第3章 醜く腐った女

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 正直、なぜ堕胎ろしてくれなかったのかと、いまもずっと思っている。

 彼が生まれていなければ、事態はこんなにややこしいことにはならなかったのに。

 岐蘇キソ実敦さねあつ

 そもそもの最初の源流を辿れば、私が源永ちゃん――現社長に、友人――浅樋アサヒ雅鵡良まさむらを紹介したことがコトの発端だった。つまりは私が悪いのだが、社長――現会長一家は揃いも揃って私のことを聖人君子か何かだとか思い込んでいるので、私を罰するなどということは夢にも思わないようである。

 マサごと私を追放してくれればそれでよかったのに。

 私には社長の秘書ポストを囁く一方で、マサには給料だけ与えて飼い殺し。

 とても耐えられない。

 社長の顔を見ながら仕事なんてとてもできなかったので、社長が見たくもない、見てもいない息子を補佐する役割に立候補した。

 社長は、息子の存在を忘れてしまった。本当に何も覚えていない。名を出しても「誰よそれ」の一点張り。

 社長は自分の心を守れたが、私はマサを守れなかった後悔に苛まれ続けている。

 マサはあんなに息子に会いたがっているのに。

 会長は、孫を育てるただそれだけのために社長職をぽいと次女に譲り渡し、自分は縁深いとかゆう曰くつきの山を買ってとっとと隠居してしまった。その割に孫の心のケアには当たらず触らず、まるで他人事のよう。

 どいつもこいつも無責任にもほどがある。

 マサがしたことに関して弁護の余地は一切ないが、マサほど息子を愛している人間はいない。

 マサが育てれば、

 彼は、

 若はあんなに闇色に染まらなかっただろうに。

 8月のお盆前は、時寧ちゃん――社長の姉の命日。

 今年は法要がなかったが、会長の鶴の一声で、皆で集まって食事をすることになった。

 もちろん私も呼ばれている。若を連れていく足として。

 若は去年からようやく時寧ちゃんの墓参りを許された。死後7年も経っていた。

 若が時寧ちゃんの最期を看取った。時寧ちゃんが亡くなっていたその傍らに若がいた。私が迎えに行ったのでよく憶えている。

 そのときのことは、私には知らされていないことになっている。

 でも、私は知っている。

 時寧ちゃんの死因に、会長の血筋が関わっていることを。

 会長は、呪いを祓う家の血を引いている。会長が買った山はそもそもその一族が住んでいた。

 その一族の唯一の生き残りが、会長。つまり、会長はその山を所有する正当な資格がある。

 呪いは、その色から黒とも呼ばれる。

 会長には見えている。

 若にも、おそらく見えている。

「大丈夫ですか?」

 若が落ち着かない様子でそわそわしているのが眼に余るので声をかけた。

 出掛ける前からずっとそうだった。

 17時。

 会長宅。

 集まったのは、経慶けいけい寺住職(会長の幼馴染)、久慈原クジハラ先生(時寧ときねちゃんの夫)、翔幸かけゆき(時寧ちゃんの息子)。そして、若と私。

「来てもよかったと思うか」若が私にしか聞こえない声で言う。

 若のこうゆう後ろ向きな発言はいまに始まったことではない。

 周囲に大丈夫だと保証してほしくて弱音を吐いているならまだ可愛げがあるが、若の場合、百%の本心で言っているから性質たちが悪い。

「祖父の家に、亡き伯母のために集まる会に、出席してはいけない道理なんかありませんよ」

 若が気にしているのはそういうことではない。わかっていて敢えて、私はこう返した。

 思った返答がもらえなかったので、若は困惑したような顔を浮かべて黙った。

 相手をするのが面倒なときはこうすればいい。

 若はとても頭がよくて臆病なので、相手の返答まで予測して発言をする。予想通りの返答が返って来なかった場合それ以上会話が続かないので黙るしかないのだ。

 若が言いたかった本心はこうだ。

 母親は許してくれるだろうか。

「そんなことより食べてますか? 私が食べちゃいますよ?」

 許してくれるわけがない。存在すら許していないのに。

 前提条件が間違っている。

 あんな非道な母親のことなんか忘れて、若を本当に愛してくれる人のところに行ってくれればいいのに。

「食欲がない」若が麦茶のグラスを触りながら言う。

 若が元気がない理由は実はもう一つあった。

 若が懸想しているバイト(年下の少年)が、若に許可も得ず夏休みを取ってしまった。

 若としては最大限譲って一週間とは言ったものの、これまで一日として会えなかった日がない。本当に毎日毎日顔を合わせている。その彼と一週間会えないとなれば、落ち込むのも無理はない。か?

