第9話 町長の娘
街の見回りの後、ディートフリートは父の許しを得て町長の家に向かった。カイと約束した、魔法書を借りだすためという目的は告げなかったが、町長のところには普段から自分用の武術書を借りるためにしばしば訪れているため、特に何かを言われることもなかった。
町長の家は町役場を兼ねている。以前に町で有数の商家だったころの屋敷をそのまま用いており、とても大きい。貴族の邸宅のようだと住民は言っている。もっとも、この町の住民で王都の貴族のもっと豪壮な邸宅を見たことがある者は稀なのだが。
役場を兼ねているため、門も玄関も昼間は常に開け放たれている。雇われている番人が玄関の脇の日陰で椅子に座っているが、来訪する町民はたいがいが顔見知りであるために緊張感はない。ディートフリートは保安官の息子で助手見習でもあることが知られており、まったく警戒されない。むしろ、気軽に声を掛けてくる。
「よう、見習の坊ちゃん。町長に用事か? それともお嬢さんのほうか?」
「町長だ」
からかうような問いかけに、ディートフリートは表情をまったく変えずに素っ気なく答えて通り過ぎた。
町長の娘のベレニケは年ごろだ。彫りの深い整った顔立ちで体つきも女性らしい豊かさを保っている。生まれのよさもあり、婿入りを狙っている若者は多いらしい。
ベレニケ本人もそのことは意識しているのかもしれない。普段は町でも裕福な階層の娘たちと一緒にいることがほとんどで、未婚の男と話をしたりすることは、何人かの例外を除いてほぼない。若者たちから話しかけられても、取り澄ました態度で当たり障りのない返事をしてやり過ごしている。
ディートフリートが町長の執務室の扉をノックすると、「どうぞお入りください」と落ち着いた声が部屋の中から帰ってきた。
ドアを開けて入り、「お仕事中に失礼します」と言って頭を下げる。
町長はディートフリートを見ると、ひじ掛け付きの立派な革張りの椅子から嬉しそうに立ち上がった。椅子に似合わぬ細身の体は痩せすぎではないかと心配になるほどだが、町長の役目は身を削るほどに厳しいのかもしれない。
「おや、シェールライフ保安官の御子息でしたか。保安官にはいつも町の治安維持に尽力していただき、お世話になっております」
「こちらこそ、お世話になっています」
「なんの、なんの。今日はどうされましたかな?」
「また、本を何冊かお貸ししていただきたいのですが」
「流石は保安官の御子息、いつも勉強熱心ですな。もちろん構いませんとも。また武術の本ですかな? それとも、町政関連か何か?」
「いえ、魔法関連の書物です。何冊かをお持ちだったと思うのですが」
『魔法』と聞いて、町長は感心を顔に浮かべた。
「ほう、それはまた、珍しい。あれですかな、魔法を使う魔物への対策の研究とかでしょうかな」
「まあ、そのようなものです」
ディートフリートは曖昧に返事をした。カイが魔法を習得するためということを勝手に言いふらすわけにはいかない。
だが町長はそのぼんやりとした答えを気に留めなかった。たぶん、ただの話の接ぎ穂だったのだろう。
「結構、結構。この町に魔物が最後に出現したのはもう随分と昔のことになりますが、油断は大敵。山向こうからはいまだに魔物の噂が流れてきますからな。この町にもいつ現れるかもしれません。『備えよ常に』のお心がけ、さすがは剣の達人シェールライフ保安官の御子息ですな」
「……ありがとうございます」
「生憎と、今はちょっと仕事の手が離せませんでな。案内はいたしませんが、書庫は御存じですから、どうぞ御自由にお入りください。お借りになる本が決まりましたら、娘にでもそう言っていただければ、お持ちいただいて構いませんので」
「ありがとうございます。貴重なものをお貸しいただき、いつも感謝しております」
ディートフリートが礼を言って深く頭を下げると、町長は鷹揚に笑ってみせた。
「なんのなんの。集めたはいいのですが、時間がなくて読めずにいる本も多いのです。無駄に朽ちるに任せるぐらいであれば、保安官の御子息に読んでいただくほうが、よほど町のために役立てたことになります。お気になさらず、今後もどしどしお使いください」
「はい、それでは」
「お励みください」
ディートフリートは最後にもう一度頭を下げて、町長の部屋を出た。書庫に向かって廊下を歩き階段を昇りながら、町長との会話を反芻する。
