第4章 意富加牟豆美(オオカムヅミ)を投げ

     1


 事務所に押し入った雅鵡良まさむら白竜胆しろりんどう会総裁を殴った。

 雅鵡良が伊舞とたばかって俺を息子として迎え入れようとしていると聞いた。

 白竜胆会の幹部・有珠穂うすほさんが知り得る情報を教えてくれた。

 やはり祖父じいさんだった。

 15時。

 有珠穂さんが帰ったあとすぐに祖父さんに連絡した。

 家に来ていいと言われた。

 タクシーで移動した。

 家政婦の手束テヅカさんが出迎えてくれた。

 祖父さんは、畳敷きの客間の定位置に座っていた。

 室内は適温。

「座りなさい」祖父さんは静かに言った。

「全部話してくれますね?」正面に座った。

 手束さんが冷たい麦茶と梅ゼリーを持ってきてくれた。

 手束さんが部屋を出て行ってから、祖父さんが口を開いた。「時寧ときねやお前を巻き込みたくなかったんだ」

「そう言うんなら、もっと早くに止めてください。俺がみふぎさんと関わった段階で」

「まさかこうなるなんて思っとらんかったんだ」

 祖父さんは自分から話す気はなさそうだった。

 ならばこちらから振るまで。

「次代の巫女ってのは、祖父さんが言い出したんですか?」

「本当に羅亜波らあはは消えとらんのか?」祖父さんが悲痛そうに言う。「羅亜波がいなくなったら、源永が継がねばならんのだ。それは何としても避けねばならん。そのために儂は」

「有珠穂さんを犠牲にするつもりだったんですね?」

 祖父さんと眼が合った。

 眼の奥に湛えているものに焦点が合った気がした。

 羅亜波というのは水封儀さんの本名だろうか。

 生前には聞けなかった。

 聞く間もなくあの人は、すべてを背負って消えてしまった。

 水封儀さんのその覚悟ごと否定されたようで気分が悪くなった。

「源永を守るためならなんでもするさ」祖父さんがガサガサの声で言う。「もちろん、お前を守るためにもな」

「守るってなんですか? 黒に関わらないようにするってことですか? それならもう遅いって言ってるんです。俺はもう当事者です。みふぎさんのことも、みふぎさんの子どものことも、時寧さんのことも、全部知ってます。だから教えてください。まだ俺が知らないことが、俺に黙ってることがあるんじゃないですか?」

 気づいたらテーブルに両手を付いて前のめりになっていた。

 祖父さんは動かない。

 視線はすっと外された。

「祖父さん!」

「知らなくていい。頼む。これ以上踏み込まんでくれ」祖父さんが祈るように言う。「お前まで消えられたら儂は」

「俺は消えません。眼だっていまは」

「見えとった時期もあるんだろ? 無闇に汚染させんでくれ。汚染が全身に拡がればお前だって時寧のように」

「だから、消えないって言ってるんです。みふぎさんがいまもあの屋敷で黒を祓ってくれてるんですから」

「本当にいるんだな?」

「祖父さんは見えてるんでしょう? 見に来ればいいじゃないですか。なんでそんなに次代のことを気にしてるんですか?」

 祖父さんのところに来る前に水封儀さんにも確認した。

 ――それは、私は知らんな。

 まったくの見当違いだと吐き捨てるように、水封儀さんは言った。

 なのであり得ない。

 次代は必要ない。

 これから未来永劫、水封儀さんが黒を祓っていくんだから。

 未来永劫?

 存在が消えても尚?

 黒を、祓い続けなければならないのか?

 そんな。

 そんな果てのない重責をたった一人、水封儀さんだけに押し付けていいのか?