 公にはしていないしできないが、若は女性にまったく興味がない。女性に対して苦手意識が強いのは、母親の影響が多分に影響しているのだと思うが、性別問わず、若はこれまで他人に一切の興味関心がなかった。

 母親に嫌われているというただそれだけの理由で死を考えていた。

 学校にも行かず、来る日も来る日も、死ぬことだけを考えて過ごしていた。

 そんな若が会長に頭を下げて、鎌倉支部をつくってもらったときは驚きを通り越して唖然とした。

 死ぬことだけを考えていた若が、生きることを決めたのだから。

 何があったのか、私でなくても気になるというもの。

 はっきりとは知れなかったが、状況から察するに、呪いを祓う巫女との交流があったらしい。

 私は会ったことがない。

 ノウ水封儀みふぎ

 3年前、若が生きていく決心をした出来事のきっかけになった人物。

 3年前、彼女は亡くなった。

 時寧ちゃんが亡くなったあの平屋に溜まった呪いを祓う代償として命を落とした。

 納家の巫女はもういない。

 彼女が最後の巫女だった。

 会長が納家の血を引いているというのなら、時寧ちゃんだって現社長だってそうだろう。

 しかし、現会長は首を横に振る。

 時寧ちゃんと現社長の本当の母親については私も知っているが、会長自身が納家の血を引いているのならそれは当てはまらないのではないか。

 巫女の後継者は、社長ではないのか。

「来たわよ」

 私が余計なことを考えていたせいだろうか。この場にあり得ない声がして、振り返る。

 招待していないはずの社長が顔を出した。

 姿を視界に入れるや否や、若が部屋を飛び出した。

「若!」私が追いかけるしかないだろう。

 なぜ?

 誰が呼んだ? 誰が告げた? 誰が知らせた?

 気のせいか、住職がこの場にそぐわぬ笑みを浮かべていたのが気になったが、いまはとにかく若を。

 18時過ぎ。

 まだ明るいとはいえ、周囲は樹木と獣道。

 どこに行った?

 足跡もわからない。外に飛び出したところまでは捉えていたのだが。

「若!!」声を上げながら家の周りを一周した。

 いない。

 社長の車が目立つところに止まっている。

 これを眼に入れたくないだろうから。とすると、この反対側となると。

 この鬱蒼と茂る奥に入った?

 冗談じゃない。

 どこまで手を煩わせる。

「あっくん!いるかい?」久慈原先生が追ってきてくれた。

「すみません、見失ったみたいで」

「まずいな。すぐに会長に地図を書いてもらわないと」そう言うと、先生は屋内に戻った。

 久慈原先生は、会社うちの産業医をしてもらっている精神科医だ。若をずっと見守ってくれていた医師でもある。信用の置ける人だ。

 時間差で翔幸も出てきた。「あれ? カネさん、どうしたんすか?」

「危ないから戻っててくれますか?」

「えー、じいちゃんにも追い出されたってのに。てか俺、最近なんもしてねえっすよね?」

「社長に後ろめたいことがなければ問題ないですよ」

 鬱陶しいな。いまお前の相手をしている暇なんかないのに。

 久慈原翔幸。若の従兄で少々素行不良な高校生。学校には真面目に行っているようだが、本社のメインプログラムに侵入するという暴挙をかまして会長に雷を落とされたばかり。興味あるからとねだられてプログラム方面を少しかじらせたら真っ先に悪いことに使ってしまったので、先に倫理面を教えるべきだったと反省している。

