07 偽りの中にある本物
加術士としての知識は苦ではなく身についたのに、興味のないことはここまで覚えられないものなのか。
加術士としての役目はもちろん、その合間を縫って春咏は慶雲から後宮について容赦ない詰め込みが行われた。しかし彼も乾廉の側近としての役割を担ってのことなので、迷惑をかけるわけにはいかない。
いよいよ、春咏が華楼宮に輿入れする日となった。
王都北西部に位置し、市中よりはずれたある屋敷で、内密に春咏の支度を進めていた。
瑚家が昔懇意にしていた貴族の館で、今は一族共々王都を出て移り住んでいる。そこで慶雲は、春咏に用意した衣装を着せ、化粧を施し髪を結っていた。
旗袍は乾廉が指定したとおり青地で、金糸を使い龍と蓮の刺繍があしらわれている。頭には金と珊瑚が使われている髪飾りがあてがわれた。
「手慣れているんですね」
鏡の前で女としてできあがる自分を春咏は複雑な面持ちで見つめながら、慶雲に声をかける。
衣装を用意するだけならまだしも、慶雲自身がここまで異性の髪や化粧までできるのは意外だった。
「母と姉たちが化粧師をしていたので」
端的な回答に意識が向き、つい振り返りそうになる。それを慶雲に両方のこめかみを押さえられ、すんでのところで前に固定されて阻まれた。
「華楼宮に出入りして、幼い私も助手としてついていっていました。この技はそのときに習得したものです」
だから後宮の事情やしきたりにも詳しかったのかと合点がいく。
「お母さまたちは今も?」
ごく自然な流れで聞くと、急に慶雲は押し黙った。個人的なことを話したくないのか。不思議に思い鏡越しに彼を見つめた。
「賊徒に押し入られ、残念ながら……」
ぽつりと呟かれた内容は、なかなか衝撃的なものだった。
「家族を失い途方に暮れていたところ、乾廉さまに声をかけていただいたんです。憐れみかもしれませんが、本来俺のような人間が彼の侍従になどなれません。あの方には返しても返せないほどの恩がある」
そこで慶雲は手を止め、鏡に映る春咏と目を合わせた。
「だから、乾廉さまに害をなす者は許さないし、彼が呪われているなどの不名誉はなんとかしたいのです」
覚悟の滲んだ物言いだった。そこで春咏は、着替えを迫られたときのことを思い出す。野盗に襲われ、そのときの傷を見せたくないと告げたら、慶雲はあっさりと引き下がった。同情を覚えたのか、彼もつらい過去があるらしい。
「今までの非礼はお詫びします。あなたを信じましょう。ですから、どうか乾廉さまのために」
「だめですよ、慶雲さま」
慶雲の言葉を遮り、春咏はきっぱりと告げた。続けて首を動かし、うしろにいる慶雲を直接見遣る。
「そんな簡単に信じては。これからも私を含め、乾廉さまに近づく者には変わらず目を光らせていてください」
虚を衝かれた慶雲は、ややあって眉をひそめため息をついた。
「言われなくても当然です。それにしても、あなたは変わった加術士ですね」
「まぁ、女装して後宮に乗り込むわけですから。それから私に対して、無理に敬語はいりませんよ。一人称も素のままでどうぞ」
先ほど彼は過去を語る中で自分を俺と言っていた。呆気にとられる慶雲をよそに、春咏は首だけではなく、体ごとくるりと振り返った。
余裕たっぷりの笑みを浮かべている春咏に、慶雲は妙な取り繕いが馬鹿らしく感じる。
「根回しはしておいた。くれぐれも正体がばれないように」
「御意」
春咏が答えたのとほぼ同時に扉の向こうから声がかかる。慶雲が返事をして入ってきたのは和銅だった。
「これは、これは……いやはや、慶雲殿好みに仕上がりましたねー。」
「和銅! ふざけるも大概にしろ!」