「わかったか?」祖父さんが落ち着いたトーンで言う。「次代は必要なんだ。あの子を黒から解放してやらねばならん」

「でも、巫女の力は自動的に受け継がれるんじゃ」

「だから、自動で受け継がれるさ。羅亜波の存在が消えればな」

 そういう意味だったのか。

 存在が消えていないから、巫女の力は誰にも受け継がれていない。

 たったそれだけのこと。

「お前が羅亜波のことを大切に思っとるのは知っとる。それならば、黒から解放してやりたいと思わんのか? 儂らが羅亜波に出来る唯一のことだ。お前だって恩返しがしたくないのか?」

 そう言われてしまうと。

 わからない。

 俺が決めていいことなのか。

「別れがたいか?」

「いえ、あの」

 違う。

 わからなくなった。

 俺は。

 どうしたらいいのか。

「じっくり考えるといい」祖父さんが言う。「儂らが決めることじゃないんだ。だがもし次代を必要とするならそのときは儂の意を汲んでもらいたい」

 帰ろう。

 なんだかとても水封儀さんに会いたくなった。









     2


 17時。

 元・水封儀さんの屋敷。

 学校までの立地がいい(徒歩5分以内)ので巽恒に貸している。

 巽恒はまだ水族館から帰ってきていないようだった。

「要らんことはしなくていいぞ」水封儀さんが待っていたように言った。「私は巫女なんだ。巫女は黒を祓い続けるのが仕事だ。私から仕事を奪わんでくれ。元の引きこもりに戻ってしまう」

 まだ充分に明るい縁側。

 水封儀さんは、いつもそこで背を向けて寝そべっている。

「みふぎさん」俺は何も言えずに名前だけ呼んだ。

 喉が渇く。

 頭がふらふらする。

 時間が無限に感じる。

「会長の考えそうなことだ。もしくは誰かの入れ知恵があったか」水封儀さんが沈黙を破ってくれた。

 夕方というには明るすぎる。

 ただ単に無風で暑い。西日も容赦なく差しこんでくる。

 庭に眼を遣ったが、シャオレーさん(水封儀さんの夫)も、満心炉みしろちゃん(水封儀さんの子)もどっちもいなかった。

 ここにいるのは、

 水封儀さんと俺だけ。

「気を遣ってくれんでいいぞ。余計なお世話というやつだからな」水封儀さんが言い聞かせるように言う。「私が黒祓いの力を喪ったらどうなると思う? 何もないただの小娘じゃないか。あまりに哀れじゃないか。弟子なら師匠に惨めな思いはさせたくないだろ? わかってくれ。これは私の宿命なんだ」

「みふぎさんは、やりたくないって思ったこと」

「やりたくなくてもわたししかいないし、わたしは黒祓いの巫女でしか、わたしでいられない」

 そんなこと言われたら。

 無関係の俺は何も言えない。

「わかってくれたなら、もうこの話はなしだ」水封儀さんがこちらを見る。

 ひどく優しそうな表情をしていた。

 どうして。

 どうして自分を犠牲にしてまで。

「なんでそんな顔をする」水封儀さんが俺の肩に触れる。「師匠の仕事に誇りを持ってくれ」

 いつもの冷たい冷たい手は、安心というより心がひやりとした。

 じゃあなんで。

「シャオレーさんと満心炉ちゃんがいないんですか?」

「敢えて私に言わせるのか」水封儀さんが後頭部をこちらに向ける。

 知っている。

 シャオレーさんと満心炉ちゃんは俺にしか見えていない。

 水封儀さんも、俺にしか見えていない。

 俺にはもう黒が見えない。

 シャオレーさんも満心炉ちゃんも黒じゃない。

 ただの、まぼろし。

「そう悲しい顔をせんでくれ。わたしだけじゃ不満か」

 俺がそうあったらいいとな思っただけ。

 俺が見たいものを見ていただけ。

 俺が見たいものを、

 水封儀さんが見せてくれていただけ。

「寂しそうに見えてしまって」

「わたしがか? 確かにな。うるさいのも敵わんが、静かすぎるのも慣れないな。あまりに長く一緒に居てしまった。早めに切り上げたらよかったんだ。そんな幻遊び」

 外界は暑い。

 内部は冷たい。

 真逆の温度がひしめき合っている。

 寒い。

 熱い。

「話を切り上げてくれたお礼に、会長絡みのネタばらしをしてやれる」水封儀さんが言う。「わたしの口から聞きたいならな」

「いいですよ。祖父さんは絶対教えてくれないでしょうから」

「覚悟はあるんだな?」

「もう何が出てきても驚かないしどうでもいいです」

 水封儀さんが場つなぎのような溜息を吐いて、遠くを見るように話し始めた。「会長はノウ家や黒と深く関わりがありながら、なぜか黒を忌避する。親戚のはずの小張オワリの家にも近づくなと言う。その本当の理由について、わたしは真実を知っている。会長の妻についてだ」

「二代前の巫女なんじゃないんですか?」

「それは間違いじゃないが、真実を言っていない」

 どういうことだ?