「あ、こないだ組んだばっかの見てもらってもいいですか」翔幸が眼を輝かせながらメモリスティックを渡そうとする。

「申し訳ないですが、いまそれどころではなくてですね」

 若がいなくなった。

 余計に面倒事が増える前に彼を味方にしてしまおうと思った。

「は? マジすか?」翔幸があんぐりと口を開ける。「あいつ、おばちゃん見るといっつもそうなんだよな」

 知らないのか。

 誰も知らせていないのか。知らないふりをしているだけなのか。

 関わらないのが一番だと思ったのかもしれない。

 彼も、翔幸も頭がいい。ずる賢いと言い換える。

「サネ~? いないの~??」翔幸も一応捜している風を装っている。自分も迷っていなくなれば迷惑がかかるので家の周りにいることに決めたらしい。

 その点は有難い。

 しかし、久慈原先生がなかなか戻って来ないので。

 仕方がない。

 山に入るか。

 ケータイをライト代わりにして草むらを掻き分ける。

 若の名を呼び続けながら。

 今回集まったメンツの中では、若は私に一番心を開いている。はず。

 その私が捜しているとなれば、観念して大人しく出てきてくれると有難い。

 常に帰り道を確認しながら、ゆっくり足を進める。

「若? どこですか?」

 どうして出てこない。

 それはそうか。

 若には聞こえていたはず。

 若の話題を出された社長が、「誰よそれ」と言っていたのを。

 会長も会長だ。なんでそんな七面倒くさい内容を持ち出したのだ。ちょっと考えれば社長の反応くらい予想がついたはず。会長が酔っていたことは免罪符にはならない。

 若だって今更社長に蔑ろにされたところでいまに始まったことじゃない。

 マサなら、そんなことはしないのに。

 要らないのなら、どうしてマサにくれなかったのだろう。

 若は結局、家政婦の手束さんが見つけた。さすが住んでいるだけあって、土地勘があったのだろう。

 若の眼は腫れていた。

 誰もいないところで泣いていたのだろう。

 そうか。泣いているところを見られたくなくて隠れていたのだ。そこから逆算すればもっと早くに見つけられていたはず。

 予想外のことを予想通りにやる社長のせいで、いつものペースが乱されている。いつもの私ならこんなミスはしない。皆で一斉に探すよりも前に、私が単独で見つけ出させていたはず。

 社長は皆が走り回っている間に先に帰ったようだ。ひとこと言ってやりたかったのに。

 若を庇うため、挨拶も早々に私たちも支部に戻った。

 19時半。

「心配かけたな」若がようやく自分から喋った。

 発見されてからずっと押し黙ったままだった。

「若が無事で何よりです」

「お前も夏休みに入っていい」

「取るとしても、ヨシツネさんとはずらしますよ」

 名前を出したのはわざと。

 若の表情がまた曇った。

「帰ってきてくれると思うか」

 主語は、若が懸想している少年。

「大丈夫ですよ。別にケンカしたとかではないんでしょう?」

「してない、とは思う」若が神妙な顔で言う。

「メールもありますし」

「返事が来ない」

 マイナス方向へまっさかさまだ。

 むしろ最近はバイト少年のお陰でプラス方面に行っていたが、そちらのほうが非日常だったのか。と改めて再認識した。

「一週間の辛抱ですよ。では、私はこの辺で」

 PCの電源と戸締りを確認する。

 これ以上付き合っていても何もならないし、なによりとても疲れた。顔には出していないので若には気づかれていないと思われる。

 支部の1階部分が事務所。2階と3階部分を若の自宅に宛てている。

 つまり、自宅に帰るのは私だけ。

 いつもの場所までマサが迎えに来てくれていた。マサは車を所有している。

「お疲れ様です、カネイラさん」マサが言う。

 20時。

「見てた?」助手席に乗り込みながら聞く。

 マサは私のケータイを通して、若との会話を聞いている。

 事務所にあるカメラを通して、若とのやりとりを見ている。

「無事でよかったです。ケガとかもしてなかったですか?」

 その目的は、決してやましい事情からじゃない。

 ひとえに、

 若が健やかであれという祈りから。

「木陰で座って泣いてただけっぽいからね。でもあれがもう使えないからね。焦ったよ」

 あれ、というのはマサが開発したアプリ。

 若のケータイが同じ場所から30分以上動かなかった場合、私のケータイに着信が来る。若に何かがあればすぐに駆けつけられるようにしていたが、開発者がマサだと判明したことで、アンインストールせざるを得なかった。

