デビルズ・ラック・ストラック・ミー

津島修嗣

第1話 misfortune〈前〉


 夜の街ナイトシティススキノ。

 ニッカウヰスキーの大看板をはじめとするネオンに彩られた電車通り。

 夜闇に沈みかけた黄昏時、ルミナスブルーのライトが点灯する。

 生ぬるい驟雨に見舞われた人々が足早にスクランブル交差点を渡っていく。信号待ちをしていた集団もこぞってそれぞれが目指す方向へと歩き出す。

 その中で佐渡島蘇芳だけは動かず、対岸からこちらを睥睨する影たちを睨め付けていた。

 蘇芳は歳の頃なら二十歳かそこら。かなり上背があり、服を着ていてもなお鍛え上げられた体つきをしているのがわかる。なにより精悍な顔つき、そして静謐な劫火を湛えた鳶色の瞳が人目を引く青年だ。

 しかし、そんな彼を訝しげに見るものは誰もいない。同じく、対岸で滞るものどもを怪しむものもまたいない。

「……やはり使い魔だ。数は六。いけるか?」

『もちでしょ〜。あたしを誰だと思ってるワケ?』

 蘇芳にぴたりと寄り添う影のような少女が不遜な態度で言い放つ。

 薄いピンク色に脱色された髪に、制服をアレンジした短いスカート。腰に白いカーディガンを巻いている。胸元にはデコレーションつきの大きなリボン。今時の女子高校生風の可憐な少女だ。だが、その目だけが﨟長けた淑女のように爛々とした叡智の光を帯びている。

 まだ。まだだ。

 信号が変わるまであと少し――。

 ごごご、という鳴動と共に夜空を巨大な飛行船ほどもある体躯の時空鯨が通過していく。その下にはコバンザメのごとくに龍魚の群れがくっついている。時空を行き来するとかなんとかいうが、細かい生態まではわからない。ただ、やつらは大抵の場合雨をつれてくるから厄介だ。獣都・札幌に降る雨はほぼ酸性雨。人体はおろか別種族にとっても有害だ。

 遊漁の巨大な影が己らの背中を舐めていくのを見上げ、寄り添う少女がバンドの曲を口笛で吹き始めた。

 信号が点滅、そして赤く滲んだ――瞬間。

 巨獣やバイク、自動車の間をすり抜けるように疾る影たちが二人に殺到する。

『こんな名無しの使い魔風情に獲れる我と思うてか。キャンセル――!』

 少女の声に合わせて影たちが内側から弾けるように霧散し、空へ上っていく。

 六体すべてが消滅するまでそれは機械的に繰り返された。

『ふふん。これしきのコト、お茶の子さいさいなのだよん?』

「悪魔狩り、か。また一段ときな臭くなってきやがったな」

『我はおもしろいけどね?』

「オマエは……そうだろうな。だが、こんな街のど真ん中に使い魔を放つとはな。どの陣営だ?」

『わかんない。我の感覚には引っかかってないよ。つーかァ、どこの誰だろうがそんなん我興味ないし。それより早くスタバ連れてってくんない? 今朝発売の新作、夕方だから売り切れてないか心配だ』

「ったく……悪魔のくせに呑気なやつだ」

『我らは人間と違って時間はそんなに関係ないからね。どうとでも言ってって感じィ』

 蘇芳はあっけらかんと宣う少女にため息をついてみせながら、今度こそ青になった交差点を歩き始めた。

 ――彼らを包み込んでいた次元封印魔術が解けて、剥がれ落ちていく。

 切り取られた空間が元の場所に馴染むと同時に、行き交う人も車も彼らをようやく認識できるようにへと立ち返っていく。

 それをよそに、二人は今度こそ雑踏へと溶け込んでいった。



 第一話「misfortune〈前〉」



 二〇二〇年、晩夏――フォールダウン。

〈奈落禍〉とも呼ばれるこの大惨禍は、人々の生活のみならず、それまでの世界の在り様をことごとく変えてしまった。

奈落禍フォールダウン〉。

 すなわち、突如開いた次元の裂け目から世界各国の主要都市及び日本列島に〈異界〉が流れ込んできた世界同時多発的大怪奇現象を示す名称だ。

 日本が異界と融合した後。瘴気がこの世に溢れ、陰と陽の逆転現象により、世界は異形と化していった。あの世がこの世に雪崩れ込んできたのだ。

 これにより、各主要都市は超大型異形都市――通称〈怪獣都市〉と成り果て、大都市を中心に異界の者たちが流入した。吸血種、悪魔族、天魔、獣人族、海人族といった異形の存在が。

 彼らの大半はまるで約束事でもあるかのように異界と現世の狭間に産み落とされた怪獣都市で人と共存し隣る道を選び、人間相手――国家レベルのやりとりも含む――に様々な商売を始めた。

