空ノ鈴

なまくさ

空ノ鈴(カラノスズ)本編

 2018年10月


 *


 昔からの夢だった看護師になって早半年。ようやく看護師の職務に慣れてきたという実感を胸中に抱きながら、恭花きょうかはいつも通り下膳車を引いて病室を回っていた。


(ん……次はあそこね)


 通路の一番奥にある一室を見やる。個室が多いためか、夕飯時で賑々しい病棟の中でもこの通りだけは静けさに包まれていた。


花凪かなぎさーん、失礼しますね~」


 一番奥の病室まで辿り着き、声を掛けて中に入って行く。


「あ、香崎こうさきさん……」


 ベッドの上で胡坐を掻いているその女性は、恭花の姿を認めると少しだけ目を逸らした。


「もう食事はお済みみたいですので、食器お下げしますね!」


 食器の乗ったトレイをいったん床頭台に置き、ベッドテーブルを拭き上げる。


「あ、ありがとう」


「はーい。……あ、そうだ。今夜は冷え込むみたいですから、あったかくして寝てくださいね」


「そうなんだ、わかったよ」


 花凪は素直に返事をして上着を着始めた。……が、豊満な身体故かボタンを付けるのに手間取っている。どうやら胸に隠れてボタンが見えないらしい。


「……ちっ、くそっ」


「あ、あのー、手伝いましょうか?」


「えっ? あ、だ、大丈夫だから……」


 恭花の手を煩わせることを遠慮しているのか体を触られたくないのか、結局ボタンを留めるのを諦めて、タオルケットを少し膨らんだお腹に抱え込んだ。


「そ、そうですか。えっと、その……し、失礼しますね! お休みなさい~」


 花凪が入院してから既に2週間ほど経過したが、恭花は彼女とどう会話を繋いでいけばいいのか、わからなくなってしまうことが未だにあった。


「はぁ……」


 こっそりと溜め息を吐きながら、病室を出ようとする恭花。しかし。


「あ、あの!」


「? はい?」


 花凪に呼び止められたため、立ち止まって振り返る。


「あの……香崎さんは、どうして看護師になったの?」


「え、それは……」


 唐突な質問に、恭花は再び言葉に窮した。


「ああ、ごめん! 別に君が看護師に向いてないとか思ってるわけじゃないんだ。ただ純粋に、君がどうして前を向くことができたのか、知りたくて……」


「は、はあ……?」


 抽象的な言い回しに疑問符を浮かべる恭花だったが、とりあえず意味を汲み取れた部分だけ勘案することにした。


「私が看護師になった理由……。そうですね……実は私も昔、入院してたことがあったんですよ」


「……うん」


「それでそのとき、病院の方々がすごく親身になってくれて。仕事だから仕方なくっていうのは、ぶっちゃけわかってはいるんです。でも私は、たとえどんな理由があったとしても、人に優しくできる人に――」


「……そうなんですね、わかりました」


 花凪はまだ話している途中だった恭花の言葉を遮った。


「香崎さんなら、いい看護師になれると思います。……お休みなさい」


 そう言うと、花凪はタオルケットを被ってベッドに横になってしまった。


「あ、えっと……お休み、なさい……」


 恭花は小さく挨拶を返し、病室を後にした。


「はぁ……」


 どうやら気分を害させてしまったらしいことは恭花にもわかった。しかし、何が原因なのかは思い返してみてもさっぱりわからない。患者の中には気難しい人も多くいるし、冷たい態度を取られることがあるのは仕方のないことだと理解はしている。まして、彼女はいま……。


 花凪のぽっこりと膨らみつつあるお腹を頭の中に思い浮かべる。そう、花凪は現在妊娠しているのだ。どんな些細なことが彼女とその子供に悪影響を及ぼすことになるか、わからない。


「……はぁぁ」


 理由のわからない失敗ほど気分が沈むことはない。悶々とした気持ちを胸中に抱きながら、恭花は下膳車を引いて配膳室へと戻って行った。



 *



 午前3時前。恭花は準夜勤を終えて寮へと帰って来た。荷物を下ろし、冷えたお茶でも飲もうと冷蔵庫を開く。すると。


「――うぴゃっ!?」


 床と冷蔵庫の隙間から、脚を含めたら手のひらほどの大きさもありそうな蜘蛛が這い出てきた。冷蔵庫のライトに照らし出される蜘蛛と、目があった気がする。


「んもう、最悪っ……」


 確か押し入れの中に殺虫スプレーがあったはず。恭花はじっとしたまま動かない蜘蛛から目を離さずに、じりじりと後退して行った。そして押し入れまで到達するとバッと振り返り、急いで押し入れの中を漁り始める。


