あの人の声が聞こえる

浮世ばなれ

第1話 12年前

 12年前の勝谷町。連なる山脈が太陽の光で紅く染まっている。まだ幼かった私には、絵に描いた背景にしか思えなかった。

 段差のある斜面には田んぼが当たり一面に広がり、合間を縫うようにポツポツと家が下まで続いている。

 黒に近い灰色の泥が両足にまとわりつく。私は半分ぐらい固まった泥の、よく分からない場所に足を突っ込んで立っていたのだ。

「見て、夏子。こんだけおっきいの見たことないよね」

 後ろから声をかけられて振り返ると、そこには夕日をバッグにして、大きめの網目をした麦わら帽子を被った私と同い年の優花が両手を向けて、こちらを見ていた。少し優花より背が低かった私は、身体が影になってそれがよく見えた。泥団子だ。両手の指からポタポタと泥が垂れていて、徐々にサイズが小さくなっているのが丸わかりだった。

「ダメ、優花。もっと固めないと」

「うわー良く見てるよね。夏子って」

 優花と言われた子は、ショートヘアの髪をお母さんに言われた通り、後ろで結んでいた。対する私は、優花より少し長い肩までかかった髪を見た。少し前から泥がついている。だから少し、私も優花みたいに結んでくるべきだったと、心の中で後悔していた。

「どこ見てるの?」

 優花は多分、目線が泥団子じゃなくて、頭部にあることに疑問を持ったから聞いてきたのだろう。でも私は目をそらすことが出来なかった。

 それは結んでいた髪を気にしていたから気がついたのだ。優花の背後の淡い夕焼け空。そこに一筋の白い煙が天に向かって立ち込めている。

「あっち」

 私は指差した。優花は目を数回まばたきさせてから振り返る。

「どれよ」

「見える? あの、もくもくしてるの」

「うん。あれ、夏子の家の方向じゃない?」

「………そうだよ」

 幼い頃の勘というモノはバカに出来ない。まだ世の中のことが理解できなくても、それがなんとなく分かってしまう。私は手が震え始めたことを自覚した。

 急に泥で足の裏が気持ち悪いとか、手についた泥の中に小さな虫がいて、それが動いているとか、どうでも良くなってきた。

 私はアスファルトで塗装された道に乗り上げて座ると、雑に手で足の泥をとっては捨ててを幾度か繰り返した。

 裸足でサンダルを履くのがこの頃からあまり好きではなかった。足裏の皮膚とサンダルの面の間に砂利が混じると、チクチクして痛いからだった。

 でもそれどころじゃないと私の身体が、いや、心が言っている。

 優花を見ると、私よりも早く戻る準備が終わって待っていた。

「急いだほうがいいよ」

「分かってるわよ。優花」

 私と優花は走った。丸っこい太陽の半分が山の向こう側に隠れている。夕日が眩しさが目に直接入ってきて、思わず目を地面に向ける。

『夏子ごめんね』

 突如優しい声する。聞き間違うはずがない。お母さんの声だ。

 夏子は蝉の鳴き声が聞こえる中心で立ち止まり、首を捻って辺りを見渡した。いるのは優花だけだ。

 生暖かい風が夏子に向かって吹いては消えていく。そのまま幻覚がイメージとなり、目の角膜の奥からお母さんの姿が映し出された。

 川がある。それはさっきの田んぼのドブ川とは違う。澄んでいて下の石、一つ一つまでくっきりと見える。その川にお母さんが立っている。

 なんでここにいるの。私は魂の限り叫んだ。

 私は私のことを分かっていた。そしてお母さんのイメージが、何かも、生まれた時から言葉にしなくても知っていた。


「夏子、どうしたの」

 ハッと現実に戻った。優花が心配そうにこちらを見ている。

「帰るんじゃなかったの? あなたの家に」

「そうだ、そうだったね。私、今なにしてた?」

「必死に走ってたのに急に止まって、ボーとしてたわよ。それにお母さんって叫んでた」

「…そっか。行こう」

 私は優花の手を掴んで紅く照らされた一本の煙に向かって走り始めた。私はこれ以降、優花と手を繋いで帰った。今は少しでも温もりを感じたかったのだ。生きている温もりをだ。


 階段を降りて行くと私の家の周りに人が密集していた。その中心には巨大な炎が渦巻きながら木造の家を包み込み燃え盛っている。田んぼから見えた煙は、やはり私の家から吹き出したものだった。

「ちょっとなによこれ」

 自分の家が燃えている。

 頭では分かっていても感情の処理が追いつかない。隣にいる優花も同じように立ちすくんでいた。

 私の家の家族構成はお父さんとお母さんがいて一人娘として私がいる。そして今日、私が田んぼで優花と遊ぶことを玄関から靴を履いて出て行く時、部屋の中にいる両親に伝えていた。

 なんで。私の家が。どうして。そう思うたびに私はそれしか考えられなくなる。道をふさいでいた大人の足と足の間を細い体ですり抜ける。

 家を取り囲むようにポールが並び、そこに立入禁止のテープを張っている人物がいる。

 勝谷町の消防隊のサイレンが鳴り響く。皆険しい顔をして私の家を見ている。

 1人、見知った顔がいた。中府真。お父さんの実の弟、つまり私の叔父だ。

 真は業火の炎をじっと見つめていた。そっと私は近づいた。

「真さん……真さん…だよね。一体なにがあったの? お父さんとお母さんは無…事……だよね?」

「……夏…子…」

 私の存在に気づいた真はそう言ってしゃがみ込む。まるで私を燃える家から視界を逸らすようにして。

 私の腰にお尻に手が回り込む。真に優しく抱擁された私のつま先が地面から離れた。

 真さんは自分の腕で、私の視界を隠す。まだ五歳である私が、行き場のない悲しみを覚えないように考慮していたのだろう。しかし爪が甘かった。真さんの肩から、わずかに私は家の中の様子が伺えた。

 木の柱はすでに黒く焦げ、縁側に置かれていた私が置いた花瓶に入れた花も跡形もない。何より熱風が凄すぎて、目をパチパチしないと、こっちが焼けてしまいそうだ。

 それでも探した。お父さんとお母さんの姿。居るとすれば奥の座敷か、リビング。猛火で天井を支える柱さえ、燃え尽きようとしている。

 まだ5年しか生きていなくても分かる。この中にいるとすれば、絶対に助からない。

「夏子…死は人を悲しめる…でも、それを変えれるのは、生きている者だけだ」

 耳元で真さんの鮮明な言葉が耳に吸い込まれる。

 気づけば私の頬には涙が滝のように流れ出ていた。誰かに訴えるるように噎び泣く。

 車の後部座席でチャイルドシート座り、都会へと連れていかれる私。木にくっついていた蝉を取ってくれたお父さん。私とお父さんが座って待っている机の上に料理を運んでくれたお母さん。

 共に過ごしてわずか5年の、それでも、生まれて初めて見た人の顔の、安心感と抱擁感が、フラッシュバックする。

 それは川の流れのように独りでに、私の言うことも聞かない。何もかもが下流に流されていく。

 

 この事件以前と比べると以後の私は少し暗くなった気がする。

 それはお父さんとお母さんが白骨化した姿となって、焼けた家から出てきたからだとは断言できない。

 でもきっと私の人生の中では大きな出来事だった。

 だって高校2年の2学期の終わり時期に差し掛かった今もなお、まぶたの下には、あの光景が広がっていた。

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