第9話 最初の一手
「ぎゃあっ⁉」
奥歯を骨に当て、犬歯を勢いよく肌に食い込ませると、人魚の身体が驚きに仰け反った。
人魚はすぐさま手を離すと、それでも食らいついて離さないフキをどうにかして振り払おうと、ぶんぶんと腕を振る。その勢いで、フキは海底へと叩きつけられた。
「ぐ、うっ!」
「人間如きが、あたしの肌に、傷を……!」
歯型のついた人魚の肌から血が一筋、流れて消えていく。それを見たシオメは身体をわなわなと震わせると、地面に転がって咳き込んでいるフキに掴みかかった。
「お前っ! よくも、よくも人間の分際で!」
「――っ!」
「ああわかったわよ。お前は、存分にいたぶって殺してやる! お前が死を願うまで、徹底的に!」
腕が振り上げられる。それでも、フキが目を逸らすことはなかった。鬼のような形相の人魚を前に、身体を震わせながら、死への恐怖に涙で目の前を霞ませながら睨みつける。
負けてやるもんか。
最後まで、目を逸らすもんか。
痩せた身体はその気持ちだけで動いていた。
「負けるっ、もんか……!」
いきなりのことだった。
突然、ふたりの間をすさまじい勢いの海流が抜け、睨みあっていたフキと人魚を引き離す。
流れに煽られてフキは後ろに転がり、人魚はフキから弾かれるようにしてひっくり返った。
「な、なんなんだい、一体!?」
状況が理解できていないらしい人魚が目を白黒させながら叫ぶ。理解できていないのはフキも同じだった。ただ、仰向けに転がったおかげでフキは何が起きたかを人魚より一瞬だけ早く理解する。
「――――ワタツミ、様?」
姿が変わっていても、確信する。
フキの目の前には龍がいた。
青緑の鱗の巨大な龍が、まるでフキを庇うかのように前で人魚を睨みつけていた。
龍は海底を震わせるような声で、威圧的に言う。
「――よくも、俺の好いた女を泣かせたな」
黄金の目がぎょろりと人魚を見下ろすと人魚は震えあがって慌て始める。ばたばたと尾が暴れ、そこらに砂をまき散らした。
「そ、そんな、あたしの、あたしの呪いは!?」
「ああ、あれか? あれならお前が痛がっている間に――」
壊れた御殿のから少し離れたところに、炭の残骸のようなものが転がっていた。それを見た瞬間、人魚は一目散に龍からの逃走を
龍は尾でぐるりと人魚を囲み、逃がさないようにしてからフキに問いかける。
「食うか?」
「えっ?」
「ここでこいつを食ってしまおうか。なぁフキ」
「え、いやっ、やりすぎじゃないですか!?」
「だが、お前を泣かせた。理由はそれで十分だろう」
「……やめてくださいよ」
そんなことをしている場合ではないとわかっていても顔が赤くなってしまう。龍の胴に手をつきながら起き上がり、ガタガタと震える人魚を前に、フキはどうしたものかと首をひねる。
食べるのはやりすぎだ。けれど、かといってワタツミにここまで危害を加えようとしてきた相手を野放しというのも納得できない。
そのときだった。
「あ」
「どうした?」
「いや、これがあったと思いまして」
思い出した、とフキは着物の袂に手を突っ込み、二つ折りにされた紙を引っ張り出す。開けば「妖封印」と書かれた文字が飛び込んできて、そう言えば神主に自分で取って来た魚や貝を渡してこんなの頼んでいたな、と懐かしさが蘇って来た。
そう言えばこれ、効くんだろうか。
好奇心旺盛な神と一緒にいたからだろうか。ふと、フキはそんな好奇心に駆られた。
「た、助けとくれよ。こんなことするつもりじゃなかったんだ。な、なっ?」
フキは龍の前足に乗って懇願してくる人魚を見下ろすと腕を振りかぶり、その顔面に容赦なく札を叩きつけた。
「去れっ! このあやかしめ!」
口が懐かしさを覚えた、その途端。眩い光が札を中心にして発生し、あっという間に光は人魚を飲み込んだ。