 若はマサを殺したいほどに嫌っている。

 母親がマサを殺したいほどに憎んでいるから。

「源永はまだサネを悲しませ続けているんですね」マサが言う。

 母親がマサのことを忘れてくれれば、同じく若も憎しみから解放されるだろう。

 私は一人暮らしだ。自家用車は持っていない。現会長宅への移動も社用車を使った。

 マサの住居とは離れている。発覚したときに印象が悪くなるので、一緒に住むことはしていない。

 しかし、私の家で過ごすこすことは少なくない。

「何か収穫あった?」マサの隣に腰掛ける。

 誰にも知られていないが、会長宅にも盗聴器がある。

 マサには、私がいろんな場所に設置した盗聴器やカメラで情報を収集してもらっている。

「やっぱり義父とうさんが義母かあさん以外のと会話しているのは確かですね」マサが言う。「納家が見えているっていう呪いに関係するんですかね」

「納家のことは調べられない? 私としては会長が本当に納家の血縁者なのか疑問が残るけど」

 書類上、会長は納家と何の関係もない。会長の父は、会長が学生の頃亡くなっており、同時期に母も離婚している。会長は祖父から社長の代を継いだ。

 また、大学卒業と同時に現家政婦と結婚し、二人の女児をもうけ、その後現家政婦と離婚。現家政婦は家政婦として二人の女児を育て上げ、会長は当時の社長として岐蘇不動産を更に大きく成長させた。

 この略歴のどこに会長が納家と関わりがあることが示されているのだ?

「調べる人物を変えてみましょうか?」マサが言う。「例えば、義母さんとか、住職さんとか」

 以前作成した関係者の家族図をモニタに表示させる。

 義母さんもとい家政婦の手束てづかさん、経慶寺住職、ならびに会長は、三人が幼馴染。

 会長が山を買う前に住んでいた生家の正面に手束氏宅があった。そこの一人娘とは幼い頃から婚約関係が結ばれており、手束氏といえば、当時からKREの発展に尽力してくれた功労者。

 経慶寺もこの辺りでは最も大きな寺院で、企業と宗教といったまったく別ジャンルではあるが、共に別の意味合いで住民に親しまれていた。会長と住職は当時から仲が良く、二人が未来を盛り立てていくものと世間は信じて疑わなかったし、実際その通りになった。

 住職は二人兄弟。弟は、若も通う中高一貫校を創設し、自らが校長務めるやり手。娘が一人おり、後述する従兄と結婚して息子を一人もうけた。その息子はつい最近まで不良グループを仕切っていたが、若が懸想するバイト少年に叱られ、グループを解散し、なぜかいま若のところで臨時バイトをしている。

 住職の妻はすでに離縁しているが、長男と次男がいる。次男は先述した従妹と婚姻し、妻と共に父の仕事つまり中高一貫校の経営を支えている。

 納家と深いつながりがあるのは、その長男だ。長男は納家の巫女と結婚し、一人娘をもうけた。

 それが、ノウ水封儀みふぎ

 納家最後の巫女にして、若の人生を変えた人物。

「この巫女が生きているうちに接触しておくべきだったよ」と、恨み事を呟いてももう遅い。

 会長には兄弟姉妹がいない。亡くなった父親も一人っ子。離婚した母親のこともいまとなってはわからない。祖父母も特に納家と関わりがあった記録は見当たらない。

 詰みか?

 翌日の昼、本社の社長室で、社長が住職に直電をしていた。もちろん、本社のあらゆる場所にあるカメラと音声は私とマサの手の内にある。

 社長は、納家について尋ねていた。

 通話の相手側の音声までは拾えないのが残念だが、社長の反応からある程度は推測が立つ。

 中でも特に気になった発言があった。

「呪いに呑み込まれた場合、遺体は残らないんですか?」という社長の言だ。

 おかしい。

 そうなると、時寧ちゃんの遺体は?

 私も目撃している。

 あの幽霊屋敷もとい呪い屋敷を月一で掃除していた若が、偶然時寧ちゃんの最後に立ち会った。

 少なくとも30分はそこに動かずにいた。

 そのため私のところに着信が入った。

 私はすぐに迎えに行った。

 何かあったに違いない。マサとも現地で落ち合った。

 若は、

 時寧ちゃんの傍らに座り込んでいた。

 泣いた様子はなかった。

 ただ茫然とそこにいた。

 時寧ちゃんは亡くなっていた。

 若をマサに任せて、私は警察と会長に連絡した。

 検視をしても時寧ちゃんの死因はわからなかった。遺体の外側はとてもきれいだったので、内部からの原因しか考えられなかったが、目立ったものは何も見当たらなかった。持病もないし、むしろ健康そのものといった時寧ちゃんが突然死に至る要素は何もなかった。

