騎士たちの間でしか囁かれていないような噂話も知っている。市井に近い公爵家令息。ローデリヒはそういうところが良いところなのだ。

「う~ん。もしよければ、もう少し詳しい噂を集めてもらえますか。リヒ様」

「いいぜ。何が聞きたいんだ?」

「何でも。ゼクレス邸の噂は全て。大したことない噂も含め、全て、です」

「よっしゃ、まかせとけ! オレの得意分野だぜ! 来月には収穫祭があるし、また肝試しに行こうってヤツが増えるかもな」

「収穫祭、ですか?」

「ああ。平民地域の収穫祭も楽しいけど、貴族地域でも神殿が仕切って収穫祭をやるんだよ」

「へぇ……お祭りかぁ」

「行きたいの? ヴァン」

 イェレミーアスの優しい声に、背中を預ける。

「ううん。肝試しに行く人が増えて、ぼくが買おうと思っている土地を荒らされたら困るなぁ、って」

「じゃあ、友達があの土地を買おうとしてるから汚すなって言っとくよ」

「内緒にしてくださいね、ってお願いしておいてください」

「おう!」

 おお、初めてローデリヒが頼もしく見える。張り切るローデリヒを眺めながら、フレートへ視線を送る。近づいて来たフレートに耳打ちする。

「ゼクレス子爵の情報を集めてください」

 貴族社会は情報戦の社会だ。貴族の中でも、そういった表に出ない情報をきちんと裏取りして売買している者がいる。大きな家門などは、そういう人間を独自に抱えていると聞く。そういう人間から、情報を買って来てほしい。そういう意味である。

「ゼクレス子爵……ですか」

「? そうです。どうかしましたか?」

「……」

 珍しく思案顔で少し顔を傾け、顎へ手を当てているフレートを見つめる。シャツの上にジレ、膝丈のズボン、白タイツ、ジャボタイにリヴレア。白タイツですら似合うのだから、フレートがどれほど美形か分かろうというものだ。うちのお仕着せが蝶ネクタイではなくジャボタイなのはぼくの趣味である。顔がいいってすごい。

「スヴァンテ様。実はゼクレス子爵は去年まで、情報入手先の一つでした」

「……ゼクレス子爵が、情報を売っていたのですか?」

「ええ。亡くなったと聞いて誰かから恨みを買ったのか、集めた情報の中にゼクレス子爵を殺してでも拡散を防ぎたいものがあったのか、と思ったので覚えておりました」

 主がアホなことを考えていたというのにうちの執事は優秀である。ぼくは何となく、一つ咳払いをして答えた。

「……ものすごく怪しいですね。その辺りの情報がほしいです。お願いできますか、フレート」

「かしこまりました」

 ルクレーシャスさんが、スコーンにミルクジャムをたっぷり塗って頬張っている。フレートが出て行くのを目路に入れ、お腹へ置かれたイェレミーアスの手を両手で包む。

「……もう一つの候補だった土地の元持ち主である、シェーファー男爵は跡継ぎがいなくて爵位を返還した、ということでしょうか」

「ああ。シェーファー男爵は確か、一代貴族でご子息は爵位を継げなかったんだ」

 背中から伝わる、ボーイソプラノが響いて体がくすぐったい。包み込むように抱きしめられ、頬と頬を合わせられた。

「騎士爵だったのですね」

 武勲を立てた騎士が、叙爵することがある。家を継げない貴族の次男三男が騎士になるのは、これを狙ってのことだ。だが騎士としての武勲を認められ叙された爵位は大抵、男爵位である。しかも叙爵された本人のみ、一代限りで爵位を子へ継承できない。そこからさらに子爵位を賜るなど、上位の爵位を叙されるのはよほどの功績を上げねばならない。例えば、ぼくの父親であるアンブロス子爵のように皇王の命を助けるなどの、大きな手柄がなければ下級貴族や平民が爵位を得るのは難しいのだ。