「えっとー、どこやったっけ……」


 買い溜めてある箱ティッシュやトイレットペーパーを手前から退け、がさごそと押し入れの中を捜索する。こんなときに備えて殺虫スプレーを買っておいた記憶はあるが、引っ越して来て以来部屋に虫が現われたのは初めてだった。


「ん? これ……」


 ふとある物が目に入り、押し入れを漁る手が止まった。奥の方に埋もれていたそれを手に取る。それは、30センチ四方の箱だった。押し入れを漁っていた目的なんてすっかり頭の中から抜け落ち、恭花は箱の蓋を開いた。


 箱の中にはストラップや手のひら大の置物など、様々な小物が詰め込まれている。実家を出るに当たって思い出の品を嵩張らない程度に持って来たのだった。


「そうだ、これ」


 ごちゃごちゃと溶け合った物品の中心。1つだけ布にくるまれている物があった。それを取り出し、布を解いていく。


 中から現れたのは――彫金の施された白金色の鈴だった。厳密にはガムランボールという物なのかもしれないが、恭花にとって音が鳴る球は鈴でしかない。


 手のひらの上で鈴を転がすと、シャランシャランと涼しげな音色が響いた。


「ふふ、いい音」


 この鈴は、恭花のことを疎んでいた母からの謝罪のしるしだ。これを受け取ったときは『何をいまさら』と腸が煮えくり返りそうになったが、いまとなっては母も、父も、妹も、大事な家族だった。


「――そうだ」


 恭花にとって、大事なこと。何を大事にしてきて、何のために看護師になったのか。実際に看護師になったいま、恭花はその思いを忘れかけてしまっていた。


「……そうだった、思い出したよ……れいくん……」


 この鈴は、恭花にとって大事な“しるし”だ。だけど、大事な“思い出”ではなかった。恭花にとっての大事な思い出とは、いまはもう失われてしまった、空の鈴のことだった。



 *



 押し入れを漁っていた目的を思い出して殺虫スプレーを見つけたときには、既に蜘蛛は姿を眩ませていた。見つけ出して撃退しようかとも考えたが、仕事を終えて疲れた体でそんなことに時間を使う気にはなれなかったため、食事とシャワーを済ませてから、布団を頭まで被り眠りに就いた。


 そのまま一度も目を覚ますことなく昼過ぎに起床すると、恭花は食事と買い出しを済ませて病院へと出勤した。今日も昨日と同様、準夜勤のシフトだった。


 卒なく、とまではいかないが、特にお局のお叱りを受けることもなくいつもの業務をこなしていく。そうして夕方の6時頃。夕食の配膳をする時間が訪れた。


 恭花はそのタイミングで一度ロッカー室に戻った。そしてバッグに仕舞っておいた白金色の鈴をポケットに忍ばせると、配膳室に戻って夕食の配膳作業に取り掛かった。



 *



 大方の病室への配膳作業が終わり、最後に残しておいた病室がある通路を進んで行く。やはりこの通りだけは、夕飯時で賑わう病棟の中でも変わらず静寂を保っていた。


「……花凪さん、失礼します」


 少し声を強張らせつつ、一番奥にある病室に入って行く。


「香崎さん……」


 恭花の入室を認めると、花凪は少し目を伏せた。


「ご夕飯をお持ちしました」


「あ、ありがとう」


 ベッドテーブルの上に夕食の載ったトレイを置く。そして。


「……あの、花凪さん。ちょっとだけ、お話ししてもよろしいですか?」


 ポケットの上から、中にある物をギュッと握り締めて言う。


「は、はい。何……でしょうか」


 花凪が普通に応対してくれたことに少しだけ安心し、恭花はポケットから鈴を取り出した。シャラン、と透き通った音色が病室内に響く。


「それは?」


「この鈴は、私の母……義理の母からの贈り物です。昨日うちに帰ってこの鈴のことを思い出して、ちゃんと考えてみたんです。どうして私は看護師になったのか……。よかったら、聞いてくれませんか?」


