吸血鬼、人間に堕ちていく

佐熊カズサ

吸血鬼、人間に堕ちていく

 世界がまどろみ始めた午後10時、私は住宅街のはずれにひっそりと佇むバンガローを訪ねた。ここ数ヶ月、土曜日の夜はここに立ち寄ることが習慣になっていた。


 モスグリーンのドアの横についたベルを鳴らしてしばらく待っていると、ネイビーのパジャマ姿の家主がドアを開けた。


 暖かなオレンジの光を背負い、肩にかかる少し癖のあるアッシュブロンドの髪の少女が優しく微笑んだ。


「いらっしゃい、待ってたよ」


 私は水科マミに招かれて家の中に入った。


 マミは玄関に鍵をかけ、ねえ、と私に声をかけた。振り返ると、両手をそっと握られた。赤い眼の中で開いた瞳孔がギラギラと熱っぽく煌めいている。

 

「早速……いいかな?」

 

「だめだよ」私はマミの胸元を押し返して制止した。「情緒が無いじゃない。もっと雰囲気を重んじて……ね」


 マミは手を引いてメインルームに入り、私をカウチに連れて行った。照明の代わりに、ローテーブルの片隅に置かれたテーブルランプの淡いオレンジが私たちを照らす。隣り合って座り、彼女はカウチの上に置いた私の手をそっと握った。その手は少し汗ばみ震えていた。


 奇妙なシンパシーで、私たちは同じタイミングでお互いを見た。すっと通った鼻筋が彼女自身の顔に影を落として、その表情は想像で補うほかない。お互いの目の中に自分たちしかいないことを確認した。


 マミの手が髪に差し込まれて私の頭を支えながら、ブラウスのボタンがゆっくりと解かれていく。耳に髪をかけるその仕草に、ゆっくりと近づいて耳元にかかる熱い息に、どくん、と心臓が強く打った。


「……っ」


 首筋に牙の鋭い先端を当てがわれ、ぞわりと肌が粟立つ。


「力抜いて。それじゃあうまく入れられないよ」


 首元でもごもごとマミが話す。そんなこと言われても、と少し困惑したが、深呼吸を繰り返してどうにか力を抜いた。


「ん……いい子」


 マミは落ち着かせるように優しく私の背を撫でながら、牙をゆっくりと皮膚に刺し込んでいく。


「あぁ……っ……んうぅ……」


 不意に妙な声が漏れて、慌てて口を引き結ぶ。皮膚を貫いているのに不思議と痛みはなく、代わりにぞくぞくと背筋に甘い電流が走って力が抜けていく。崩れてしまいそうで、必死にマミの背中にしがみついた。柔らかいコットンがめちゃくちゃな皺を作る。


 刺し込んだ牙がゆっくりと抜かれる。刺される時とは別ベクトルの快感が体中をびりびりとしびれさせ、私は思わず息を詰めて仰け反った。じゅわりと涙が薄くにじんで視界が悪くなる。


 マミは小さくふふ、と笑みを漏らした。その様子に恥ずかしさと苛立ちを覚えて何か言ってやろうと口を開いたが、牙をすべて抜き終えたマミが間髪入れずに自らが開けた穴に吸い付いたせいで、私の言葉はただの熱い溜め息となって霧散した。


 じゅる、と音を立てながらどくどくとあふれ出ていく私の血液をマミは吸い尽くしていく。


「はっ……お、音を立てて……食事するのはマナー違反……じゃない?」


 私は息の継ぎ目をこじ開けてどうにか揶揄うような言葉を紡ぐ。血液が少なくなってくらくらする。


「だって、君の血……すごくおいしくて……」言いながらもマミは吸血を止めない。興奮しているのか、熱く乱れた呼吸が耳元をかすめる。「それに……ここには私たちしかいないのに、誰のためにマナーなんて守らなきゃいけない?」


 乱れた息から伝わる激しい焦燥に、キュンときて笑いが込み上げてくる。


「あはっ……今の君……あぁ……必死ですごくかわいい……」


 かわいいよ、と私は繰り返した。マミは何も言わない。恐らく夢中になっているせいで声が届いていないのだ。私は柔らかいアッシュブロンドの髪につつまれた頭をそっと撫でた。


 かわいい吸血鬼、どうか私のもとまで堕ちてきて。


 * * *


「お待たせ」


 テーブルの上に、マミの手料理の載った皿が置かれる。香ばしいような刺激的な香りが食欲を刺激する。グレイビーソースのかかったローストビーフ。


 マミは私の血を楽しんだ後、必ず手作りしたローストビーフを食べさせてくれた。


 大量に血液を吸われたせいで、精神的な多幸感とは裏腹に身体は重く気怠い。フォークを手に取り、右端の肉に刺して口に入れた。柔らかくて弾力があり、噛むたびに汁が溢れ出してくる。


「ん、美味しい」


「よかった」正面に座ったマミが言った。


 彼女の前には湯気の立つマグカップだけが置かれている。フォークもローストビーフもない。血を吸った後はコーヒーを飲むのが彼女の習慣であり、一種の儀式になっていた。


「たくさん食べて、いい血液を作ってね」


 期待のこもった声でニコリと笑うマミに、なんともいえない複雑な気分になる。それでも食べる手は止めない。生命は無駄にできないし、これから私の身体は血液を作らなければいけないのだ。


 彼女は私の血液を飲み、私は彼女の作ったローストビーフを食べる。


 私たちの関係は非常に相補的、自らの欲望に忠実、どこまでいっても利己的だ。

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吸血鬼、人間に堕ちていく 佐熊カズサ @cloudy00

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