「……ヴァン。シェーファー男爵のご子息はシェルケ辺境伯の元で騎士として勤めていたはずだ。腕のいい弓使いで、まだ若いのに中隊長を任されていたが流行り熱で亡くなったと聞いた」

「知ってる。直前の領地戦で活躍して叙勲は確実って言われてたのに亡くなったんじゃなかったっけか」

 ルクレーシャスさんが伸ばした手の先から、スコーンを奪い取ってローデリヒが相槌を打った。ルクレーシャスさんのしっぽが毛羽立つのを目路へ入れながら散らばった情報を整理する。

「……直前の領地戦、というと去年のレンツィイェネラとの小競り合いでしょうか……」

「ああ。それだ」

 イェレミーアスが頷く動きが背中越しに伝わる。流行り熱とはおそらく、インフルエンザのようなものだろう。この世界は風邪ですら、命取りとなる。栄養状態の悪い平民ならば、風邪で死んでしまうことはよくある。よくある、のだが。

 日ごろから鍛えている騎士が、そんなに簡単に亡くなるものだろうか。何か引っかかる。

「例えば、シェーファー男爵のご子息が叙勲を逃したのならば、代わりに叙勲されるような方はいらっしゃったのでしょうか」

 イェレミーアスの手の甲を、指の腹で撫でながら尋ねる。いたずらを咎めるように指を掴まれてえへへ、と笑いながら振り返ると、優しく目で叱られた。

「……叙爵ではないが、シェルケ辺境伯のご令嬢の婚約者であるリーツ子爵令息が代わりに領地を賜ったはずだよ、ヴァン」

「ひょっとして、シェーファー男爵令息とはライバルだったのでは?」

「……ライバル、ではなかったけど、リーツが一方的に敵視してた、ぜ……」

 ローデリヒは己の吐いた言葉に、己で傷ついた様子で呆けている。思い至ってしまったのだろう。親しくはなくとも、どちらも見知っていたのかも知れない。

 機会があれば、手段があれば、己の身が守れるのならば。絶対に安全だよ、と囁かれれば。人は、たったそれだけの理由で人を殺す。

 そうやって安易に己にとって少しだけ不都合な人間を排除する癖のついた人間が、果たしてこの先も我慢をするだろうか。努力をするより、再び人を殺す選択をするのではないだろうか。その手段が、簡単で巧妙で自分が殺したと見つかりにくければ、見つかりにくいほどその選択は簡単になるのではないだろうか。

 例えば、そんな短慮な人間などそのことを理由に脅されたとなれば、ミレッカーのいう通りの駒になってしまうのではないだろうか。

 それは、愛する人を病から救う薬を与える代わりに言うことを聞けと脅すより、簡単な方法なのではないだろうか。

 例えば、そういう人間を増やし続けたらどうなるだろうか。やりようによっては、国を掌握できてしまうのではないだろうか。薬学士を使ったのならば、それが容易くなるのではないだろうか。

 イェレミーアスはふる、と身震いをしたぼくを包むように抱きしめ、顔を寄せた

「イェレ兄さま、辺境伯家には薬学士と医者が常駐しているのですよね?」

「ああ。常時、数人常駐している。辺境は、戦場だからね。他領より、多くの医師と薬学士を抱えているはずだ」

「……例えば、薬学士が暗殺者だったとしたら。ミレッカーは二つの意味で、各領主の命を手に握っているも同然ですね……」

 思考を巡らせながらイェレミーアスの手へ乗せた人差し指をとんとん、と動かす。イェレミーアスはくすぐったそうに少しだけ身を捩り、明らかに喜色を刷いた笑い声を上げた。

「ははっ。そうなれば、何もかもがミレッカーの思うがままだろうね……。そういう、ことなんだろう? ヴァン」

「ええ。イェレ兄さま。それでも、薬学士を頼まずにはいられない。それほどの薬を、調合できる者が他にいない」

 だからこそ、フリュクレフ王国は肥沃な土地を持たぬ小国ながら長年、富める国として存在していた。だからこそ、先々代皇王はフリュクレフを欲したのだ。

 暗殺者と救済者が同じであれば、疑念があっても人はそれを受け入れなければならない。辺境伯家がその筆頭であるように。医療の発達していないこの国で、まともな効果のある薬というのはそれだけの価値がある。