「『保安官の御子息』、か」
町長はとても良い人なのだ。町民に親切で、常に町のことを考えている。だから、俺たちのことを、つい、名前でなく町で果たす役割で呼んでしまうのだろう。それはわかる。
それでも、親父のいない場所でも何度も何度も顔を合わせているのだから、一度ぐらい名前を呼んでくれてもよいのではないかと思う。
昨日、カイは俺のことを『ディート』と呼ばせてくれと言った。懐かしい呼び名だ。嬉しかった。その名を最後に呼んでくれたのは、亡くなったばあちゃんだった。
親父も俺が小さいときにはそう呼んでいたのだが、俺が親父の道場に入った日に、『今日からはディートフリートと呼ぶ。他の門弟と扱いを同じにするためだ』と言い、おふくろにも同じようにするように言った。それ以来は二人とも家でもずっと『ディートフリート』だ。
それも、門弟であり助手見習である俺に対するけじめなのだろう。それでも。
そこまで考えたときに、書庫の扉にたどりついた。ディートフリートは頭を一つ振って忘れてしまうことにした。
扉を開いて中に入ると、乾いた、そして少し冷えた空気の中に、本とインクと、少しかび臭い独特の匂いとが漂っている。ディートフリートにとって、決して嫌いではない匂いだ。
目当ての魔法書が置かれているおおむねの場所はわかっていた。「このあたりだったかな」と独り言を言いながら、書棚の間を歩く。整然と並んでいる背表紙を確かめながら捜す。が、見つからない。見かけたのは、違う本、自分が読みたかった武術書を捜していたときだったから、それほど確かに憶えているわけではない。同じ書棚だったと思っていたのだが。
「記憶違いだったか」
また独り言をつぶやくと、今度は返事が返ってきた。
「何がですの?」
艶のある高い声に驚いてそちらの方を向くと、書棚の通路の向こうに町長の娘であるベレニケが後ろ手を組みながら立ってこちらを見ていた。
目当ての本を捜すのに集中していたとはいえ、人が入ってきた気配に気がつかないとは。
自分はまだまだだなと思いながら、ディートフリートはベレニケの方に向き直った。
「失礼しました、お嬢さん。捜している本が見つからないもので」
「何の本ですか?」
ベレニケは尋ねながら近づいてくる。町長の娘らしく堂々と、痩せた父親とは異なり豊かな体を揺らしながら歩み寄ってきた。
「魔法に関する本です。この辺にあったと思ったのですが」
「魔法? それはまた、変わったものを」
「はい、ちょっと興味がありまして」
「魔法を使う犯罪者への対処方法の研究ですか? さすがは保安官の御子息ですわね」
また『保安官の息子』か。
ディートフリートは心中で嘆息をついたが、顔は何とか無表情を取り繕った。この仏頂面ももう習い性となり、それと意識しなくても顔に浮かぶようになってしまった。
「いえ、そういうわけではありません。ちょっと読んでみたいと思っただけなのです」
「そうですか。それはそうですよね。犯罪に駆使できるほどの強力な魔法を使えるのなら、こんな小さな町を狙ったりはしないでしょうから」
自分で言ったことに納得したのか、ベレニケはうなずいてそれ以上は詮索してこなかった。
「こちらですわ」
そう言ってディートフリートを一列奥の書棚に導いて指差した。その先には、彼が捜していた魔法関連の本が背を揃えて並んでいた。
「ありがとうございます」
ディートフリートはベレニケに礼を言いその棚の前に進むと、手近な薄い一冊を取り出した。もう長らく誰も触れていないらしく、天にはほこりがうっすらと積もっている。それをそっと払い、開いて目を通そうとして気がついた。
ベレニケがどこへ行くでもなく、その場に立ったままこちらを見ている。
「お嬢さん、何か」
「いえ、お気になさらず。ご本選びに集中して下さって構いません」
そうは言われても、誰かに見られながら本を読むというのはとても居心地が悪いものだ。集中などできるはずがない。だが、相手はこの本の持ち主のお嬢様である。どこかへ行ってくれと言うわけにもいかない。
それに、中身を見たところでディートフリートには魔法のことはわからないので、本の良し悪しは判然としない。それはカイに任せたほうがよいだろうと、ディートフリートは適当に厚そうなもう一冊を取り出して二冊をベレニケに見せた。
「お嬢さん、こちらをお貸しいただけますでしょうか?」
「もちろん、構いませんわ」