 その最も大きな影響は、これまで科学エネルギーによって支えられてきたインフラストラクチャーが魔導や呪術といった未知のエネルギーを駆使する概念構造にその依代を預け始めたという点だ。

 また、異形化した都市はそれ自体が呪われた巨大生命体〈怪獣〉となり、超巨大異形生物として認識を改められることになった。

 都市は移動もするし、呼吸し、新陳代謝する。

 日々その構造が変化し、新領域が誕生し、旧領域が腐り朽ちていく。それはさながら迷宮のようでもある。

 時には都市より大きな異種族が都市を喰らい、膨れ上がった怪獣都市が異種族を喰らうことさえある。

 ひとつ確実に言えることは停滞を余儀なくされていた人も都市も変化せざるを得なくなったということだろう。

 たゆまぬ変化。その先にあるのは進化だ。

 そして人々はその流れの果てに何があるのか知らぬまま泳ぎ続けている。

 ……これはそんな時代に繰り広げられた悪魔と悪魔憑きたちの、なんてことのない物語である。


 §


 黒かった世界が反転した。そして、気がついたときにはこの街に投げ込まれていた。

 それ以前のことは朧げにしかわからない。

 ただ温かい場所で優しい歌を唄っていた気がする。誰かのために、自分自身のために。それだけで満ち足りて幸福な日々だった。

 それなのに――。

「いたぞ、〈天使〉だ! 逃すな!」

「あっちだ! 路地まで囲い込め!」

「お前らは反対側へ回れ!」

 頭と喉の奥が痛い。

 走りすぎた四肢が悲鳴をあげ、脳みそは酸素が足りないと叫んでいる。体も心も既に限界だった。だが、ここで諦めてしまえばすべて水の泡。自分は彼らに捕まり、また地獄のようなススキノの地下世界で商品として扱われるだけの日々に逆戻るのみだ。

 少女は荒い呼吸の間に歯をくいしばり、再び走り出す。

 この街に来て初めて〈悪魔族〉という悪しき存在があることを知った。

 人間の魂や精気を取引材料に泡沫の夢を叶え、最終的にはすべて搾り取る背神者たち。

 商才に優れ、取引し、交渉を重ね、契約という形でもって自らの存在価値を大きくしていく異貌のものども。けれど、そんな彼らよりもおぞましく、恐ろしいものたちがこの世界には在る。それは――人間だ。

「きゃあっ!?」

「へへ、この先は行き止まりだぜ?」

 路地の横道から突如現れた男に腕を掴まれ、捻りあげられる。

 もう追手に回り込まれたのか。そう考える暇もなく地面に伏せられ、押さえつけられた。

 少女からは、いつの間にか自分が路地の奥へと追い込まれていると認識する余裕さえも奪われていたのだ。

「はな、してっ! はなしてよっ! このっ――」

 叫んだ瞬間に腹に別の男の爪先がめり込み、悲鳴も上げられずに嘔吐する。

 吐くものなどなくて、ただすっぱい胃液だけが込み上げるばかりだ。

 咳き込む少女の顎を掴み上げ、売人の男が顔を覗き込む。その視線から逃れたくて踠くが、手に力が込められ、首が絞められてゆく。

「ぐっ、あ……ぁ!」

「はっ、こりゃあ傑作だ。聞いていたより上玉だぜ、こいつ。ここで犯っちまっても処女じゃああるまいし、傷さえつけなけりゃバレねえだろ」

「そりゃいいや」

 いつの間にか追いついてきた追手に囲まれ、男たちの下卑た視線に晒されている。

 それが恐ろしく、それ以上に悔しくて、少女はより激しく抵抗し始める。それすらも愉しみ、嘲笑うように男の手で少女のワンピースが引き剥がされてゆく。破かれた布きれの間から白い雪肌がのぞき、膨らみきらない胸が露わにされる。