 昨日はそれを話して花凪の機嫌を損ねてしまった。もう一度話したところで同じような結果で終わるだけかもしれない。それでも、花凪のお陰で大事なものを思い出せたのは間違いなかった。だから恭花は、たとえ嫌われてしまうことになっても花凪には聞いてもらいたかったのだ。


「……わかりました。香崎さん、聞かせてください」


「――はい! ありがとうございます!」


 花凪が了承してくれたことで気持ちがかなり楽になった。恭花はありのまま、思ったことを伝えることにした。


「昨日も話しましたが、私も昔入院してたことがあるんです。あの頃の私は、生きる気力を失っていました。死にたい……とまではいきませんが、機会を与えられたら死んでもいいと思ってたくらいには、人生を前向きには捉えられずにいました」


「……うん」


「だけど、そんな私を立ち直らせてくれた人がいるんです。鈴くんっていう、男の子なんですけど……よく私に会いに来てくれて、励ましてくれて。その子のお陰で私は気力を取り戻すことができて、リハビリも頑張ることができました」


「私は鈴くんみたいになりたかったから、看護師になりました。理学療法士の方にもお世話になりましたが……きっと鈴くんに心を救われていなかったら、あの頃の私はリハビリなんてしなかったと思います。だから私は鈴くんみたいに、苦しんでいる人に寄り添って、心を救ってあげられる人になりたかったんです」


「……」


 恭花の話したかったことは、とりあえずそれで全てだった。花凪は昨日のように途中で話を遮るようなことはしなかったが、恭花の話を聞き終えるとしばらく黙り込んでいた。


 それでも少しすると顔を上げ、恭花の方へと視線を向けた。昨日は恭花に顔を見せてはくれなかったが、今日は何か答えを返してくれるようだ。花凪の顔は普段の張り詰めたような表情とは違い、どこか飄々とした顔付きに思えた。


「ねえ、香崎さん」


「は、はい」


「その子……鈴くんにいま会うことができるなら、会いたいと思う?」


「え? それは――」


 恭花にとって、鈴は夢の中の住人のような存在だった。恭花が鈴に会ったのは10年以上前のことだし、顔も声も思い出も、既に色褪せて曖昧なものになってしまっていた。……だけど、それでも。


「そうですね。会えるのであれば、会いたいです。あの頃のお礼を言いたいですし、いまの私のことを見てほしいです。あなたのお陰で私はいまも前を向いて生きていけてるって、知ってほしいです」


「そっか。香崎さん、話してくれてありがとう」


「い、いえ。お礼を言うのはむしろ私の方です。花凪さんのお陰で大事なことを思い出せました。ありがとうございます」


 そう言って恭花は頭を下げた。


「……きっと鈴くんも、いまの香崎さんを見たら喜んでくれると思うよ。こんなに人のことを思える、優しい人になったんだから。でも……仕事中にお喋りしちゃう辺り、看護師としてはまだ未熟かもしれないね」


「あ!」


 胸ポケットからナースウォッチを取り出す。かれこれ10分以上この場に留まってしまっていた。


「私、そろそろ行きますね! 話を聞いてくれてありがとうございました! ……あ~っ、またお局に怒られるぅ……」


「あははっ……香崎さん、頑張ってね」


 初めて聞く花凪の笑い声に見送られながら、恭花は病室を出て行った。


 扉が閉まる直前、リン、と鈴の音が聞こえたような気がした。



 *



「――か、返して! 返して!」


 薄暗い部屋の中、少女は叫ぶ。


「うるさい! この鈴もカラカラカラカラ、耳障りなのよ! こんな物……!」


「止めて!」


 女は銀色の鈴を掴んだその手を振り上げた。しかし。


「……」


 視線をダイニングの方へと向けると、振り上げた手を下ろしてそちらに向かって歩き出した。窓の外がピカッと光り、数秒後――ゴロゴロという雷鳴が建物全体を震わせた。


「お母さん、お母さぁん!」


 少女は泣きながら、何度もその言葉を繰り返す。それが眼前の女のことなのか、はたまた少女の思い出の中にのみ生きる誰かのことなのかは、もはや少女自身にもわからなかった。