「よく思い出してくれ。会長が自分の妻の話をしたことがあるか? お前の祖母の話にすりかえるだろ? そこに会長の一番隠したいことの本質がある」

「亡くなったんじゃないんですか?」

「祖母は亡くなったかもしれない。でも妻の話はしていない。つまり、会長の言う祖母と妻は別人なんだ。それを元に考えると、会長が隠したがっている事実についてぶつき当たる」

「なんなんですか?」

 躊躇わずにささっと明かしてほしい。

「お前の祖母であり会長の妻である人物は亡くなっていない。それにお前はすでに会ったことがある。それこそ何度もな。そして、いつも会長の隣で会長を支え続けている」

「だからそれが誰なのかって」

「わからんか? ここまで言ったらわかってほしい。これははっきりとわたしが言っていいことじゃない。でもここまでヒントを出せば、賢いお前はすぐにわかるはずだ」

 なんでここまで言っておいて急に意地悪クイズみたいにするのか。

 まあいいか。

 ヒントを並べると。

 いまだ存命で。

 俺が何度も会ったことがあって。

 いつも祖父さんの隣で祖父さんを支えている人物は。

「え」

 一人しかいない。

「嘘ですよね?」

「嘘じゃない。一時期結婚していたこともある。離婚する際に名字は戻してしまったが、直接会社の手伝いをしていない以外は、いまも昔もやっていることはそう変わらん。会長と同じ家に住んで、家事をこなしている」

 嘘だ。

 なんで。

手束テヅカさん?」

「そうだ。手束テヅカ光有みつあ。お前の祖母であり、会長の元妻の名前だ」

 祖父さんに抗議をしても仕方がない。

 きっとこれは双方合意の上でやっていたことなのだ。

 それこそ無関係の俺には。

「俺は、いままで手束さんを家政婦だと思って」

「家政婦には違いないさ。どうしてお前はいつも自分を責める? お前に何の非もないじゃないか」

 それは、そうだが。

「さて、本題はここからだ」水封儀さんが場面転換代わりに手をぽんと叩く。「お前のは、会長によれば、すでに亡くなっていて、二代前の巫女だという。わたしの祖母も、すでに亡くなっていて、二代前の巫女なんだ。わかっているから言うが、お前と私の祖母は同一人物だ。だが、お前のとわたしの祖母は必ずしも同じ意味じゃない」

「はっきり言ってもらって大丈夫です」

「わかった。すまなかった。お前に配慮しているというより、わたしも頭を整理しながら喋っている。迂遠なのは勘弁してほしい。わたしの頭が働いていないだけだ」水封儀さんがかぶりを振りながら言う。「なんだったかな。ああ、お前のの話だったな。会長はな、出自が少々特殊でな。三代前の巫女と会長の父はもともと愛し合っていた。だが、会長の祖父によって別れさせられ、別の納家の遠縁の女と結婚させられた。だが、二人の間にできた子は流れ、片や三代前の巫女との間にも子ができた。順番からすると別れさせられる直前に子がいたと考えたほうがいいな。とにかく会長の母を哀れに思った三代前の巫女は、その子を半分に分け、ニンゲンの部分と呪いの部分を半々ずつ合わせて男女二人の子を創り、不要な男のほう――三代前は次代の巫女のために女が必要だった――を会長の母にあげた。何を言ってるかわからんと思うがしばらく聞いてくれ。その半分ニンゲンで半分呪いの男のほうが会長、女のほうがお前のであり、わたしの祖母だ」