 会長は引き続き時寧ちゃんの死因を追及する素振りを見せなかった。

 私にはわかった。

 会長には、すべてわかっていたのだ。

 会長は悲しんではいたが、驚いてはいなかった。時寧ちゃんの死さえも、会長の予想の範疇であった。

 通夜や葬儀で会長が源永ちゃんに言い聞かせた内容を私は憶えている。

 納家には関わるな。

 裏を返せば簡単だった。

 納家に関わったから、時寧ちゃんは亡くなった。そういうことなのだ。

 つまり、死因は呪いによるもの。

 巫女の死因も呪いに呑み込まれて、と聞く。

 だから尚のことおかしい。

 なぜ、時寧ちゃんの遺体は残ったのか。

 巫女であるかどうかの差異だけなのか。

 私はここにキーポイントがあるように思えてならない。

 社長もそう思ったからこそ、会長に直接問いただしに行った。

 結果、社長は自分の本当の母親が家政婦だったことを聞かされ、時寧ちゃんのことは有耶無耶に。

 使えない。

 やはり私も住職に接触するしかないのか。

 いや、住職に接触したことを会長に知られるわけにいかない。住職の口は決して硬そうに見えない。

 そして何より、

 住職は本当に信用に足る人物なのか私には到底思えない。

 あの人には何かある。

 後ろ暗い何かが。

 となると、他に誰かいるかだろうか。

「お久しぶりですわね」白竜胆しろりんどう会の幹部――小張オワリ有珠穂うすほから連絡が入った。

 マサが若の部屋をリアルタイムで見守っていたのでスピーカを絞るように眼線を送った。

 白竜胆会とは、KREが管理していた辺鄙な山を買ってそこに総本山を構えた新興宗教団体。弊社の得意先。

 そこの総裁との間に、ビジネス以上の関係を、社長は望んでいる。

 総裁こそが、社長がかつて婚約していた浅樋アサヒ律鶴雅りつるがその人なのだから。

「何か御用ですか?」私は言葉を選んで返答した。

「こんな時間に申し訳ございません」小張有珠穂も言葉を選んで話している。「いまよろしいかしら?」

 22時。

「ずいぶん深い時間ですけど」私は引き続き言葉を選ぶ。

「ええ、ですから、いまよろしいかしらと尋ねたのです」

 私はマサに別室に行くようにジェスチュアした。マサに会話の内容を聞かれたくなかったからではなく、こんな深い時間に私の隣に誰かがいた、と小張有珠穂に感づかれたくなかった。

「短時間なら」それと内容に依る。敢えて名言しなかったが伝わったと思う。

 小張有珠穂はとても察しがいい。

 私以上とは言わないが、これほどストレスなく話せる女は初めてだった。

「興味を引くよう努力しますわ」小張有珠穂が電話口で肩を竦めたような気がした。

「本題をどうぞ?」

「昨夜、源永さんがうちにいらっしゃいました」

「それはどうも? あ、いえ、ご迷惑をおかけしました」

 いけないいけない。他人をスパイ代わりに使ってはいけない。

「源永さん、とてもお疲れのご様子でして」小張有珠穂が言う。「ゆっくり休めていないのではと心配しています」

「さすがに社長の勤務体系について、ただの事務員でしかも本社勤めでもない私ではどうしようもなく」

「言い訳を聞こうと思って連絡したのではありません」小張有珠穂が淡々と言う。「総裁の記憶は戻っていませんし、これからも戻ることはおそらくありませんわ」

「それはあなたの見解でしょう? 専門医に診せたわけでもなし」

「戻りませんわ。それは確かです」小張有珠穂は自信満々に言いきる。「ですがこれを源永さんに告げるのは酷というもの。わたくしとしてはできれば伝えたくない」

「私に、やれというのですね?」

 小張有珠穂は、幼馴染の社長に入れ込んでいる。

 友人というにはちょっと、いや、だいぶ深い。

「ええ、お話が早くて結構ですわ。近日中にお願いしますわね」

「ちょっと待ってください」電話を切りそうな雰囲気があったので止めた。「用件はそれだけですか?」

「ええ、わたくしのほうからは。そちらから何か?」

「つかぬこととは存じますが、呪いと聞いて何か心当たりがありますか?」

 ドアの向こうからマサがのぞいている。

 電話を持つ手が少し痙攣した。

「呪い、ですか」小張有珠穂が呟く。「心当たりというか、わたくしの祖母がかつての巫女だったと聞いたことがありますわね」

 いま、

 なんて?