 女はダイニングのテーブルの横に屈み込むと、少女から奪った鈴をテーブルの脚の横に置いた。そして。


「ぁ……! や、やだぁっ、止めて――」


 手を伸ばす少女の懇願も聞き入れてはもらえず、女はテーブルを持ち上げると、テーブルの脚の底を鈴に向かって打ち付けた。


 ズン、と室内に鈍い音が響き渡る。女はもう一度テーブルを持ち上げ、鈴がまだぺしゃんこになっていないことを確認すると――再びテーブルの脚を鈴に向かって打ち付けた。ドンッ、と建物に振動が行き渡る。


 一度目よりも強い力で打ち付けたため若干狙いが逸れたのか、鈴はテーブルの脚と床の隙間から弾き出され、少女の元にまで飛んで来た。


「――っ、あぁぁっ……!」


 ぐにゃりとひしゃげた鈴を掴み上げる。しかし震える手は鈴の重みすら支えることができず、鈴は少女の手から零れ落ち、カン、と音を立てて床に転がった。


 女は少女の元へと近付いて行き、を拾い上げる。そして、笑う。


「あははっ、中の球はどっか行っちゃったみたいね。これでもうあの不愉快な音を聞かないで済むわ!」


「……」


 眼前には自分に理不尽を振りかざす鬼女。少女は吐息を漏らすことさえ無意識に堪えていた。


「……はい、これ。プレゼントよ。もう二度と、あの音を私に聞かせないで。もう二度と、私にあの女のことを思い出させないで。いい? あの女は――お前の本当の母親は、もう死んだのよ!」


「――っ、うぁぁあっ!!」


 もはや何の意図もなく叫び声を上げると、少女は女から鈴だった物を取り返し、玄関に向かって走り出した。フラフラと壁にぶつかりながら玄関まで辿り着くと、そのまま靴も履かずに外へと躍り出す。


「ひっぐ、ふうぅっ……!」


 泣いてしゃくり上げながらマンションの通路を駆けて行く。家を出ても少女に行く当てなんて当然なかった。それでも、ここにはいたくない。その一心で駆けて行く。


 少女の住む階は4階だ。普段からわざわざエレベーターなど使わないため、少女はいまも無意識のうちに階段を使って下へ降りることを決定した。


「はぁ、っ、はぁあ……!」


 不規則な呼吸と共にピチャピチャと雨水を踏み締める音を響かせながら、全速力で通路を駆け抜ける。そうして通路の行き止まりまで辿り着き、階段の方へと体の向きを変えた少女だったが――。


「ぐはっ……!」


 全力疾走して来たスピードを殺し切ることができず、壁に激突した。側頭部と肩に走る激痛で少女の顔が歪む。そしてほんの一瞬だけ、少女の意識が消失した。


 階段に合わせて低くなっている壁。意識を失って脱力した少女の体は、壁にぶつかってもなお残る勢いのままに、壁の向こう側へと膨れ上がった。


「――!?」


 意識を取り戻し、瞬時に状況を悟った少女は手足をバタつかせる。しかし、もう遅い。少女の体の半分以上は既に中空へと投げ出されていた。そして――。


「~~!」


 少女の全身が、雨で濡れた壁の上をつるりと滑り出た。嵐の中、大量の雨粒と共に少女の体も落ちていく。


「――――」


 もしかしたらこれは夢で、恐ろしい痛みを味わう前に目が覚めるんじゃないか。そんな少女の思いも空しく、ドシャリと鈍い音を立て、少女の体は地面へと叩き付けられた。



 *



「――っ!」


 ビクンと体を跳ねさせ、恭花は目を覚ました。


「はぁっ、はぁっ……」


 震える手を素早く脈動する胸に当て、深呼吸をする。


「はぁー、はぁー……」


 そうしていると、次第に動悸は治まっていく。しばらくして手の震えも収まり完全に平静を取り戻すと、恭花は時計に目を向けた。時刻はまだ昼前だ。今日は休日だしゆっくりご飯でも食べようかと思い、立ち上がろうとする。しかし。


「……っ、またかぁ……」


 恭花の両足はまるで催眠術にでも掛かったかのように、まるで神経の繋がりが断たれてしまったかのように、ピクリとも動かせなかった。最近はめっぽう減っていたが、退院して以降もあの日のことを思い出すとこうなることが多々あった。