 全然意味がわからないけど、言いつけ通り黙って聞くことにした。

「三代前の巫女は、男の子をあげる代わりに会長の母に約束をした。女の子が子を成す前に男の子が子を作らなければそのまま人間として生かしてやれる。でもそうでない場合、女の子のほうが人間として生き、男の子は呪いに呑み込まれて消える、と。結果として会長の父は人間として生き、お前のは呪いに呑み込まれて消えた」

 わかった。

「俺のは祖父さんと同一人物ってことなんですね?」

「簡単に言えばそうだ。そうか。そう言えばよかったな」水封儀さんが誤魔化すように自分の髪に触る。「まあいい。同一人物なんだ。だからと言っていた。わたしの場合、祖母は祖母だ。三代前の産んだニンゲンと呪いの半々の女が二代前。二代前が呪いに呑まれながら産ませられた呪い――黒が先代。そして、その黒から生まれたのが」

「みふぎさんは呪いじゃないです。黒でもないです」

「呪いと黒のことについてもこの際だ、説明しておこう」水封儀さんが言う。「時間は大丈夫か? 帰る時間は気にせんでいいと思うが、藤都フジミヤくんが戻ってきたら面倒なことにならんか?」

「帰ってきたら来たでなんとかします。続きを聞かせてください」

 水封儀さんは自分の屋敷の自縛霊みたいな状態らしいのでここから離れられない。

 つまり、ここにいないと水封儀さんからの話が聞けない。

 18時。

 水族館に一日中いるといってもそろそろ帰って来るだろうか。

 どっちでもいい。

 いてもいなくても、水封儀さんの姿は俺にしか見えない。

「お前がいいなら続ける」水封儀さんが言う。「呪いは呪いだ。それ以外に名称はない。ただ、黒は呪いには違いないが、もともと呪いは黒とは呼ばれていなかった」

「みふぎさんの父親がそう名付けたって聞きましたが」

「名付けがどうとかの話をしてるんじゃない。呪いはな、もともと色なんかなかったんだ。無色透明。だからこそ眼が必要だった。呪いがどこにあるか見つける眼が」

「色が変わったってことですか?」

「二代前が呪いに呑み込まれたときにな。二代前はな、それはそれは能力の高い巫女だったらしい。呪いを封じる容量がケタ違いで、それまで納家が封じた呪いでさえ手駒として操っていたらしい」

「でもそんな人でも呪いに呑まれたんですね」

「巫女の最期は変わらんよ。呪いに呑まれて一巻の終わりだ」水封儀さんが言う。悟ったような諦めたような表情で。「わたしが話したいのは、二代前の手駒になっていた呪いのことだ。こいつはな、納家がこれまで封じていた呪いを凝集して、そこに人格を付与した、呪いの権化。そいつは、いまも存在している」

 ぞわりと背筋が冷えた。

 水封儀さんの手によって冷えたときとは別次元の悪寒。

 黒と対峙したときと同じ、全身硬直の圧迫。

「それが誰か、お前にはわかるだろ?」水封儀さんが顎をしゃくりながら言う。

 水封儀さんの姿が薄くなり、玄関のドアが開く。

 巽恒ヨシツネが帰って来たらしい。

「行って来い。わたしの話の続きが聞ける」消え際に水封儀さんが言った。














     3


 19時。

 腹は空かない。交感神経が優位になっていてそれどころではない。

 巽恒には嫌な顔をして追い出された。今日はそれでよかった。

 屋敷からすぐの九九九段ある石段を上った先。

 ここいらで一番有名で大きな寺院。

 経慶けいけい寺。

 アポなしだがきっと会ってくれるだろう。

 受付は無人。

 境内をうろうろしていたら声をかけてもらえた。

 住職に取り次ぎを。

「今日は来客が多いね」住職はすぐに顔を見せてくれた。「一昨日の時寧ちゃんの日ぶりかな」

 以前、満心炉みしろちゃんを連れていったときに案内してくれた宿坊の空き室。さすがに同じ部屋ではなかったが、間取りは同じだったので見慣れた室内だった。

 茶を持ってきた係の人がいなくなってから、住職が口を開いた。「ついさっき、有珠穂ちゃんが来てくれていたよ。すぐに帰ってしまったからちょっと物足りなかったんだ。君が来てくれて良かったよ」

 どういう意味だ?