 言った??

「もう一度言いますわね。わたくしは、納家の巫女の血を引いています」









     2


 社長と小張オワリ有珠穂うすほは幼馴染だ。

 会長が口酸っぱく小張とは関わるなと言っても、社長は無視して小張有珠穂と友人として仲良くしていた。

 会長がなぜ小張と関わるなと言ったのか、その真意はよくわかっていない。過去に小張家との間に何かがあったのだろうと軽い推察は可能だが、真相には私でさえも迫れていない。書類上はまったくやましいところがないからだ。会長に問うたこともある。確かはぐらかされてしまってそれっきり。

 小張有珠穂の父、小張エイスはいわゆるアングラな彫刻家だった。それこそ若い頃は公にも認められて少なくない賞をもらったりもしていたが、彼の作風はとある人物をきっかけに様変わりする。

 それが白竜胆会の教祖――朝頼トモヨリマチハだった。教祖と出会い、彼は二人の子をもうけた。長男は宗教に馴染めず家を飛び出してそれきりだが、長女はいまは亡き教祖の後を継いだ。

 そして、父親の言いつけを破ってまで仲良くしていた小張有珠穂に社長が絶交を告げる事件。

 自殺したはずの浅樋律鶴雅が、朝頼マチハの養子になった。

 教祖の養子ということは、白竜胆会を継ぐことに他ならない。

 社長は、小張有珠穂に裏切られたと思った。

 小張有珠穂に、

 浅樋律鶴雅を奪われたと思った。

 翌日、仕事終わりに小張有珠穂と会うことになった。

 20時。

 場所は、私の自宅。

「お邪魔しますわね」小張有珠穂は白いサマードレスを着ていた。白い腕が完全に露出している。

 マサには席を外してもらった。会話の内容は私のケータイから聞こえているので問題ない。

「好きなところにどうぞ?」ソファを勧めた。

 紅茶とクッキーを用意した。

「納家については、そちらのほうがお詳しいでしょう?」小張有珠穂は入り口から一番遠いソファに座った。

「いえ、私はあまり」

「そうね、会長の代で途絶えたのでしたわね」

 カチカチと秒針がうるさい。

 視界の隅で小張有珠穂が紅茶を啜るのを見ていた。

「会長の代で?」

 なにか、

 ひっかかる。

「ええ、会長の代で。だってそうでしょう? もう誰も残っていない。わたくし以外」

「会長が納家の血を引いているのなら、いや、引いているっていう証拠が私には見当たりませんでしたけど、もし引いているのなら社長にだって」

「いいえ、源永さんには引き継いでいませんわ」

 返答が妙に早かった。

 否定したい気持ちがそれほどに強いのか。

「それは願望ですか? それとも、会長の血筋はやはり納家とは」

 一昨日みんなで集まったときに会長が社長に言っていた会話を脳内でリフレインする。

 ――亡くなった。3年前にな。いまは巫女がいない。驚かすわけじゃないが、お前の母は納家の巫女だった。つまり、お前にも納家の血が流れていることになる

 ――これも言っていなかったことだが、小張家も納家の血を引いとるんだ。エイスの娘なら資格は充分だ

 この二つは矛盾なく成り立つのか?

 私にはまだ手に入れていない情報がないか?

「納家の巫女はわたくしが継ぎます」小張有珠穂がきっぱりと言った。

「社長の母親は本当に手束さんなんですか?」

「それをわたくしに尋ねますの?」

「会長は何を隠しているんですか?」

「ですから、わたくしにお聞きにならずに」

 小張有珠穂の白い肩を掴んでいた。

「教えてください。会長が納家の血筋であるのなら、若は。若はどうなるんですか?」

「巫女は女しかなれませんわよ?」

「でも、若は黒が見えるとか言って」

「わたくしの父も見えていたと言っていました。血筋の男はそう言った体質が遺伝することがあるようです。そうでしたの。実敦さんにも、見えているのですね」小張有珠穂が私の眼を射る。「そろそろ放してくださらない? 肩に痕でも付けたら厄介なことになりますから」

「す、すみません」

 小張有珠穂が自分の肩をさらっと撫でる。「あなたの心配は源永さんでもわたくしでもなく、実敦さんなのですね。安心しました」

「若が呪いなんかに巻き込まれているのが耐えがたいんです。生きることを決めてくれたのは何よりも嬉しかったけど、それにしても、それにしたって、どうして私じゃなく、あんな、あんな呪いの巫女になんか」

