第11話 魔法書

 ディートはカイがいる場所から少し離れた別の木陰に立って木剣を構え、素振りを無心に続け、さらに型稽古を何十本と繰り返した。つい夢中になってカイのことを忘れそうになるころ、カサッという音がした。慌てて振り返ると、カイはまだ同じ姿勢で本にのめり込んでいる。腿に乗せていた薄い方の本はそこから滑り落ちたようで、さっきの音はたぶん、そのときに立てたのだろう。


「カイ!」


 ディートは声をかけてみた。だが、カイは反応しなかった。まるで彫像になってしまったかのように、ぴくりとも動かない。

 ディートは少し心配になって歩み寄った。それでも気がつかない。もう一度、二度、「カイ? カイ!」と声を強めて名前を呼びながら手を伸ばして肩を揺すると、カイはようやくびくっと顔を上げた。


「うわっ! え? ディート? 何だ?」

「カイ、大丈夫か?」

「何がだ? 何かあったのか?」

「何って、さっきから呼んでも返事をしないじゃないか。もしや、その本に呪いの魔法がかかっていて、魂を吸われたとかじゃないだろうな」

「まさか」


 ディートが真面目な顔そのままに、本気で心配しているのを見て、カイはプッと噴き出した。


「そんなこと、あるわけないだろ。ただの本じゃないか。もし呪われているのなら、町長さんの一家は皆が幽鬼ガイストにでもなっちゃっているだろうさ」


 そこまで言って、カイは真顔に戻した。


「いや、町長さんのあの体からすると、実は精気を吸われている最中かもな」


 そう言ってから、また顔を緩める。町長は元商人で裕福な割には痩せぎすなのだ。

 カイの揶揄やゆするような言葉に、ディートは眉をひそめた。


「カイ、貴重な本を貸してもらっておいて、それはよくないんじゃないか」


 たしなめられて、カイは顔を戻して素直に謝った。


「ああ、そうだな。すまない、俺が悪かった。町長さんに悪気があって言ったんじゃないんだ。申し訳ない、許してくれ」

「いや、わかってくれればいいんだが」

「お前も、俺のことを心配してくれたのに、すまない」

「それは気にしないでくれ。それより、それだけ夢中になっているということは、その本は当たりか?」


 カイは落ちていた最初の本を拾いながら答えた。


「ああ当たりも当たり、大当たりだ。こっちの薄っぺらいのとは大違いだ」

「どう違うんだ?」


 ディートが尋ねると、カイは二冊を両手に持ち、ディートに右手の薄い本を見せた。


「こっちは、さっきも言ったとおり、自分の自慢と他人の魔法の悪口の羅列ばっかりだ。でもこっちは」


 そう言って今度は左手の本を突き出しながら続ける。


「まず最初に、普通の人間がなぜ魔法を使えないかを説明することで魔法がどういうものかを解説しているんだ」

「どんなふうにだ?」

「たとえば、魔力の量だ。この本によれば、すべての人間、いや、すべての生き物が、体の中に魔力の元となる『魔素』を持っていると書いている。でも、それがある程度の量以上でないと魔力にならない、そういう境界になる量があるんだそうだ」

「基礎体力みたいなものか。じゃあ、その『魔素』とやらの量で魔法が使えるかどうかが決まるわけか?」

「ああ、魔素が足りなければ何をどうやっても無意味だ。だから魔法使いは少ないんだ。魔法を使うのに十分な魔素を持つ人間は千人に一人いるかどうかもわからないらしい。でも、それだけじゃないんだ。他にもいくつか要素があるんだ」

「へえ? どんな?」


 ディートはカイの説明に興味を持ったらしく、隣にどっかりと腰を下ろして木剣をかたわらに置いた。


「たとえばここに書いてある」


 カイは右手の本を無造作にばさっと地面に置き、左手の本を開こうとする。

 ディートは急いでその本を拾い上げながらまたたしなめた。


「おい、気をつけろ」

「あ、すまない。中身がつまらなかったから、つい」

「たとえお前にはつまらなくても、町長に借りた本だぞ。汚したり破いたりしたら一大事だ」

「確かにそうだな。すまない。町長さんが手間暇をかけて集めたものをせっかく貸してくれているんだよな。大切な本を雑に扱っちゃいけなかった」


 カイはディートが拾った本を慌てて受け取ると、土ぼこりを払ってから丁寧に草の上に置いた。


「で、何だって?」


 ディートが話の続きを尋ねる。カイは厚い方の本を開いて目当てのページを捜し出して示した。


「ほら、ここだ。まずは、魔素を魔力にするということだ。さっきも言ったけど、魔力にするためには一定以上の量の魔素が必要だ。で、その次だけど、魔素が溜まっても、そこにいろいろな元素の魔素が混じっているとだめなんだそうだ」