「そう警戒しないでくれていい」住職が言う。「お嬢さんから聞いたんだろう? だから私に会いに来た。全部。わかったから来てくれたんだろう? 私の正体が呪いだということに」

 ぞわりと拡がる黒。

 室内が一瞬にして闇に堕ちた。

 真っ黒の中に。

 ひと際深い黒が佇む。

「あなたはなんなんですか?」

「呪いだよ。そう聞いてないかな」住職の形をした黒が言う。「私は納家が代々封じてきた呪いそのもの。巫女は常に私と共にあった。それをね、深風誼みふぎ――二代前の巫女だけど、あの子がね、姉貴と協力して私をこの身体に封じ込めた。元あった人格はモリくん――きみの祖父の傍らにいまもいる。幽霊というには不安定で、呪いというには無害な存在で」

 住職が左の袖を捲ると、黒と白の玉が交互に並んだ数珠があった。

「これのせいでこの身体から出られない。でもね、それは私がこの身体にこだわればの話だった。私がこの身体の命を絶てば、私は元の通り呪いとして自由になれる。それを真っ先にモリくんに言ったんだ。そうしたら血相を変えてね。次代の巫女についてこそこそ裏工作を始めたってわけだよ」

 つまりは。

「すべて、あなたのせいだったと」

「そうだね。そうなるね。怨むかい?」

「いいえ。きっと怨んだりしたほうがあなたにとって都合が良さそうなので」

 住職がふ、と口元を歪ませた。

 黒が揺らぐ。

「息苦しいだろう? お嬢さんに助けを求めなくていいかね?」

「狙いはみふぎさんなんですね? させません。俺が、そんなこと」

「無理をしなくていい。黒に耐性のないきみでは――いや、耐性はあるのかな。モリくんの血を引いていたね、きみは。それなら」住職が数珠を鳴らすと。

 黒が波のようにさぁっと引けた。

 元通りの宿坊の室内。

「この場は私が引くとしよう。でもきみは近いうちにお嬢さんを連れてここに来ることになる。予言じゃない。確定事項だ。きみは、だいじなものとお嬢さんを天秤にかけて、お嬢さんを選ばない。選べない。なぜならそのだいじなもののほうがお嬢さんよりも優先されるからだ」