「はぁ……」


 こうなるともう恭花の意思ではどうすることもできない。かといってもう一度寝る気分にもなれなかったため、恭花は上体を起こし、動かなくなってしまった自分の脚をマッサージし始めた。



 *



 次の日。この日は準夜勤ではなく通常出勤の日だったため、出勤してすぐに朝食の配膳作業が始まった。いつも通りに配膳車を引いて、病室を巡って行く。そしていつも通り、最後に彼女の病室へとやって来た。


「花凪さーん、失礼しますね~」


 いつもの調子で病室の中に入って行く。すると。


「やぁ、香崎さん。今日は朝からいるんだね。どちらかというと僕は朝方の人間だから、朝からいてくれる方が嬉しいよ」


「え? あ、そうだったんですね~」


 いつもと全く様子の異なる花凪に動揺しつつも、それを悟られないように返事をする。


「最近の僕は気分が沈んでいたけど、香崎さんのお陰で元気が出たよ、ありがとう」


「そ、そうですか? それはよかったです」


 爽やかな笑顔を向けてくる花凪に若干の気味悪ささえ覚えたが、とりあえず朝食の用意をしてやる。


(ていうか『僕』って……僕っ子だったの? この人。確か私よりも3つくらい年上のはずなのに……)


「それじゃあ、失礼しますね」


 さっさと朝食の用意を済ませ、病室を出ようとする恭花。


「あ、待って! 香崎さん、できればでいいんだけど、お昼休みにここに来てくれないかな?」


「お昼休み……? どうしてですか?」


「実は、渡したい物があるんだ。……何かは、実際に渡すまで内緒だよ」


 そう言って楽しそうに笑う花凪。恭花には全然意図が読めなかったが、別に昼休みに予定があるわけでもなかった。


「わかりました。規則上受け取れるかはわかりませんが、お昼休みにまた訪ねますね」


「うん、待ってるよ」


 微笑む花凪に見送られながら、恭花は病室を出て行った。扉が閉まる直前、カラン、と鈴の音が聞こえたような気がした。



 *



 昼過ぎ。休憩時間に入って昼食を摂り終えた恭花は、約束通り花凪の病室へと向かった。患者からの差し入れを受け取ることは禁止されているが、まあバレない物だったら別にいいだろうかなどと恭花は考えていた。


「花凪さん、こんにちは~。失礼しますね~」


 ノックをして声を掛け、病室の引き戸を開ける。


「こんにちは、香崎さん」


 まるで恭花がこの瞬間にやって来ることがわかっていたのではないかというくらい、驚いた様子もなく挨拶を返してくる。


「えーっと、花凪さん。渡したい物があるって話だったと思うんですけど……一応事前にお伝えしておきますが、基本的には患者さんから何か物をいただくことは禁止されているんです。なのでお気持ちはありがたいのですが、あんまり目立つ物は受け取れないというか……」


 菓子折りか何かだった場合、ロッカールームにこっそり持ち帰ることはできない。バレたら怒られるのは間違いないし、もしかしたら減給等の処分を受けることになるかもしれない。それは嫌だと恭花は思った。