「有難うございます。それでは、失礼します」
そう言ってディートフリートは借りた本を合わせて体の前に持ち、そそくさと書庫から去ろうとした。
だが、そうはできなかった。
「お待ちください」
背後からベレニケの声がかかる。
何事かとディートフリートが振り返ると、彼の持つ本の上にもう一冊がぽんと乗せられた。
「お嬢さん、これは?」
ディートフリートが相手の意図を計りかねて尋ねると、ベレニケはすまし顔で答えた。
「秋の
「祭?」
「ええ。今年は踊りにも参加してくださいますよね? 踊り方はそこに書いてありますから」
面倒なことになりそうだ。
秋の収穫祭は
保安官助手見習の修行に全力を注ぎたいディートフリートとしては敬遠したい行事で、警備を担当するという名目で踊りへの参加は避けている。
そもそもディートフリートには踊りは苦手なのだ。体術とはリズムも身のこなしも違うし、そもそも男は相手の女性が気持ちよく踊れるようにサポートしてあげなければならない。
相手をかわしたり倒したりするのとはまったく違うのだ。
ディートフリートは顔色が変わらないように気をつけながら、お嬢さんの要求から逃れる道を探そうとした。
「できれば遠慮させていただきたいのですが。踊りは去年までも見るだけでしたので」
「町の重要人物である保安官の御子息が、いつまでもそれでは許されませんわ」
「いえ、その保安官の助手見習として、警備のほうは全力を尽くさせていただきますので」
こう言えば大丈夫だろう。
ディートフリートがそう思った途端にベレニケは「いいえ」と口角を上げた。その顔を見て、彼は自分の期待はむなしいものだと悟った。
「保安官には私の父からお願いいたします。『息子さんはまだ若いのですから、祭りぐらいは参加して楽しませてあげてください』と」
町長に頼まれては、親父も断れるはずがない。退路を一つ潰された。
ディートフリートは渋面になりそうになるのをこらえながら答えた。
「わかりました。踊りは苦手なので、女性の方々に御迷惑をお掛けするかもしれませんが」
「そんなことは練習されれば済むことです。なんでしたら、お相手しましょうか?」
「いえ。それは結構です。去年までに何度も見ていますから、憶えていると思います。きっとなんとかなるでしょう」
「ふーん」
ベレニケはディートフリートの顔を眺めまわした。見つめられた側は、心を読まれまいと必死に無表情を保とうとする。
だが、ベレニケは自分の顔をぐいっと突き出してささやいた。
「当日に急に体調を崩したりはなさいませんよね」
「……」
図星を突かれてディートフリートの言葉が詰まった。顔があっという間に赤くなるのを抑えられず、がくりと首を垂れて面を伏せる。
それを見て、ベレニケは「はぁぁ」と深くため息をつき、大きなディートフリートを下から見上げ、伏せられた緑の目を睨んでその視線を捕らえながら言った。
「どうしてもお嫌なのなら、不参加でも結構ですのでそうおっしゃってください。嫌々踊られると周囲の雰囲気も悪くなり、折角の収穫祭が台無しになりますから。そのお手のものはお返しください。……ただし、三冊とも」
ディートフリートは、できれば「わかりました。全部お返しします」と言ってしまいたかった。だが、心の中には、これまでにただ一人、自分のことを『ディート』と親し気に呼んでくれたカイの顔が浮かんでいた。
友が首を長くするほどに期待して待っているであろう本を質に取られてはどうしようもない。それに、これまでにも町長には自分もいろいろな本を貸してもらっているのだ。今さら、不義理をしてはならない。
ディートフリートは、もはや進む道しか残されていないことを理解した。
「いえ、参加させていただきます」
「嫌々でなく?」
「はい、喜んで。精一杯、踊らせていただきます」
そう返事し、ベレニケが満足そうに「まあ、嬉しい。ディートフリートさんが参加してくださるなら、今年の踊りはきっと盛り上がりますわ。楽しみにさせていただきますね」と喜ぶ顔を見ながら固く決心していた。
カイのための本を借りに来て
うん、それがいい。人付き合いが少ないあいつのためにもきっとなる。そうしよう。
ディートフリートは口角を懸命に上げながら何度もうなずきを繰り返した。
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