「何を言ってるのかわかりませんが、あなたに悪意しかないのはよくわかりました」

 茶はすっかり温くなっている。

 茶菓子はあのときのもなか。

「これ、持って帰っていいですか」

「構わんよ。うちで出している菓子だ」住職が頷く。

 もなかには、経慶寺の寺紋が刻印されていた。潰れないように胸ポケットに入れる。

 20時。

 事務所に戻ってすぐ、祖父じいさんに電話をした。

「なんだ。今日は何度も連絡をくれるじゃないか」祖父さんの声は俺が何を言おうとしてるのか察しているように重く淀んでいた。

 ケータイを持って3階に上がる。

「祖父さんのそばにいる人って、祖父さんのだいじな人ですよね?」

「バラしたのはどっちだ。まったく。この年になって」

 半分鎌掛けだったのだが、祖父さんはわざと引っかかってくれた。

 俺は、

 手束さんの話をするつもりはない。

「さっき会ってきました。大丈夫です。そんなこと、俺がさせませんから」

 祖父さんが手束さんと別れた理由。

 俺にはすぐにわかってしまった。

 住職の元の人格。

 その人がいまもずっと祖父さんの傍にいる。

 これ以上の答えはない。

「無理だよ。お前が敵う相手じゃない。なにせ相手は」

「大丈夫です。大丈夫ですから、俺がなんとかしてみせます」

 だから。

「母さんをよろしくお願いします」

 電話を切った。

 祖父さんからの着信を無視するのが嫌だったので電源を切って、寝る準備をした。

 あ、夕飯。

 まあいいか。

 明日消える人間に、食事は要らない。










     4


 翌日5時。

 火曜日。

 本社の休みは明日までだったはず。

 それまでに済ませられるといいが。

 7時。

 元・水封儀さんの屋敷。巽恒に貸している家に向かった。

 外はすでに明るい。

 ケータイを鳴らそうが、呼び鈴を鳴らそうが起きて来ないのはわかっている。

 だから、合い鍵を使う。

 寝室で眠る姿。

 と思ったら、眼が開いた。

「夜這いは勘弁したってな」巽恒が布団の中から言う。

「起きてたのか」

 極力静かに入ってきたというのに。

「俺、眠り浅いん。これで二度と起きひんかったら、て考えたら深くは眠れへんよ」

 そうゆう環境下で生きてきたのだろう。

 いまは深く聞くつもりはなかった。

「こないに朝早う、なんなん? メールでも送っとったら」

「返信が来ない」

「どうでもええ内容やったさかいに」

「俺には重要だった」

 不毛だ。

 時間もあんまりない。

「水族館に行ってるんだろ?」

「ほら、ストーカやん」

「別口の情報通がいる」

「へ? ケイちゃん?」

「なんであの駄犬には言ってるんだ。まあいい。最初に言ったろ? ここは幽霊屋敷って呼ばれてるって」

「嘘やん」

「嘘じゃない。ちゃんと伝えたはずだが?」

 巽恒が複雑な表情をする。「ホンマのホンマに?」

「本当だ。ここには。俺の人生の師であり、世話になった恩人が」

「嘘やろ」巽恒がきょろきょろと周囲を見回して首を振る。「いまもいてるん?」

「ああ、その人が教えてくれたんだ。お前が水族館に通ってるってな」

「そうなん? へえ、そらええな」

「本気にしてないだろ? 信じなくてもいい。ただ知っておいてほしかっただけだから」

 水封儀さんがいたことを。

 俺の師匠が確かに存在していたことを。

「お前に話しておきたかった」

「なんなん? 朝っぱらから。遺言かいな」

「そうなるかもしれないから、お前に会いに来た」

「はあ?」巽恒は冗談だと思っている。「大げさやな」

 でも別にそれでいい。

 最期になるのなら、会いたかった。

 欲を言えばもっと進んだ関係になりたかったが。

 それは高望みかもしれない。

 俺にはそもそもそんな過ぎた願い。

「行ってくる」

「どこ行かはるん? 待ちィな。なんなん? 朝っぱらから意味わからへんこと。そないにカッコつけても締まらへんで?お前」

「そうかもしれない。でもやることがあるから」

 巽恒は察しがいい。

 肩を掴まれていた。

「きちんと説明しぃな。お前がおらんくなったら俺は野垂れ死ぬんやで?」

「だからそうならないように、行ってくる」

「そか? ほんなら、気ィつけてな」巽恒が布団から出て見送ってくれた。

 それだけで。

 結構元気が出た。

 玄関を出て垣根を曲がったあたりで足を止める。

「いいのか? キスか抱擁くらいしてもらってもよかったんじゃないか?」水封儀さんの声が後頭部の辺りでする。

「まだそうゆう関係じゃないんで」

「お前がいいならそれ以上は言わんさ。それよりも、持ってきたか?」

「ええ、完璧です。弟子ですから」

 水と甕。

