第23話 森の闇の中で

 カイが牢屋に入れられ、鉄格子を挟んでディートフリートと夕食をともにした日の、夜更けのことだ。


 その男は、灯りを絞ったカンテラを片手に、町はずれの草原の向こうに拡がる森の奥深くを目指して歩いていた。男には、そこに隠したものを取りに戻る必要があった。


 それは、男にとって、誰にも見られてはならないものだ。だから、森の奥深くに隠した。だが、それを連れ出し隠した目的はもう果たした。誰もが、男の思惑どおりに動いたのだ。

 男は、自分の計画の単純さ、そして得られた効果の大きさに満足していた。


 今度は、隠したもの、すなわち三匹のヒツジを発見しなければならない。そしてその場所に、自分のポケットに入っているものを落としておく。

 今日、カイの部屋からこっそり持ち出してきた彼の折り畳みナイフだ。それなりに刃渡りの長い、武器として使えそうな一品だ。たぶん、あいつの飲んだくれの親父の形見の軍用品だろうが、ちょうどいい、絶好の証拠となるだろう。この町で軍と関係があったのはカイの親父ぐらいなのだ。

 今日の保安官との捜索の相談では、森のこの区域が俺とディートフリートの担当になるようにさりげなく誘導することにも成功した。

 明日は、何食わぬ顔でこの森に入って盗まれたヒツジを俺が発見する。大手柄だ。そしてナイフはディートフリートが見つけるように誘導してやる。あいつは喜び勇んで証拠品を拾い、後でそれが親友のものであることを知ったら大いに衝撃を受けるだろう。


 だが、それらが不自然でないようにするには、ヒツジを森の浅い場所に移動させておいたほうがよい。こんな森の奥深くからあっという間に探し出してしまっては、かえって『なぜだ』と保安官が疑いを持つかもしれない。保安官は慎重な男だ。自分に疑いをかけられてしまっては、何をしているのかわからない。


 俺は、自分の上司の息子であるディートフリートが最近カイと仲が良いことを知っている。

 いや、俺だけではない。

 町の若い連中も、大人たちも、そして町長のお嬢さんのベレニケも、ディートフリートの野郎がカイとつるんでいることを知っていた。


 ディートフリートの奴はこの町で一番の美男子で、人気も信用も抜群だ。多分、町長はお嬢さんの婿の候補の筆頭としてあいつを考えているだろうし、祭での様子を見れば、お嬢さんも嫌というわけでもなさそうだ。


 だが、カイがヒツジ泥棒となった今は、もはやディートフリートは罪人の親友だ。お嬢さんもディートフリートの人を見る目の無さに幻滅するだろうし、そもそも町長が罪人の友人を娘婿にするはずがない。

 そうなれば、お嬢さんの目も町長も、今度は事件を無事に解決する大手柄を立てた俺に向くだろう。

 それだけではない。ヒツジを無事に取り戻すことができた牧場主にも感謝されるはずだし、町民たちも俺を尊敬するだろう。

 ああ、そうだ、それなりの額の報奨金も手に入るかもしれない。


 そして何より一番の果実は、地区の次の保安官は俺になるということだ。

 牧童上がりの俺は、町の住民たちから低く見られている。保安官の坊ちゃんのディートフリートとは大違いだ。だが、こうやって実績を上げた俺と、ヒツジ泥棒の親友に成り下がった坊ちゃんとでは、もう立場は入れ替わる。保安官ももう若くはない。自分の息子に跡を継がせるつもりだったのだろうが、そうはいかない。

 まあ、あの偉そうな若造は、俺の助手として精々顎でこき使ってやろうじゃないか。



 保安官助手のバイスは自分の明るい未来を妄想しながら歩き続け、前夜に自分が連れ出したヒツジの隠し場所へとしだいに近づいた。


 だが、彼は突然足を止めた。


「何だ、この臭いは?」


 思わず口から言葉が洩れた。ヒツジの臭いを抑えて、血の臭いが漂ってきたのだ。それも相当に濃い。まさか、立木につないでおいたヒツジが何か獣にでも襲われたのではあるまいか。だが、この付近には森林狼はいない。話すらも聞いたことがない。