 そうか、私は嫉妬していたのだ。

 ノウ水封儀みふぎに。

 もうあの女はいないのに。

 若はあの女を目標に生きている。生きる指針にしている。師匠と位置付けている。

 なんで。

 なんでなんでなんで。

「実敦さんへの影響はわかりませんわ。申し訳ないですけれど」小張有珠穂が言う。「ですが、わたくしが巫女を継げば問題はないのではなくて? 源永さんも無事ですし、実敦さんにも」

 誤魔化されている感じがした。

 小張有珠穂が巫女になることで、この呪いが溢れる壺を封じようとしている。

 それでいいのか?

「なぜすべてをつまびらかにしようとするの?」小張有珠穂が言う。恍惚とした笑みを浮かべながら。「知らなくていいことってありますでしょう? それがこれなの。誰も知らなくていいことは知らないままでいいのよ。誰にも知られないまま、この呪いはわたくしの中で満ちるの。それでいいでしょう?」

 不気味だった。

 自分を犠牲にして、それで悦に入っている。

「そんなにおかしいこと?」小張有珠穂が言う。「あなたが実敦さんを大切なように、わたくしは源永さんが大切なのです。それこそ自分の命と引き換えにしてもいいくらいに。そのくらい大切なの。ですから、何もおかしいことではないの。そうでしょう?」

 ぞっとするくらいの正論。

 これが、

 白竜胆会の二代目マチハ様か。

「今日はお話ができてよかったですわ」小張有珠穂が席を立つ。「遅い時間にごめんなさいね。何も心配は要りません。わたくしたちの大切な人たちは、これからも幸せに過ごすの」

 いいえ、と小張有珠穂が言い直す。

「これから、もっと、幸せに、ですわね」

 何を企んでいる?

 彼女は、

 敵か味方か。

「これからも、どうぞよろしくお願いしますわね」小張有珠穂が女神のごとく微笑む。

「こちらこそ」

 入れ違いでマサがやってきた。

 22時。

「ちょっと混乱してる。相手できるかわからない」

「帰れと言われない限りはここにいます」マサはわかったような顔でベッドに座った。

 どうする?

 これでいいのか?

 何か、決定的なことを見落としていないか?

 マサが隣にいるのも構わず、社長に電話をかけた。

「なによ。何時だと思ってるの?」社長はすぐに出た。

「小張有珠穂のことです」

 沈黙。

 社長は、私が何を言いたいのかすぐに察したようだった。

「聞いたの?」社長が重い口を開く。

「社長にはその血が流れているんですか?」

 納家の血。

 巫女の血。

 呪いを祓う血。

「わからないわ。わかんないの。なんで、なんで私じゃなくてウスホが」

 それでいいのだろうか。

 もし、

 小張有珠穂が呪いに呑まれたらその次は。

「やめさせないと」社長が決意したように言う。「協力しなさい。伊舞」




















     03


 源永は、子どもを産んですぐ社長職に復帰した。

 子どものことなんかすっかり忘れて。

 子どもは、社長職を退いた義父さんと、家政婦に身をやつした義母さんが育てた。

 名は、実敦と付けられた。

 義父さんと義母さんが付けた。

 いい名前だと思った。

 僕は子育てに参加できなかった。

 家からも会社からも遠ざけられて、実敦――サネとの接触も禁止された。

 当然と思った。

 それだけのことをしたことはわかっている。

 でも、僕はサネを大切に思っている。責任を取らせてほしいと頭を下げたが駄目だった。

 責任を取りたいのなら二度と顔を見せるなと、義父さんに言われた。眼も合わせてもらえなかった。義母さんは廊下でずっと泣いていた。すすり泣く声が聞こえていた。

 源永に会っても同じだった。

「あんた、誰?」

 源永は、サネのことだけじゃなくて、僕のことも忘れてしまった。

 思い出してほしいわけじゃない。

 許してほしいわけでもない。

 ただ、

 サネを僕に譲ってほしかった。

 誰も愛さないのなら、

 僕が、

 僕がいっぱい愛してあげないと。

 サネはいまも悲しんでいる。

 ずっと見ている。

 ずっと聞いている。

 知っている。

 サネが、

 ずっと泣いてるってこと。

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