 そもそも、皇国は厳格なデ・ランダル神教の元に法律や社会規範が作られている。そして医術は宗教の範疇なのである。だから皇国の医術に薬という概念は薄い。薬を飲む前に、デ・ランダル神教へ多くお布施をし、神に祈れというわけだ。

 だから、薬学士の出す薬は少し特殊で曖昧な立ち位置にある。

 そもそもが他国の、異教の薬である。皇王のお慈悲で「目こぼししていてやっている」という状況。それが薬学士の「薬」なのだ。

「なるほど、そうであれば陛下が追うだけの理由がある……」

「えっと……?」

 不穏な空気だけを感じ取ったローデリヒが、不安げな表情でぼくへ目を向けた。伝えるべきか瞬きの間迷い、それから息を吸い込む。

「例えば、薬学士の知識を使って不都合な人間を絶対に誰にも露見しない状況で殺してやると唆され、そのことを理由に脅されたとしたら?」

「……ミレッカーに、逆らえなくなる……」

 そう呟いたローデリヒの虹彩は、不安と少年らしい潔癖さで揺れている。

「ええ。そうやって、皇国の大半の貴族がミレッカーに脅されたとしたら?」

「……皇を誅することもできるだろう。なるほど、ヴェンが君へ自分の懐刀ともいうべき二人を接触させるわけだ……」

 それまでは黙ってぼくらの話を聞いていたルクレーシャスさんが、眼鏡のブリッジを押し上げて眉根を寄せた。

「今さらだが、オルデンベルグやリースに妖精の加護を付与しておいて正解だったね、スヴァンくん。彼らにエステン公爵という後ろ盾がある今、安易に行動を起こすわけにはいかないだろう」

「ひょっとしたら、陛下がジーク様へ急遽象徴鳥ティーテルを授けたのも、ぼくらへ大義名分を与えて動きやすくするためかも知れません。ジーク様の喜鵲きじゃく紋章証は、皇太子勅命を示し皇太子と同等の権限を行使できますから」

「しかし依然として皇都へ一番近い、東の守りがミレッカーの思うがままになるかもしれない状態であるというのも事実だ……」

 呆然と呟いたイェレミーアスの脳裏には、領地に残る親しい人たちの顔が浮かんでいるのかも知れない。掴まれた手に力が籠るのが分かった。

「なんで、そんなことすんだよ……」

 正直で素直なローデリヒに、その醜悪な欲望は理解できないのだろう。悲しみを帯びた音吐に何故か、ぼくは感極まってしまった。君はそうなんだ。君は、そんなことを考えもしないだろう。ぼくは、それが嬉しい。

「ぼくねぇ、ミレッカーが何を考えてそんなことをしているのか理解できないと言い切れるリヒ様が、好きですよ」

「スヴェン……」

 押し出すように呻いて、ローデリヒは黙りこんでしまった。世界中の人間が皆、ローデリヒのように考えられるのならば、きっとそれは素晴らしいことだろう。

「だからこそ、捨て置けません。絶対に、ミレッカーの思い通りにしてはならない」

 きっぱりとぼくが言い放つと、ローデリヒは食べかけのスコーンを口へ押し込んで立ち上がった。

「スヴェン、オレしばらくここに来られない」

「? どうしたんです、急用でも?」

「絶対思い通りにさせねぇ。オレはオレにしかできないことをする。ちょっと待っててくれよ。じゃあな!」

 駆け出したローデリヒを追い立てるように、強い風と雨が窓を打ち付ける。恵み月の嵐の日以降、ぱったりとローデリヒはタウンハウスへ姿を見せなくなったのである。

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