早速茶々を入れる和銅に反射的に慶雲が噛みつく。しかし春咏は和銅に続いて現れたもうひとりの人物に釘付けになった。
「乾廉さま」
ここに来るのは慶雲と和銅だけと聞いていたので、乾廉の登場に驚きが隠せない。それは慶雲も同じらしい。
「いえね。私だけが迎えに上がると申したのですが、乾廉さまご自身も向かわれると強く主張されまして……」
この状況を和銅が簡単に説明する一方で乾廉は微笑んだ。
「自分の加術士の様子を見に来てなにが悪い?」
その言葉で春咏は背筋を正す。この姿で果たして乾廉のお眼鏡にかなっているのか。慶雲も緊張した面持ちになる。
乾廉はゆっくりと春咏に近づき、続けて彼女の頤に手を掛け、そっと親指で唇をなぞった。乾いた指の感触に春咏の心臓が跳ねる。
「この紅は少し派手すぎる」
赤々と塗られた紅が乾廉の手によって落ちた。どうすればいいのか戸惑う春咏をよそに、慶雲が口を挟む。
「お言葉ですが、紅の色は女性らしさを表すためにも」
「かまわない。歓咏にはこれくらいの色でちょうどいい」
慶雲の立場からそれ以上、言えることはない。
「まぁまぁ。心配しなくても十分、女性に見えますよ。むしろ男性だと言われた方が信じられないでしょうね」
和銅が場を収めるように感想を述べた。しかし春咏としては、素直に受け取るわけにはいかない。
「私は男であり、加術士です」
乱れる心を悟られないよう吐き捨てる。ここで余計な疑いをもたれるわけにはいかない。
「もちろん、わかっていますよ。歓咏殿には不本意な真似をさせているのも。ですが、これもすべては乾廉さまのため」
落ち着いた和銅の声で、春咏は改めて乾廉を見る。その顔はどこか切なく、つらそうに歪んでいた。
「お前には無理を言っているし、させている自覚はある。その代わり、お前のことは俺が必ず守ると約束しよう」
「私より乾廉さまです。どこの世界に主に守られる加術士がおりますか。私がそばにいない間、くれぐれもお気をつけください」
乾廉の言葉をはね除け、春咏は言い返す。自分は守られるような立場でも存在でもない。
即座に返されたのが意外だったのか、乾廉は目を丸くしたあと、口角を上げた。
「だったら毎日会いに行くまでだな」
春咏はわざとらしく肩を落とす。こちらの言い分をどこまで理解しているのか。
「ちなみに名前はどうする?」
問いかけたのは慶雲だ。すぐさま和銅が、ああ!と手を打った。
「そうですね。
歓咏は男性名だ。そうではなくても乾廉の専従加術士と同じ名を名乗るわけにはいかない。
「鈴咏、華咏……」
「あ、いいんじゃないですか?」
適当に候補を挙げる慶雲に和銅が賛同する。しょせんは仮の名前だ。春咏としては興味なくやり過ごす。
「春咏」
しかし、突然自分の本名が紡がれ、呼吸が止まりそうになる。発したのは慶雲ではなかった。
「今の季節にもよく合っている。春咏はどうだ?」
乾廉に尋ねられ、春咏はなにも言えない。まさか本名を挙げられるとは思ってもみなかった。
複雑極まりないが、下手に拒否して違和感を抱かせても困る。慶雲も和銅も乾廉の出した案を否定するわけがなかった。
「では歓咏、お前をしばらくは春咏と呼ぶ」
「……御意」
誰かに自分の名前を呼ばれるのはいつぶりだろうか。
感傷に浸りそうになったが、慌てて振り払う。春咏は死んだのだ。あくまでもこれは加術士としての任を果たすためだけの捨て名にすぎない。
『春咏』
けれどどういうわけか、ただの記号でしかない名前を乾廉が口にすると、胸の奥に閉じ込めているなにかがあふれだしそうで怖くなった。
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