「あははっ、『目立つ物は受け取れない』って、目立たない物なら受け取る気があるってことだよね」


 花凪は愉快そうに笑う。


「そ、そりゃまあ、患者さんの気持ち第一、が私のモットーですから?」


 痛いところを突かれて、恭花は口を尖らせた。


「そうなんだ。まあ安心してよ。目立つような物じゃないし、そもそも、僕は君に何かプレゼントをしたいわけじゃないんだ」


「……? でも、何か下さると言っていませんでしたか?」


「僕はただ、君に渡したい物があると言っただけだよ。……厳密には、君に返したい物があるんだ」


「返したい物……?」


 恭花は花凪に何か物を上げたりはしていない。それに花凪はいま、特に何か荷物を用意しているようには見えなかった。


 もしかしたら感謝の気持ちを伝えたいだとか、どこかに手紙を隠し持っていてそれを渡したいだとか、そういったことかもしれないと恭花は想定し始めていた。


「随分と長いこと預かってしまっていたからね。ようやく、これを君に返すことができるよ」


 そう言って入院着のポケットに手を伸ばし、中から何かを取り出す花凪。僅かにカラコロと金属がぶつかるような音が聞こえてきた。そして。


「――はい、これ。12年前に直して返すと約束したけど、君はいなくなってしまったから……いまさらだけど、君に返すよ」


 そう言って恭花の前に差し伸べられた手のひらの上には、銀色の鈴が載せられていた。


「! これ……!」


 それを見た瞬間、恭花の中の古く錆び付いてしまっていた記憶が、頭の中に湧き上がってきた。この鈴は――。


 恭花はゆっくりと鈴に手を伸ばした。それに合わせて花凪も恭花に向かって手のひらを傾ける。すると鈴は傾斜の付いた手のひらの上を転がり、カラカラと乾いた音色を奏でた。


「――っ!」


「! 香崎さん!?」


 ガクンと脚から力が抜け、ドスンと床に尻餅を搗く恭花。鈴は花凪の手のひらから取り落とされ、カランと音を立てて床に転がった。


「……な、なんでそれを、持ってるんですか……?」


 声を震わせながら頭を抱える恭花。


「や、やっぱり気付いてなかったんだね。実は、僕が――」


「そんなことはいいんです! どうして、どうしていまさら……」


 頭の中に湧き上がってくる、古く錆び付いてしまっていた記憶。恭花が必死に忘れようとしていた、本当の母親の顔が、声が、思い出が、頭の中で色を取り戻していく。


「お母、さん……お母さんっ……!」



 *



『えー! こんなのでいいのぉ? せっかくのプレゼントなんだから、もっと可愛い物買って上げるのにー』


「……」


『ふっふっふ、実はお母さんも同じ物買っちゃいましたー! ふふ、これでお揃いね! ……え、ちょっ、なんで泣くのよ! お母さんとお揃いじゃ嫌なのー!?』


「……」


『え、なくしちゃったの!? ……うーん、場所もわからないのかぁ。でもまあ、とりあえず探しに行こ! 大丈夫、きっと見つかるわよ!』


「……」


『うーん、ここにもないわねぇ……そろそろ夜ご飯の時間だし、今日はもうお家に帰ろっか。……え、嘘吐き? ……ごめんね、明日もまた探しに来ようね』


「……」


『――ダメよ! きっと見つかる、なんてテキトーなことを言ったのは悪いと思ってる。けど、これはお母さんの物なんだから! 大事な物だったんなら、なくさないように気を付けなかったことを反省しなさい!』


「…………」


『恭花……恭花、意地張って、ごめん、ね……お母さんの、鈴、恭花に、上げるから……。今度はなくさないように、大事に、してね――』


「……っ」


『お母さん! お母さん! うぐっ、お母っ、さん……!』


「――っ、お母さ……ん?」


 気付けば恭花は、自身のロッカーの前に1人突っ立っていた。まるでいつの間にか寝落ちてしまっていたときのように、自分がいままで何をしていたのか思い出せなかった。


 自身の格好を見てみると、既にナース服から私服に着替え終わっている。壁に掛けられた時計を見ると、時刻は午後5時半。もう退勤の時間だ。


「……あっ、やっべ……!」


 思い出した。どうしてこんな時間になるまで忘れていたのか。恭花は急いで荷物を纏めると、ロッカールームを飛び出した。



 *



「――花凪さん、失礼します!」


 適当にノックをして、病室の中に飛び込む恭花。


「花凪さん、本当にごめんなさい! 昼休みに来るって約束してたのに、私うっかり……」


 少し息を上げながら謝罪をする恭花に、花凪は笑って言う。


「香崎さん、大丈夫だよ。別に急ぐ理由もないからね」


 特段腹を立てている様子もない花凪を見て、恭花は胸を撫で下ろした。


「そ、それで……私に渡したい物って、何でしょうか。一応事前にお伝えしておきますが、基本的には――」


「うん、わかってる。別に菓子折りとか受け取れないような物じゃないから、安心してよ」


「そ、そうですか……?」


 まるで心の中を覗き見られているかのように、先にこちらの思惑に答を示される。そんな心地に、恭花は覚えがあった。


「うん。僕はただ、君に返したい物があるだけなんだ」


「返したい物?」


「そう。……だけど、先に謝っておかないといけないことがある」


「? 何でしょうか?」


「12年前、君から預かったそれを直して返すと約束したけど……ごめんね、僕じゃ治すことができなかったよ」


「12年前?」


 恭花は花凪が何を言っているのか理解できなかった。12年も前に花凪に会ったことなどない。まして、何かを預けたことなど――。


 訝しむ恭花を他所に、花凪は入院着のポケットに手を伸ばし、中から何かを取り出した。そして恭花の前に手のひらを差し伸べる。そこには、ぐにゃりとひしゃげた銀色の鈴が載せられていた。