 水封儀さんが黒を祓うのに必須。

「クソジジイのいいところは善は急げなところだ。思い立ったらすぐに行動してしまう」

「だから早めに準備しました」

 この期に及んで問答は不要。

 水封儀さんはこの呪い溜まり屋敷のお陰で存在を保てている。

 つまり屋敷を離れることができない。

 俺に取り憑くことで一時的に消えずにいる。

 正真正銘、水封儀さんの最期の仕事。

 敢えてそんなことは確認しない。

 師匠の背中を黙って見守るのが弟子の役割だから。

「さすがは我が自慢の弟子」水封儀さんが笑ってくれた様な間があった。「行くぞ」

 8時。

 経慶寺境内。

 住職が本堂前の階段に腰掛けていた。

「早起きは三文の得だと言うが」住職がよっこいしょ、と言って腰を浮かせる。「実敦さねあつくん、お嬢さん。退路はないぞ?」

「うるさいな」白襦袢を纏った水封儀さんの姿が眼前に現れた。「覚悟ができたから来たんだ。さっさと済ませるぞ。弟子!」

「はい!」

 甕に水を移していると。

 黒が。

 大量に渦を巻いて。

 本堂の中に。

「往生際が悪い。逃げる気か?」水封儀さんが追いかけようとするが。

「違う違う。こいつを見てもらおうと思ってな」住職の周りを塗り尽くす黒が生き物のように蠢いて。

 中から出てきたのは。

「卑怯だな」

「なんとでも言ってくれていい」住職が再び階段に座り直す。「実敦くん、ほら、言った通りになっただろう? きみはだいじなものとお嬢さんを天秤にかけてお嬢さんを捨てないといけない」

 黒の中にいたのは。

 見間違えるわけがない。

 その人は、

「母さん!!!!!」

 だらりと弛緩した全身が、一刻の猶予もないことを物語っていた。














     04


 どうして?

 どうしてサネは俺を選ばない?

 邪魔が入った。

 あの女。

 デカイ顔しやがって。

 源永もとえに憧れてるかなんだか知らないが、源永の周りをちょろちょろしやがって。

 昔からそうだ。

 どいつもこいつも俺の邪魔をしやがって。

「ごめん、上手く行かなかったね」助手席のカネイラさんが言う。「僕がタイミングを間違えたね」

「カネイラさんのせいじゃないですよ。ツルとあの女が」

 むしゃくしゃして車でその辺を流している。

「若に嫌われたかな」

 信号は赤。

 ブレーキを踏む。

「なんで? サネが俺たちのこと嫌いなわけないですって」

「話したいことがあるから、僕の家に寄ってくれる?」カネイラさんが言うので。

 言う通りにした。

 リビングのソファにLの字に向かい合って座る。

「なんですか?」

「本当に気づいてない?」カネイラさんが言いにくそうに言う。

「何をですか?」

「若が君のことを」

 好きでない。

 憎んでいる。

「そんなの、義父さんと源永が」

 サネを騙している。

「ねえ、本当にそう思ってる?」カネイラさんが言う。「マサがやったことは社長を傷つけ、若を何年もの間自死にまで追い詰めた。会長だって君を何度八つ裂きにしても足りない。それは理解できてる?」

「なんですか急に。カネイラさんまで」

 俺を責める。

 俺はただ責任を取りたいだけなのに。

 なんで。

 なんでなんでなんで。

「君を責めたいわけじゃないんだ」カネイラさんが言う。ちゃんと俺のことをわかってくれている。「現状を整理しようと思ってね。僕が今日若に会いに行こうって提案したのは、若に一緒に暮らす選択肢を見せることだった。きっと若はそんな選択肢、考えたことなかっただろうから。でも反応は決していいものじゃなかった。僕としてはそもそも君のことを誤解したままってのが居たたまれなかった。だからまずは君のことをよく知ってもらうところから始めたほうがいいんじゃないかなって」

「もっと頻繁に会いに行くべきってことですか」

「でも君には出禁がある。これを守りながらイメージ払拭するのは至難の業だ」

 カネイラさんはやっぱり頼りになる。

 俺だけだったらこんなに冷静に分析できなかった。

「いい案があるんですね?」期待を込めて言った。

 ここまで言ってくれるってことは、きっと。

「君が直接出てくることはしばらく控えよう」カネイラさんが言う。安心させるように頷きながら。「代わりに、近くにいる僕に任せて。マサがどんなにか若のことを思っているか。ちょっとずつだけど若に伝えてみるよ。長期戦になる。それを覚悟してくれる?」

 サネが生まれてかれこれ15年。

「これだけ待ててるんです。大丈夫です」

 サネとカネイラさんと三人で一緒に暮らすためだ。

 どれだけでも待ってみせる。


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