目も開けられないほどのその光は人魚の叫びをも飲み込みながら徐々に縮小し、そして光がなくなった後には札が貼られた紫の玉が残った。
効果があったことに驚きつつ、フキはそれを持ちあげると、どこか不服そうな龍の尾の先端部にそれを置いた。
「これでどうでしょう」
「……ふむ」
ワタツミは尾のうえでしばらくころころと玉を転がしていたが、途中ぽんぽんと玉を跳ねさせたかと思うと、そのまま勢いをつけて海の彼方へと吹っ飛ばした。
「よし、これで俺は気が済んだ」
玉が地平線へと飲み込まれたのを見届けたあと、人型へと戻ったワタツミは、何か言われる前に片手でひょいとフキを担ぎ上げる。
「さて、帰るぞ、フキ。怪我の手当てだ」
「じ、自分で歩けます!」
「俺が嫌だ」
抱えられる恥ずかしさにフキはじたばたと暴れたが、それはかえってワタツミからの拘束を強くする結果に終わる。
静かになってこれまでのことが思い出されてきたせいか急に気恥ずかしくなってきて、フキは火照った顔にぱたぱたと風を送りながら、ワタツミから目を逸らす。前は気にならなかった体温が、声の近さが、気になって仕方がなかった。
沈黙が気まずくて、口は勝手に思ったことを話し出す。
「に、人魚が言っていたんですけどね。呪いを鎮めるには愛した者の心臓の血が必要だっていうの、本当ですか?」
「……ああ、まあな。愛したものの心臓の血には、呪いを解く効力がある」
感心する。あの人魚、嘘は一応ついていなかったらしい。
本当のことを言うとは思えない人魚の意地悪顔を思い浮かべながらフキがひとり納得していると、ワタツミは空いた方の手を顎に添えて、どこか悪戯っぽい表情でこう言った。
「ならフキ、これは知ってるか?」
「? なんです?」
「神にとって愛するものの口づけは、どんな妙薬にも勝る薬となる」
「くっ……⁉」
「――試してみるか?」
「はい」も「いいえ」も答える前にワタツミの顔がフキに近づく。柔らかな髪が頬にかかり、鼻先がぶつかってしまうほどの近さに端正な顔が迫る。
心臓が暴れ出す。待ったをかけようとした手は、ワタツミの手に柔らかく絡めとられた。
仕上げに、熱のこもった金の目に見据えられてしまうともう何もできず、フキはぎゅっとその場で目をつむる。
額に、一瞬だけ柔らかな感触があって、離れていく。
目を開ければ、どこか申し訳なさそうにする神の顔。
「悪いな。急ぎ過ぎた」
「あ……」
「――まあ、これからも試す機会はあるだろうしな! そのときに、じっくり堪能させてもらうとしよう」
我慢させている、と気づく。
ワタツミの咳払いはわざとらしく、逸らす視線はどこか気まずげで、色白な顔はほんのりと赤かった。
我慢しているのだ。たかが、小娘のために。歩幅を合わせようとしているのだ。
それがわかってしまうともう駄目だった。愛おしさが溢れて、しょうがなくなった。自分よりもずっと大柄な神のことが、可愛くて仕方がない。
気がつけば、フキはワタツミの細工物のように美しい顔を自分の元へと引き寄せていた。そして、勢いのまま形のいい唇に己のものを重ねる。
永遠かと思った。
けれど、実際は一瞬のことだった。
「……どう、でしょうか。効果、ありましたか?」
ここまでやった後だというのに、猛烈な恥ずかしさが襲ってきて、まともに顔を見ることできない。
フキは顔を伏せたまま、驚きに固まってしまった神の返答を待つ。そしてその後、ワタツミがその場に顔を真っ赤にしてひっくり返るというわかりやすい返事をすると、ひかえめな少女の笑い声が上がる。
より色鮮やかになったサンゴの間を魚がゆっくりと、しかし決してふたりの邪魔にならないように通り抜けていった。
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