奏の唄
松井千悠
第1話
優しいときは、そよ風が撫でるかのようで、激しいときは、腕の数が三本にも四本にも増えていると錯覚させられる。
三味線の弦を弾く。その緩急は、まさに変幻自在。
くわえて、美声をも併せ持つ。
痺れるような男声で唄っていたかと思えば、いつの間にやら、聴くものの目には清らかな乙女が彷彿させられていることも。
性を曖昧にさせるほどの声域だった。
音曲において、
そして、
唄は、喜楽自身が書いた。
息をつかせぬほどに愛憎うずまく詩も、踊った胸が静まりを忘れるほどの調べも、この男が手ずから生み出し、奏でている。
天才というには生ぬるい。
能楽の神と呼び慕う者も少なくなかった。
しかし――
「父さん……」
少年は項垂れる。
墓前にて。
三味線の師を。
唯一の家族を。
§
べべんっ――
一曲を演じ、奏で切った。
この演奏は、観客にはどう映り、どう聞こえるのか。
「いかがでしたでしょうか」
奏は、恐る恐る問う。
舞台の最前席には座元が座り、他に客はいない。
予行の結果を、座元が告げる。
「まずまずだ。凡人としては」
そう。
分かってはいた。
が、いざ明言されると、痛みは想像を超える。
胸が裂ける思いで、奏は続けて問う。
「……舞台に、出していただけますか」
「無理だ」
「っ……」
「なあ、奏。百曲とは言わん。せめて一曲だけでも、父親と同じようにやれんのか。母親だって、歌声じゃ天下に並ぶ者無しといわれた美姫だったのだろう? なんで、その息子がこれなんだ」
「……精進、します……」
「この程度では、到底、喜楽の息子などと名乗れんな」
名乗るもなにも、血を引いているのは事実なのだが……
しかし、座元の言い分も確かだった。
そう触れ込んで、いざ出てきたのが凡人に毛を生やした程度の技前だったとなれば、失望もいいところ。
三味線も、歌声も、演技も、なにひとつ響くものがない。観客の前には出せない、というのが座元の判断だった。
結果を受け入れた奏は、おずおず引き下がってゆく。
舞台裏にまわって、楽屋へと向かった。
そして、足を止める。
戸の向こうから、話し声が漏れ聞こえてきていた。
「あの喜楽様が、馬に轢かれて亡くなるなんて」「息子を庇ったってね」「庇う必要あったのか」「あれじゃ、本当に息子なのか。怪しいものだ」
事件の日から、奏はこうした話を幾度となく耳に挟んできた。
聞くたびに、めげそうになる。
そして、その都度、辛うじて父の笑顔を思い出す。
『楽しいか、奏。もっと上手くなったら、大舞台で一緒に演奏しような』
『うん!』
小さかった頃の自分は、無邪気に答えていた。
今や叶わぬ夢。
いや。
はじめから叶わぬ夢だったのかもしれない。
どれだけ練習しても、父の域に達する日がくるとは思えなかった。
「うぅ……」
堪らず、涙が溢れてくる。
§
父が遺してくれた屋敷で、使用人も雇わず、奏は侘しく暮らしていた。
広い居間で、ひとりきり。
三味線の練習を重ねる。
音を鳴らしていないと、寂しくて死にそうだった。
「……さい」
がむしゃらに、演奏にしがみつく。
「……めんくだ……」
まわりの音が聞こえなくなるくらいに。
「……ごめ……さい」
ふと、奏は手を止めた。
「ごめんください」
来客だ。
どれだけ待たせてしまっていたのだろうか。慌てて玄関に向かう。
待っていたのは、ひとりの少女だった。
「どちら様で」
少女は質素な
白衣に緋袴を合わせた、その姿。
誰もが知る装束だった。
「
「み、巫女様……っ」
奏は面食らった。
奈津奈という少女は、人差し指を唇に当て、まわりを憚るように言う。
「少し、お話をさせていただけないでしょうか」
客人を居間に通し、奏は緊張を隠せず声を振るわせる。
「申し訳ございません。手入れしている部屋はここしかなく、お出しできる茶もなく……」
「お構いなく」
奏は客人から離れたところに座し、頭を低くする。
すると、奈津奈の方から寄ってきて、すぐそばに座り直してきた。
「顔をお上げになってください」
「ですが……」
訳も分からず、奏はひたすらに平伏していた。
なぜ、天上の人である巫女が、このような侘しい家を訪れたのか。
心当たりが見つからなかった。
「私は、あなたに謝罪をしに参ったのです。頭を下げるべきは私の方です」
彼女が低頭したと分かり、奏はしどろもどろになる。
「ま、待ってください。何のことでしょう……」
つい、顔を上げて話していた。
それを咎めることなく、奈津奈は奏と向き合い、切り出す。
「あなたのお父上を死なせてしまったこと……侘びてどうにかなる問題ではありませんが、大変、申し訳ありませんでした」
言って、奈津奈は再び深々と頭を下げた。
「いや……馬に乗っていたのはあなたじゃ……」
「はい。本人がこの場に来ないこと、申し開きのしようもございません。ですが、身内に代わって、せめて謝罪をさせていただきたく参りました」
「身内?」
奈津奈は、今にも泣き出しそうなほどに表情を歪めて話す。
「……事故を起こしたのは、私の兄です」
「はい……父を轢いたのは、天上家の方だと……知り及んでいます」
だから、どうしようもない。
「この事故は、誰も責めを負わない……」
奏は、そう心得ている。
巫女という存在を責めるなど、誰にもできない。
存在の価値が、巫女と、それ以外とで、決定的に異なるからだ。
万条喜楽――神とまで謳われた天才をしても、巫女の天才性には大きく劣る。
降霊術。
俗に、口寄せとも呼ばれる。
端的にいえば、それが巫女の持つ才能だ。
口寄せによって、あらゆる人間の霊をその身に降ろすことができる。
生き
死に
降霊させることで、その人間が持つ記憶や心の内までをも覗き見る。
古今東西。何を知るのも、自由自在。
そして、降ろすのは人のみならず。ときに神託を得る力は、さながら未来予知だ。
文字通りの
「だから……」
納得するしかない。奏は父の死を呑み込むしかなかった。
なお、巫女とは、文字通り女のこと。つまり奈津奈の兄は男であるからして、厳密には巫女ではない。
が、血族だ。
一族の男が娘を作れば、その子が巫女の力を発現させるという可能性を残す。ゆえに、やはり現人神に連なる者としての地位があった。
奏には否定のしようがない。
なのに――
「どうして、巫女様が頭を……」
この少女が、何のために、こんなことをしに来たのか。
奏には分からなかった。
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