 抵抗するたびに頬が張られ、いつのまにか馬乗りになった男の一人が少女の太ももに足を割り入れる。

「いやっ、やだ……! やめて! お願い、助けて!」

 目から涙をこぼし、殴られ、鼻腔から血を滴るのも構わずに懇願する。

 しかし、この汚濁に塗れた街の片隅にそれを聞き入れるものなどなく、なすすべなく肌を、唇を、男どもの手によって蹂躙されてゆく。

 ――ああ、私は堕とされたのだ。天の箱庭から、この地獄に。

 少女は何度も目をそらしてきた事実をこの時になって漸く自覚しかけていた。

 どうやら――否、真実として自分は狩られる側になったのだ、と。

「暴力、それも陵辱か。諸兄らはここがどこだかわかっていないようですね」

 そのときだった。

 場違いな調子だが、心地よいほどによく響く声が聞こえた。

「ここは仮にも神の御座す場所。私めの預かる教会の足元ですぞ?」

「あ? てめえ神父か?」

「いかにも。わかったのなら出てお行きなさい。あなた方はこの庭には似つかわしくない存在のようですから」

「うるせえ! 今こっちはいいコトしてる真っ最中でね。神父だかなんだか知らねえが兄ちゃん、あんたに構ってる暇ねえんだよ」

「ん、ぅ……た、たすけ、て、くださ」

「黙れ! てめえはこうやって犯されてりゃいいんだよ、〈人造天使〉ふぜいが」

「ぐっ、あ――」

 少女は神父の格好をした青年の姿をみとめ必死に縋ろうとするが、のしかかる男がその頬を張り、喉を抑え込む。

「いーこと教えてやるよ。この街にゃあ神なんざいねえんだ。覚えときな」

 ゆらり、と。立ち上がった男が腰から銃を取り出し、神父に向けた。

 刹那。銃声が二度響き、頭を撃ち抜かれた青年がぐらりと体勢を崩す。

「はは、俺はいっぺん神父を殺してみたかったんだ!」

 吐きかけられた言葉が聞こえているのかいないのか、もう誰にもわからなかった。

 やがて地に倒れ伏すかと思われた神父は――しかし、首をもたげた状態で揺らぎながらもその場に立ったままだった。

「なるほど。神父を殺してみたかった、かァ。そりゃあいいや……で、感想は?」

「あっ、な、お前……!? なんで」

 狼狽した男の様子に、他の者どもも漸くそちらを見やる、と。

 こきこきと首を鳴らして下を向いていた青年神父が顔を上げた。

 獰猛な笑みをうかべ、青い瞳に虚なる燈を宿しながら。内側から燻る熱と思しきエネルギーが流れた血を乾かしていき、創傷がでたらめに塞がっていく。

「ひ、あ、な、なんだ、こいつ!」

「こいつ――ただの神父じゃないぞ!?」

「ちくしょう、撃て!」

 少女から完全に身を離した男どもが次々銃を抜いてありったけの弾を青年の額に、顔に、胸に、腹に撃ち込む。弾切れを起こしながら恐怖から引き金を引き続ける者もあった。

 だが――

「それでおしまいかい?」

 また次の瞬間にはもう元に戻りかけた神父が薄気味悪く笑っている。

「オマエ、聞こえているだろ? そう、そこのおチビちゃん、オマエだよ」

 自らの血に塗れた腕を広げ、神父が男どもの背後で身を起こしつつある少女に呼びかけた。

「助かりたきゃあ、おれに〈捧げる〉と誓え。このままじゃオマエが助かる見込みはほとんどないが、おれと契約を交わせば話は別さ。さあ、言え。言っちまえ」

「契、約……? あ、あなた、悪魔……なの?」

「ご名答!」

 先ほどまで自分を弄んでいた男どもの次に忌み嫌い恐れていた存在が自分に手を差し伸べている――これは異常事態だ。

 少女の小さな頭の中で恐怖が膨れ上がり、鼓動が警報を鳴らし始めている。

 悪しき存在。契約により相手を縛り、全てを搾取し魂までも掻っ攫う背神者。

 でも、それでもいい。

 今、この瞬間を生き延びるには――

「ぼ、ぼく、僕は……貴方に捧げます! だから……だから助けて!」

「確かに承った」

 完全に神父の姿を取り戻した青年が手を胸の前に添え、最敬礼でもって答える。

 その目に凶星の如き煌めきが宿る。

「悪魔、だと!?」

「や、やべえ、逃げっ――!」

 全ては数秒の出来事で、男どもには止めるすべがないほどに短く、そして悪魔には十分すぎる時間だった。

 ひゅう、と歌い出すように口笛をひとつ。

 それが合図となったかのように、男どもの肉体が内側から破裂し、教会の庭にぶちまけられた。

 あとに残されたのは無数の肉塊、そして〈人造天使〉と呼ばれた少女と神父の姿を借りた悪魔だけだった。

「な……こんな、なんて、こと……」

「ってなワケで取引成立だね。これでオマエとおれは一心同体ってこと。よろしく、天使ちゃん!」

 悪魔は少女の傍によると、自らの血とそして男どもの返り血で汚れた手を差し伸べた。

 黄昏色の髪と瞳。

 吸い込まれそうなほどの煌めきを宿した瞳が眼前で燃えている。こんなに美しいひとはみたことがない。少女は今はじめてそう認識することができた。

「あ……よ、よろ、しく……」

 弱々しく、そして迷い、戸惑いながらも少女が手を握り返す。

「さっきみたいな大技にはそれなりのお代が必要だが、まずはおれを気軽に使って頼って頂戴な」

「は、い……? うぅ……ぁ」

 漸く緊張が取れたのか、張り詰めていた弦が切れたように、少女はその場で気を失ってしまった。悪魔の手を握ったままで。

 それを無理に解こうとはせず、どこか尊いものをみるように微笑むと、悪魔は少女を抱えあげて教会の扉を開けた。



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