 カンテラの窓を開いて明るくし、おそるおそる足を進めた。ヒツジをつないだ木を捜す。

 すぐに見つかったその木には、確かに綱が結びつけられていた。だが、そのもう片端にはヒツジはつながっておらず、幹に力無くぶら下がっているだけだった。


 その断端を手に取って見る。綱の繊維がほぐれ、ずたずたに切れている。引きちぎったようにしか見えない。

 ヒツジが逃げようとして切れたはずがない。ヒツジにはそんな力はない。仮に三匹が力を合わせてもだ。


 バイスは、ふと、地面を見て「ひっ」と高い声を上げた。カンテラの光に照らされたそこには、大きな血の跡があった。地面に吸い込まれる前は、おそらく、一面が血の海となっていたのだろう。おびただしい生臭さはここから生じていたのだ。血に染まった大量の羊毛も落ちている。たぶん、力任せにむしられたのだろう。


 カンテラを高く掲げてあたりを見回す。流血の跡は、立ち木の間を森のさらに奥の方へと続いている。探しに行くべきか。


 いや、やめたほうがよい。


 そう直感した。きびすを返し、今すぐに、できるだけ早くここを静かに離れ、森を出て町に戻るべきだ。本能がそう告げている。


 すくんで動かない足を必死に動かしたときだった。踏んでいた木の枝が折れ、パキリと高い音が響いた。

 しまったと顔を上げたその先の樹々の間、カンテラの光も届かない遠い闇の中に、赤く光る二つの小さな玉が遠くに見えた。その光は瞬いたかと思うと、動き出した。

 樹々の間で何かが立ち上がり、枝葉に遮られながら少しずつ大きくなってくる。地面に落ちた小枝を踏み折る音も近づいてくる。


 狙われている。そう気がついた途端、バイスは身を翻して駆け出した。後ろからも、何かがドスッ、ドスッと二本足で走る音が聞こえる。木の枝がぶつかられてバキバキと折れる嫌な音がじわじわと大きくなってくる。追手のほうがわずかに速いのだ。

 相手の正体を考えながら必死に逃げる。熊か。いや、熊は二本足で走らない。だったら何だ、わからない、何なんだ。

 狩られる獣はこんな気持ちになるのだろうか。


 懸命に足を回転させるうちに木立がまばらになり、森の外が近くなる。もう少しだ。手に持ったカンテラが揺れながら放つ光が立木に妨げられずに照らす範囲が広がるようになり、バイスは少しほっとして、小さく後ろを振り返った。


 そして見てしまった。


 追ってきていたのは、バイスが見たことがない異形だった。

 カンテラの頼りない光の中に浮かび上がったのは、自分の背丈を遥かに超える巨躯、剛毛だらけの全身に隆々と盛り上がる筋肉、鈍く黒い赤色に不気味に光る腹。口は裂け、鋭くとがった牙が覗く。光る目は赤く吊り上がり、乱れた頭髪が覆う額から、円錐形の短い一本の角が突き出している。


 魔物だ。

 そう気づくとともに、バイスは振り返ったことを後悔した。恐怖のあまり、全身が震えて足がもつれた。転ぶまいとしてたたらを踏んだ所に、滑らかな樹の根が浮き出ていた。


 滑って宙空に浮かぶ足。

 後悔の海を泳ぐ手から、離れて飛んだカンテラの灯。

 希望の光が落ちて転がるまでの永遠の刹那。


 その瞬間バイスは顔から地面に突っ込んだ。噴き出した鼻血を手で拭いて急いで起き上がろうとして、左足に激痛を感じる。くじいてしまったのだ。絶望の中を必死に這い進もうとしてもがいたとき、右の足首にも圧痛が走り、体が宙に浮くのを感じた。


 捕らえられた。


 逃れようと必死にあがきながら開けた目に映る、逆さまになった魔物の姿。

 ポケットの中の物が、まだ先があったはずの人生の日々や夢や思惑と一緒にぽろぽろと零れ落ちていく。

 荒々しい腕がふるわれ、服が下着ごと乱暴にむしりちぎられる。胸があらわになり夜風に曝されても、その冷たさはない。代わりに感じられたのは、魔物が吐き出す熱く湿った息だ。

 その口角が上がり大量の唾液を垂れ流しながら嬉しそうにわらった顔が、バイスがこの世で見た最後のものになった。

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