第2話 心ここにあらず

 コツコツと黒板にチョークが当たる音が教室の中に響く。作者の気持ちってなんの意味があるのだろう。テストで出るところだと、強調するために丸く囲まれた文字を見つめながら、私は思った。

 出題者は本当に作者にここは、こういう気持ちで書きましたと聞いたのかどうか、それを証明するものがなにもない。それに、嘘つかれてる場合もあるだろう。本当は締切が近くて、この話のこの部分は、内心急いで書き上げました。生活費を稼ぐために、この小説を出版しました。母親が死の縁を彷徨っていて、心の半分以上はそっちに持っていかれてたけど、なんとか商業作家としてなんとか書き上げました。みたいな気持ちを持っていてもおかしくないはずだ。

 出会ったこともない作家の気持ちより、クラスのみんなの内心なら分かる。教科書の文字を口に出して読み上げながら私は思考していた。早く休み時間が来ないかなと思っているに違いない。

 でも私は違う。

『夏子』

 頭の中から声が聞こえる。これは〈死者の声〉というビジネスの反動だった。私の特殊能力と言っても過言ではない。なんたって私は死んだ人間の声を聞き取ることができるのだ。

 

「…えー、では次の文書読んでくれる人は…」

 髪のほとんどが白くなった、50代後半の国語の先生。緑のカーディガンがまた、よく似合っている。

 キョロキョロと目が動く。やがて先生は、絶妙に机に広げた教科書から目を外し、斜め下の方向を向いている、夏子を見つけた。

「中府夏子さん。お願いします」


 先生が何か音を発したのには気づいていた。しかし、この声の厄介なところは、聞こえた瞬間から、心がどこか別の空間に転送されてしまうことだ。いつの間にか、私の目の前には、例の三途の川が音もたてず流れていた。その川を挟む形で、私と幽霊が向かい合っている。

 幽霊に形はない。影として灰色のモヤモヤと、光る目が見えるだけだ。ただいつも私を呼んでいる。なぜなのか知らない。一見、山頂から流れてくる勝谷川と同じぐらいの綺麗な鮮度をしていて、飲めるのではないかとさえ思えてくる。

 しかし、この川を渡ることはできない。

 誰に教えてもらった訳でもない。しかし、この川が生きている私の世界と死んだ幽霊が住む世界の境界線であることぐらいは分かる。

「中府さん。聞いてますか、中府さん」

 国語の先生の声が聞こえる。足裏で確かに踏んでいるはずの、河辺の砂利が感覚ごと消えていく。

 川が、水ごと薄くなり、今まで視界に映ることがなかった、学校の茶色い木でできた机が見え始める。

 ハッと我に帰った。

 川だと思っていた部分が実は、机の木目だという事実を突きつけられる。慌てて両手を伸ばして、教科書を持つ。とりあえずさっきまで先生が話していた内容を思い出す。

「教科書の39ページだよ」

 隣の席にいる幼なじみの優花が、小声で言ってくれた。

「ありがとう」

 気まずさで、優花のほうを向けずに、教科書を見ながらお礼を言う。そして文字を目で追うと、読むべき場所を目でしっかりと捉える。今や私は完全に現実に帰ってきたのだった。


 キーンコーンカーンコーン。

 キーンコーンカーンコーン。

 教室の端っこに付いているスピーカーからチャイムが鳴る。授業は終了した合図だ。

 足音が二つ、私に近づいてくる。

「夏子ったら。またいつもの声が聞こえたの?」

 優花が冷静な低い声で口調で言った。かつて幼かった彼女の姿はもう、面影しか残っていない。今はサラサラのロングストレートの黒髪を後ろで束ねて、ポニーテールにしている。

「うん。最近は少なくなったと思ったのに」

「確か突破的に頭の中に死人が現れるんでしょ?」

「川と一緒にね」

「厄介なものね。私はさ、」

「夏子ちゃん」

 優花と共に私の机の横にきたもう一人の女の子が口を開いた。

「私は尊敬してるよ。高校生で、将来のことを考えてビジネス展開なんて、すごいよ。それに優花ちゃんもさ、夏子ちゃんの人生にまで口を出す必要はないと思うよ」

「そ、そうだね。ごめんねなんか」

 今のが青島美穂。青いメガネが私の中でトレードマークの女の子。

 2人とも私の数少ない友達だった。

「美穂、夏子、なんか私、今ピリピリしてたよね。そうだ、ほら次の次が体育じゃん。しかもバスケ。嫌なことやろうとするよ心も穏やかじゃなくなるしさ」

「体操服に着替えるために倉庫までの移動時間もかかるしね」

 私たち三人は大の運動ぎらいだった。もっともだから三人共仲良くなれたのかもしれない。クラスの体育大会で端っこにいた私たちは自然に言葉を交わし始め、いつのまにか愚痴を吐くようになり、お互いのことを喋るようになっていった。

 

 休み時間などあっという間に過ぎ去ってゆく。私たちは真っ白い体操服に身を包んでいた。蝉の重奏が聞こえてくる。意識をそちらに向けながらも、目線は前の女子のつむじらへんから動かさない。

 汗が顎を伝う。縦横に一ミリたりともはみ出していない綺麗な整列が、この体育のしんどさを物語っている。

 体育の先生は市販で売っているよう上下別々の柄のジャージを着て、私たち生徒の前でバスケのルール説明をしている。がたいの良い、スポーツ狩りのザ・体育教師というような出立ちだった。


 始まるチーム分け。女子がゴールネットを揺らしたら三点らしい。でも、それは運動神経が良い人から優先だ。私は見向きもされない。

 誰からも必要とされていない感覚。体育をやるたびに感じてしまう。だから嫌いなのだ。

 結局は「お前いたの」とばかりの人数合わせで、チームに入れられる。

「おーし、リーダー誰にする?」

「普通言い出しっぺがいくでしょ」

「なんだよ。俺かよ」

 最初に口を開いたのが、雅音貴大。男子にしては身長が小さく、私と変わらない。そして次が剛石諒。声が大きい男子だ。

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