「! これ……!」


 それを見た瞬間、恭花の中の色褪せてしまっていた思い出が、鮮明に色付いていった。この鈴は――。


 恭花はゆっくりと鈴に手を伸ばし、花凪からそれを受け取った。その過程でいくら揺られても、鈴は音色を奏でたりはしない。……当然だ。この鈴の中には、球が入っていないのだから。これはただの、鈴だった物なのだから。


「香崎さん、目を瞑ってくれる?」


「……はい」


 素直に従う恭花。そして。


 目を瞑ったまま、鈴だった物を掴んでいる手を軽く揺らす。すると。


 ――リン、と玲瓏な音色が手のひらの中の鈴から響き渡った。潰れてしまった鈴だった物が、こうして言われた通りに目を瞑って揺らしたときにだけ、空の鈴となって生き生きとした音色を奏でるのだ。


 何度も聞いたその音色だが、恭花にはその手品の仕掛けが未だにわからなかった。その仕掛けを知っているのは、あの子だけ。既に色褪せてしまっていた大事な思い出の中の、あの子だけだ。


「……」


 幾度か手を揺らして鈴の音色を楽しむと、恭花は目を開いた。その目に映るのは、艶のある黒髪を靡かせ、豊満な身体を入院着で包み込んだ女性。真っ黒な瞳で、恭花のことをじっと見据えていた。


「鈴、くん……」


 恭花がそう呟くと、花凪は微笑みを湛えながら口を開いた。


「……久しぶりだね、恭花ちゃん。まさかこんな形で再開することになるなんて、思わなかったよ」


 そう言って両手をベッドに突くと、花凪は天井を仰ぎ見た。


「それはこっちのセリフ。まさか鈴くんが女の子だったなんて。……しかも何よ、そんな体つきになっちゃって」


 溢れんばかりの胸に、少し膨らんだお腹。それを入院着がパツパツになりながらなんとか抑え付けていた。


「ぼ、僕だってなりたくてこうなったわけじゃない。僕にはどうすることもできないんだよ……」


 そう言って歯噛みする花凪。羨みと少しの妬みを込めて言った恭花だったが、花凪が思いの外不快感を表したため、話題を変えることにした。


「て、ていうか、れ……花凪さん、ごめんなさい。花凪さんは患者さんなのに、看護師の私がため口で話すなんて……。懐かしくて、つい調子に乗ってしまいました」


 恭花は頭を下げた。


「いや、気にしないでいいよ。むしろ僕もそっちの方が話しやすいから、昔みたいにしててほしいかな」


「ですが……」


「患者さんの気持ち第一、が君のモットーなんじゃなかったのかい? 僕は患者なんだから、これくらいのお願い、聞いてくれてもいいんじゃないかなぁ」


「はあ……確かにそう言いましたけど」


『そ、そりゃまぁ、患者さんの気持ち第一、が私のモットーですから?』


「……あれ?」


 確かにそんなことを言ったような気がする。しかし、いったいいつそんな会話をしたのか、恭花はなぜだか思い出せなかった。


「……まあ無理にとは言わないよ。でもせめて、勤務時間外くらいは普通にしててほしいなぁ。仕事中じゃなかったら、別に責任とかないでしょ?」


「いや、ありますけど……」


 守秘義務やらなにやら、当然いろいろと制約はある。……だけど。


「……わかったわよ、仕事中じゃないときは昔みたいに接する。それでいいでしょ? 鈴くん……いや、鈴ちゃん?」


「別に鈴って名乗ったのに深い理由はないんだけど……君が呼びたいように呼んでくれればいいよ」


「そう、それならやっぱり鈴くんね。もう花凪さんが一番しっくり来るけど……私が鈴くんって呼びたいからそうさせてもらうわ」


「はは、わかった、それでいいよ。……これからもよろしくね、恭花ちゃん」


「ええ、こちらこそ。……鈴くん、今度は私が、鈴くんを支えて上げるから」

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