「元素? 『元素』とは何だ?」

「『元素』っていうのは、要するに、どんな種類の魔素かっていうことだ。魔素には色々な種類があって、よく知られているのは風・火・水・土の四種類だ。人によって多い少ないはあるけど、誰でもその四種の魔素を自然に作ってる。それを変化させ、えり分けて、使いたい魔法に合う魔素だけをかためて魔力に練り上げないと、魔法が発動しないそうだ」

「風火水土か。それは聞いたことがある。たしか、魔物もその属性で分けられているよな」

「ああ。その四つ以外にも特殊な魔素を生む者もいるらしいけど、普通に使われるのはその四つだ。それで、その体内の魔素を必要な種類のものだけにする純化がとても難しいんだそうだ。それができなければ、魔素が混じり物のままになって、どんなに量が多くても魔力にならない」

「そうなのか?」

「ああ。ここに、『魔素は感情のようなものだ』って書いてある」


 カイがページの一か所を指差すと、ディートも覗き込んでうなずいた。


「確かに書いてあるな。感情というのは、つまり、喜怒哀楽ということだな」

「ああ、大まかに言えば。でも、それだけじゃないだろ? それ以外にも、憧れる、慕う、惹かれる、憎む、憤る、嫉く、僻む、愁う、悲しむ、憐れむ、悔やむ、惜しむ、悼む、敬う、切りがないな、とにかくいっぱいあるだろ? 何か大きな出来事があったら、そういうのがいろいろとないまぜになって、何とも言えない気持ちになるじゃないか」

「ああ、それはわかる」

「だろ? 魔素もそういうふうに、混ざり合って体の中にあるそうなんだ。それが純化できなければ魔法は使えない。これができるのもやっぱり少なくて、百人に一人ぐらいらしい」

「純化か。それはどうやるんだ?」

「それはあまり具体的には書いてないんだ。その魔法使いによって違うらしくて。ただ、俺は、それも感情と似たようなものじゃないかって思うんだ。この本にも、『感情をコントロールするのは難しいが、それができなければ賢者とはいえない』って書いてある。ほら、ここだ」


 カイが指さした文を見て、ディートも首を縦に振った。


「確かにな。何か気にさわることを言われたらすぐに感情をむきだしにする奴より、静かに聞いている者のほうが、後が怖いな」

「そういうことだ。『賢者』って、魔法使いもそうだろ? 自分の心の中を見つめて、気持ちを調えるようにすれば、魔素も自ずと調えられるんじゃないかって、俺は考えてる」

「鍛えられた精神力が必要ということか」

「まあ、そんな感じのことだろうと思う。それで、魔素が純化されて魔力ができたとしてだ。それだけでは魔法にならない」

「まだあるのか」

「そうなんだ。『魔力を、使いたい魔法に具体化することができなければ、体外に放出できない』って。自分の思い描く魔法の形にぴったりと当てはめなければだめらしい」

「そんなことを言われても難しいな」

「ああ。頭の中に火を思い浮かべても、ぼやっとして、いろんなことを考えてしまうからな。それで、その手助けをするために、何かを言ったり身振りをしたりするらしい」

「あの、木の杖を振りながら呪文を唱えるやつか?」

「そうだ。杖の先で図式や魔法陣を書くのも、具体性を高めるためだそうだ」

「そうすると、いくら魔力ができても、やりたいことを言葉にしたり絵にしたりするのが下手では、魔法は使えないということか?」

「そうだ。それが上手ければ上手いほど、魔法の規模や威力も大きくできるらしい。敵を包み込んで跡形も残らず焼き尽くすほどの大きな火の玉を出したり、竜巻を起こして吸い込ませ、空高くに打ち上げたりできた魔法使いもいたらしいから」

「たいしたもんだな」

「まあ、そこまでじゃなくても、小さい火や水の玉を出すぐらいは誰でも想像できると思うんだけどな」

「つまり、想像力も必要ということか」

「そういうことらしい」


 ひととおりの説明を終えて、カイが満足そうに「ふぅ」と息をつく。

 ディートフリートはそんなカイの肩に力強く手を置いた。


「いろいろ難しそうだけど、じゃあ、お前ならできそうだな」


 カイはきょとんとしてディートを見上げた。


「え? なんでだ?」

「必要なものは体力、精神力に想像力。お前に欠けている小器用さと暴力は入ってないじゃないか」

「それ、誉めてくれてるんだよな」

「もちろんだ」

「ありがとよ」


 黒髪の頭を掻いて照れ臭そうに返事をするカイにディートはまた尋ねた。


「もう一つ聞きたいことがあるんだが」

「何だ?」

「魔物はどうやって魔法を使っているんだ?」

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